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第六話 軽い事件、あるいは猫誘拐未遂騒動
その騒動は、晴れた日曜日の午後に起きた。
僕は珍しく筆が進み、昼過ぎには十五枚ほど書けていた。真紀は休みで、洗濯をしながら鼻歌を歌っていた。先生はベランダで寝そべり、春めいた風にひげを揺らしていた。こういう、いかにも平和な時間は、たいがい急に壊れる。
「すみませーん!」
外から、甲高い女の声がした。
ベランダをのぞくと、アパートの下に見知らぬ女性が立っていた。三十代くらい、派手なスカーフを巻いて、大きなサングラスを頭に乗せている。彼女は先生を指さしていた。
「その猫、うちの子なんですけど!」
「は?」
僕と真紀は顔を見合わせた。
急いで外へ出ると、女性はスマホを見せてきた。そこには、たしかによく似た灰白ぶち猫の写真があった。ただし、写真の猫は首輪をして、どこか柔らかそうなクッションの上にいる。先生とは、雰囲気が違う。先生はもっと野垂れた王様みたいな顔をしている。
「一週間前からいなくなってて。ずっと探してたんです」
「いや、でもこの猫、うちにはもっと前から」
「でも似てるでしょう?」
「似てるっていうか……猫ですから」
僕の言い方が癪に障ったのか、女性は眉をつり上げた。
「盗んだんじゃないでしょうね」
「はあ?」
「だって最近多いんですよ、猫の連れ去り!」
真紀が僕の腕を軽くつかんだ。余計なことを言うな、の合図だった。
「落ち着いてください」
真紀が柔らかく言った。
「もし本当に探してる猫ちゃんなら、大事なことですし。ちょっと確認しましょう」
「確認って?」
「この子、呼んだら反応しますか?」
女性は胸を張った。
「もちろん。ミルフィー! ミルちゃん!」
ベランダの先生は、毛づくろいに夢中だった。
「ミルフィー!」
「……」
「ミルちゃん! ママよ!」
「……」
先生はちらりとも見なかった。
女性の顔が曇る。
「ほら」
僕が言うと、
「猫なんて気分屋だから!」と女性は怒鳴った。
騒ぎを聞きつけて、隣の部屋の老夫婦や、大家のおばさんまで出てきた。
日曜のアパートには、こういうときだけ妙な連帯感が生まれる。
事情を説明すると、大家のおばさんが「その猫なら冬からいるわよ」と証言した。隣の老夫婦も「ああ、あの態度のでかい猫ね」と頷いた。
しかし女性も引き下がらない。
「でもそっくりなんです!」
「似てる猫はいますよ」
「じゃあ証拠見せてくださいよ!」
「猫の何の証拠を」
「うちの子は右の肉球に黒い模様があるんです!」
真紀と僕は同時にベランダを見た。先生は察したらしく、すっと立ち上がった。
「逃げるなよ」
僕が言った瞬間、先生はベランダの柵を飛び越えた。
「うわっ!」
幸い一階だったので危険はなかったが、そのまま路地へ走り去る。女性が「ミルちゃん!」と追いかけ、僕も「先生!」と追いかけ、真紀が「ちょっと二人とも!」と追いかける。休日の住宅街を、猫一匹のために大人三人が全力疾走する羽目になった。
先生は三軒先の空き地で立ち止まり、悠然とこちらを振り返った。
息を切らしながら近づくと、先生は前足を舐めている。女性が恐る恐る足裏を見ようとすると、先生は迷惑そうに手を引っ込めた。僕が抱き上げようとすると逃げようとしたので、真紀が「先生、おやつ」と小声で呼んだ。先生はぴたりと止まった。現金だ。
真紀がそっと前足を持ち上げる。
肉球は、きれいに桃色だった。黒い模様などなかった。
「あ……」
女性が言葉を失う。
そのとき遠くから、別の猫の鳴き声がした。塀の上に、先生そっくりの灰白ぶちが現れた。ただし首輪をしている。女性が振り向き、「ミルフィー!」と叫ぶ。そっちの猫は迷惑そうに尻尾を振り、しかし確かに女性の声に反応していた。
女性は顔を真っ赤にして頭を下げた。
「す、すみません……」
「いえ」
真紀が苦笑する。
「見つかってよかったです」
「ほんとにすみません、泥棒扱いみたいなこと」
「まあ、猫が無事なら」
僕がそう言うと、女性は何度も謝りながら去っていった。塀の上のミルフィーは、最後まで先生と見分けのつかない顔でこちらを見ていた。
先生は僕の腕の中で大欠伸をした。
「お前な……」
「にゃ」
何一つ悪いと思っていない返事だった。
家に戻ると、大家のおばさんが笑いながら言った。
「人気者じゃない、先生」
「迷惑なだけです」
「でも、あんたたち夫婦、ちょっと元気になった顔してるわよ」
その言葉に、僕と真紀は顔を見合わせた。
たしかに、久しぶりに二人で同じ方向へ全力で走った気がした。