(やばい!やらかした!)
命令違反を犯してしまったノアは、鋭い視線を感じて冷汗をかく。
視線の主はグレイアスだと確信し、おそるおそるそこに視線を向ける。
夜会嫌いのグレイアスだが、今日に限ってはノアの補佐と監視のために参加しているのだ。きっと彼は教え子の失態を見て、鬼の形相でいるのだろう。
そう震えあがったノアだが、グレイアスは持ち場を離れていた。
キョロキョロと小さな彼を探すと、グレイアスは招待客に扮したフレシアの隣にいた。二人とも、会場の隅にいる。
フレシアは美人だ。着飾った状態で壁の花でいれば、男性は放っておくはずがない。実際、現在フレシアの周りには、下心丸出しの貴族青年達が輪を作っている。
なんだかんだいって妹を溺愛しているグレイアスが、それを見逃すはずはない。ノアもフレシアを口説こうとする連中を追い払ってくれる彼に心の中でエールを送る。
そんなふうに意識を余所にむけている間に、アシェルはノアの手の甲から唇を離して口を開いた。
「兄上、あまりノアを虐めないでやってください。先日、ノアは兄上と会ってから、盲目の私でもわかるくらいずっと気落ちしております。これからノアは王族の一員として、兄上と長い付き合いをするのですから」
神妙な口調で言ったアシェルは、奇麗な所作でローガンに顔を下げた。
すぐさま辺りから悲鳴やら、ローガンを非難する声があがる。ノアはすかさず寂しそうな笑みを作った。
『殿下が意味不明なことを言ったら、とにかく寂しそうに笑え』
夜会前日に、目をバキバキにしたグレイアスにそう命じられた。もう、それ自体が意味不明である。
思わず首を傾げたノアに、グレイアスは「とにかく寂しそうに笑え!いいな?」と脅された。
あの時の恐怖は、今でも鮮明に覚えている。
思い出した途端、身体をぶるりと震わせたノアを見て、招待客は憐れみの表情を浮かべ、更にざわざわする。
「まぁ、おかわいそうに……でもアシェル殿下がお選びになられたお方なら、それ相応のマナーを身に着けないと……」
「でも、アシェル殿下がいいとおっしゃったなら、いいんではないですの?」
「そうですわ。アシェル殿下がそう仰ってるのなら、それが正しいわ」
「ローガン殿下も、もう少し慈愛の御心を持ってくださればよろしいのに」
「本当ですわ。アシェル殿下もあのお嬢様もお気の毒に……」
コソコソと囁き合うのは、妙齢の女性たちだ。
かなりアシェルびいきの発言だ。だが、正論不正論に関係なく、悪者にされたローガンにとっては耐えがたい屈辱だろう。
「お、弟よ……誤解を招く発言はやめてくれ。ただ俺は、王族としての自覚を持たせようと……な?」
「それは私がすべきことです。だが、私は彼女に堅苦しい宮廷マナーを身に着けさせる気はございません」
ノアを守るように一歩前に出たアシェルは、きっぱりと言った。
その姿はさながら姫を守る騎士のようで、若い女性から「キャー」と黄色い悲鳴があがる。
世論を味方にしたアシェルに、ローガンは怒りでワナワナと震える。無言でいるクリスティーナに至っては、今にもその長い爪で襲いかかりそうな勢いだ。
突如として始まった王族の兄弟喧嘩に、ギャラリーのざわめきはどんどん大きくなる。
これは、呑気に微笑んでいる場合ではない。流石に止めないと、グレイアスに本気で叱られる。身の危険を感じたノアが、アシェルとローガンの間に割って入ろうした。
だが、一歩踏み出す前に、先ほどの鋭い視線を感じてノアの足が止まった。
再び視線の主を探そうとした瞬間、慣れ親しんだ声がノアの耳朶を刺した。
「はぁーん。ノア、あんた割の良い仕事が見つかったって言ってたけど、まさか殿下の奥様ーーいわゆる永久就職するとは、あたしゃ知らんかったわ」
背後から聞こえたのは、上品な会場にそぐわない下町言葉。加えて語尾がやたらと強い鬼ババアのような口調。
これが誰かなど、振り返って確認しなくてもわかる。ノアの育った孤児院の院長ロキである。
思いもよらない人物の登場に、ノアは「ひょえぅぇっっ~」っと間抜けな悲鳴を上げてしまった。