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第七話 書くことは、結局いつもひとりだ
猫騒動のあと、家の空気が少し変わった。
問題が解決したわけじゃない。家賃も現実も締切もそのままだ。けれど、僕はようやく少しだけ、自分の情けなさを真正面から見られるようになった気がした。売れないことは不幸ではあるが、美学ではない。苦しいことは事実だが、免罪符にはならない。真紀の努力は僕の言い訳のためにあるんじゃない。そう考えると、書くしかなかった。
夜更け、真紀が寝たあと、僕はひとり机に向かう。
カタカタというキーの音と、冷蔵庫の低い唸りだけが部屋にある。先生は窓辺で丸くなっている。ときどきこちらを見て、また目を閉じる。僕が何を書いているか興味もない。けれどいてくれるだけで、なぜか完全な孤独にはならない。
物語の中に、猫を入れた。
勝手に住みついた元野良猫。売れない小説家。支える妻。喧嘩。情けなさ。笑えるぐらいみっともない日常。それを書き始めたら、急に文章が前へ進んだ。たぶん僕は、ずっと“文学的であらねばならない”と気取って、自分の生活の滑稽さを見ないふりしていたのだ。けれど生活というのは、もっと不格好で、もっと可笑しく、もっと切実だ。
深夜三時、真紀が起きてきた。
「まだ起きてる」
「うん」
「進んだ?」
「ちょっと見て」
僕が画面を差し出すと、真紀は眠そうな目で数ページ読んだ。先生が書かれた場面で、くすっと笑う。夫婦喧嘩の場面で眉を下げる。最後まで読むと、彼女はそっとパソコンを閉じた。
「これ、いい」
「ほんと?」
「うん。あなたっぽい」
「それ、褒めてる?」
「今は褒めてる」
真紀は冷蔵庫から麦茶を出し、グラスを二つ置いた。
「ねえ」
「うん」
「私、この前、言いすぎた」
「いや、あれは僕が」
「最後まで聞いて。言いすぎたけど、嘘じゃなかった」
「うん」
「でもね、あなたが諦めかけてるのが怖かったの。売れないことよりそっちが嫌だった」
彼女はグラスの水滴を指でなぞりながら言った。
「売れるかどうかは、正直、私にもわからない。でも、書かない人になるのは違うと思った」
「……」
「だから怒った。ごめん」
「ありがとう」
僕は本気でそう思った。
「真紀」
「なに」
「たぶん僕、売れることにびびってた」
「え」
「売れなかったときの傷ばっかり気にしてたけど、もしかしたら逆で。ちゃんと読まれるのも、期待されるのも、怖かったのかもしれない」
「面倒くさいね」
「面倒くさいだろ」
「知ってる」
真紀は笑った。
その笑い方が、好きだった。
先生がのそのそ起きてきて、真紀の膝に前足をかけた。撫でろ、の催促である。真紀が撫でると、先生は喉を鳴らした。
「こいつはいいよな」
「何が」
「自分がどう見られるかとか、考えなくて」
「考えてたら野良できないよ」
「たしかに」
窓の外はまだ暗かった。
けれど、少しだけ朝の匂いがした。