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手元にあった湯呑みに手を当てると、寒さにかじかんだ手の緊張がゆるりと解けるのを感じた。チッ……チッ……と時計が小さく音を鳴らしているのが、「早く寝ろ」と舌打ちをしている様だった。現在時刻は午前一時。高校が冬休みに入り、学校のために起きる必要の無くなった僕は、毎晩毎晩、家族が寝静まってから、こうして夜更かしをしている。小学校の頃使い切らなかった五ミリ方眼を使って、僕は慣れない小説を書いていた。飽き性なので、数行書いてやめてしまった話も幾つかある。この数日で書いた小説は四つ程。どれも千字にも満たない幼稚な構成の話だったが、誰に読ますつもりでもない僕は、自分の書いた文字列を何度も何度も見返しては、ニタリと笑ったりするのだった。あらすじは毎回変わる。いじめられっ子の主人公をイケメンの同級生が助ける話、魔女の呪いで醜く変えられた主人公をイケメンの王子が救う話、奉公先でこき使われている主人公をイケメンの若旦那が好きになる話……時代も世界線も違う話ばかりだが、僕が一つ絶対変えないものがあった。そのイケメンの同級生も、イケメンの王子も、イケメンの若旦那も、目尻をはみ出しそうな程の長い二重線で、黒目はしば犬みたいに茶色くて、眉毛は男らしく、キリリと吊り上がっていて、まぶたにホクロが一つくっついている美男子という設定なのである。これは、僕の隣の席の生徒の特徴と一致している。否、一致させているのだ。夢小説というと分かり易いかもしれない。僕は男でありながら、隣の席の彼に、どうしようもなく惚れてしまったのだ。今まで、どんなに可愛らしい女の子を見ても良からぬ妄想をしなかった理由が、その時やっと分かったのだった。僕は……男の人が好きなんだ…………。
その人に出会うまで、自分の性向にピンと来ていなかった僕は、高校生になって初めて、人を好きになる経験をした。遅すぎる初恋のせいか、このときめきをどう処理したらいいのか分からなくて、僕は「好きな人をモデルにしたイケメン男子が不憫な主人公を愛の力で救う」筋書きの小説を書き、その主人公を自分と思い込んで読む事でその恋心を満足させるという、相当に気持ち悪い手段に出た。男らしくて、顔が良くて、高身長で、本当に恋愛小説の王子様が三次元に間違えて生まれて来た様な彼に、「同性が好き」なんて設定をつけるのはなんだか申し訳ない様な気がした僕は、彼がより王子様になる様、主人公を可愛い女の子としてしか書かなかった。
「雪谷君っ……」
「春子!」
「もう嫌われたのかと思っちゃった……っ」
「馬鹿……俺がお前を嫌う訳ねえだろ……」
「雪谷君……」
携帯小説を漁って取り入れた胸キュン話は、どうしても構成がテンプレをいくので、僕は度々悩まされた。それに、僕が困ったのはもう一つ、大体こういう風の話はちょっと大人なシーンが入るのだ。作者の都合で現実的でない同棲設定が入り、そのまま事になだれ込む。読むのも恥ずかしかったが、いざ応用として書き始めると、その恥は一入だった。なので、大抵付き合ったりのハッピーエンドを迎えると、彼等が純な関係のそのまま、僕はめでたしめでたしの文を書く事にしていた。家族が女ばっかりだったせいか、元々女っぽい趣味をしていた僕は、今まで読んだ姉の少女漫画、妹の携帯小説には書いてあった身も心も繋がるシーンが彼と自分の恋物語にない事に、書き手が自分である事も忘れて、あんなに好きって言ってたクセに!やっぱりアタシを抱いちゃくれないのね……と一読者としてアンチコメントを心の中で書き込む事もあった。僕はその度、じゃあ君が書いてくれれば良いじゃないか!と、また筆者に戻って反論したりするのだった。
さっきの湯呑みがスッカリ冷たくなっている事に気付いた。時計を見ると二時を回っている。一度でもあったかかった事はありませんと言わんばかりに冷え切った緑茶を、僕は苦そうに飲み込んだ。
一月も半月を過ぎ、僕は二週間ぶりに制服を着ていた。行ってきまあすと大きな声を出すと、まだ冬休み中の妹がいってらっしゃいと寝っ転がったまま言った。
雪の行軍である。まだ山の間から顔を出したばかりの冬の太陽が眩しい。日光は真白い雪に反射してそこら中から僕を照らした。冬休み前に持ち帰った教科書類をリュックにミッチリ詰め込んだせいで、いつもより一歩一歩が重い。既に踏み固められて氷になった雪の上を、滑らない様にしながら歩いた。教室に着くと、既に数人のクラスメートが到着していて、初詣でおみくじが大吉だったとか、お年玉が幾ら貰えたとか、そんな話に花を咲かせていた。窓際の一番後ろの角っこに僕の席はある。マフラーを解きながら向かうと、隣で眠っている彼の姿が目に入った。頬杖をついて、その薄い唇を少し歪めて彼は眠りこくっているのだった。僕は二週間ぶりのご尊顔にしばらく見惚れていたが、ふと自分の行動を自覚して慌てて席についた。課題の提出を済ませると、僕は組んだ自分の腕に頭を下ろして、寝たふりをしながら彼の顔をウットリ見つめ始めた。長いまつ毛が日の光を浴びて、涙袋に影を落としている。いつもはよく見えないまぶたのホクロも、眠っている今はよく見えた。