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光街 葵
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51
#迅悠一
「犬飼……先輩……?」
辻󠄀の唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。
目の前に立つ男は、間違いなく犬飼澄晴だった。聞き馴染んだ軽い声。人懐っこい笑みを湛えた、いつもの顔。
だが、その手に握られている銃は、かつて彼が愛用していたボーダーの突撃銃ではない。ネイバーの不気味な黒い結晶技術が施され、銃身からは見たこともない紫色のトリオン光が静かに揺らめいている。
「その恰好は……何の真似だ、犬飼」
二宮の突き刺すような視線が、犬飼の胸元で鈍く光る異界の紋章へと向けられる。声は恐ろしいほどに平坦だったが、二宮の周囲の大気が、彼の強大すぎるトリオンの圧によってピキピキと震えていた。
血の一滴すら流れていない。それなのに、ここには戦場よりも冷酷な絶望が満ちていた。
「何の真似って、見れば分かるでしょ?」
犬飼は肩をすくめ、銃口をだらりと地面に向けたまま、悪戯っぽく微笑む。
「こっちのトリガー、すっごく面白いんだよね。玄界のトリガーみたいに『安全第一』で型に嵌まってなくてさ。自分のトリオンを、思った通りにいくらでも歪ませられる。……ほら」
犬飼が軽く指先を動かすと、銃身から紫色の不気味な誘導弾が数発、音もなく撃ち出された。それらは空中を蛇のようにのたうち回り、二宮たちの足元の岩を音もなく消滅させた。破壊の規模ではない。その弾道があまりにも不規則で、これまでのボーダーの戦術データには存在しない「異常な軌道」を描いていた。
「犬飼先輩、嘘ですよね……」
辻󠄀が一歩、前に進み出ようとする。その拳は白くなるほど強く握られていた。
辻󠄀の脳裏に、強烈な記憶がフラッシュバックする。
数年前、鳩原未来が姿を消したあの夜。何も知らされず、ただ置いていかれたショックで泣きそうな顔をしていた自分を、隊室の片隅で引き留めてくれたのは、他ならぬ犬飼だった。『残された側の気持ちを考えていないよね。本当に、ずるい人だよ』そう言って、いつもより少しだけ真面目な顔で、自分の肩を叩いてくれた先輩。あの言葉があったから、自分は二宮隊の一員として、今日まで前を向いて戦ってこられたのだ。
「鳩原先輩が密航した時、先輩は誰よりも怒っていたじゃないですか! なんで、その先輩と……同じことをするんですか……!」
辻󠄀の悲痛な叫びが、夜の荒野に虚しく響く。
その言葉を聞いた瞬間、犬飼の微笑みが、ほんの一瞬だけ、凍りついたように静止した。だが、すぐにそれは、いつも通りの無色の笑みへと戻る。
「怒ってたよ、本当にね」
犬飼は、まるで他人事のように淡々と言葉を紡いだ。
「だって、ずるいじゃん。鳩原先輩、あんなに『人が撃てない』って泣いて、悩んで、足手まといみたいに言われてたのにさ。……あの人、自分の全てを投げ打ってここへ来るとき、今まで見たこともないくらい、綺麗な顔で笑ってたんだよ」
犬飼の瞳の奥にある、底無しの虚無が、前髪の隙間から冷たく覗く。
犬飼澄晴という人間は、生まれてからずっと、何でも器用にこなせてしまう子供だった。勉強も、スポーツも、ボーダーの技術も、少しコツを掴めば人並み以上にできてしまった。努力の天才である二宮のように執念を燃やす必要もなければ、辻󠄀のように必死にしがみつく必要もなかった。だからこそ、犬飼にとって世界はいつも、最初から答えが分かっている”退屈なゲーム”だった。
二宮隊での完璧な勝利も、周囲からの称賛も、彼の心を本当の意味で満たしたことは一度もない。いつも、どこか醒めた目で盤面を見つめていた。
そんな彼の前に現れたのが、鳩原未来だった。致命的なまでに不器用で、優しすぎて人を撃てず、いつも泣きそうな顔をして、二宮の完璧な戦術の”お荷物”になっていた欠陥品の駒。
それなのに_あいつは、犬飼がどれだけ器用に立ち回っても届かなかった”世界の果て”へ、自分のすべてを投げ打って、一番最初に飛び出していったのだ。あの日、残された隊室で辻󠄀を慰めながら、犬飼が心の底から感じていた感情。それは、辻󠄀のような「悲しみ」ではなかった。二宮のような「怒り」でもなかった。
なんであんな不器用な人が、あんなに満たされた顔をして消えちゃうわけ?
それは、狂おしいほどの「嫉妬」だった。退屈なチェス盤の上で、自分だけが何一つ欲しいものを見つけられず、完璧な人形のように笑い続けていることへの、強烈な自己嫌悪と飢餓感だった。
「ずっと近くにいたのにさ。おれには一度も、そんな顔見せてくれなかった。……二宮さんも、辻ちゃんも、おれもさ、あんな風に全部を捨ててまで『見たいもの』なんて、何一つ持っていなかったのにね」
犬飼にとって、ボーダーでの日常も、二宮隊としての完璧な勝利も、すべてはただの”退屈なチェス盤”に過ぎなかった。人を撃てないという致命的な欠陥を持ちながら、それでも世界の果てを目指した鳩原未来。彼女が命を懸けて向かった向こう側の景色に、犬飼はただ、純粋すぎる狂気と好奇心で、魅了されてしまっていたのだ。
「だからね、辻󠄀ちゃん。おれは怒ってたんだよ。おれを置いて、一人でそんなに面白い場所に行っちゃったからさ」
犬飼はゆっくりと銃を構え、その銃口を、真っ直ぐに二宮の胸元へと向けた。親愛なる隊長へ、そしてかつての相棒へ。そこに憎しみや悪意は微塵もない。ただ、おもちゃに飽きた子供が次の箱を開けるような、絶対的な無関心がそこにあった。
「でも、こっちに来てやっと分かったよ。ここには、おれの知らないチェス盤がいくらでもある。二宮さんの作戦が、一瞬でひっくり返るようなめちゃくちゃな世界がさ」
犬飼は、これまでで最も深く、心からの喜びを湛えた笑顔を浮かべた。その笑顔は完璧に美しく、だからこそ、遺される二人の心を永久に生かすことも殺すこともない虚無へと叩き落とした。
「始めよっか。二宮さん、おれの誘導弾、避けられる?」
コメント
3件
読み終えました。 第3話、めちゃくちゃ重い展開でしたね……。犬飼がネイバー側に寝返った理由が「嫉妬」だったのが、すごく胸に刺さりました。器用すぎて何にものめり込めなかった彼が、あの鳩原未来だけは「自分を置いて行った」と感じた。その歪んだ動機が、キャラクターの解像度を一気に上げてたと思います。 辻の「鳩原先輩と同じことをするんですか」という叫びも、過去のエピソードとリンクしてて泣けました。一言一言が重いですね。続きが気になります。