テラーノベル
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日曜日の朝。うっすら曇った空の下、駅前にはひんやりとした風が吹いていた。街路樹のイチョウは昨日よりも落ちていて、舞い落ちたたくさんの葉が足元に転がっていく。
秋が深まる気配に包まれながら、俺は胸の鼓動ばかり気にしていた。待ち合わせ時刻の九時半が近づく中、そわそわしながら、駅前にあるモニュメントの前に突っ立っていた。
(てっきり、時間厳守の氷室が先に来てると思ったのに、俺が待つ側になるなんて……それってなんか新鮮だけど、めちゃくちゃ緊張するじゃないか!)
手にしたスマホを何度も見直しながら、指先の微かな震えに気づいてしまう。そのたびに髪を直したり、服の裾を引っ張って整えたりして、どうにも落ち着かない。
どうせ、氷室みたいにキマらないってわかってるのに、それでも今日は、少しでもよく見られたかった。
「……ああ靴も、もうちょっとマシなのにしてくればよかったかも」
履き慣れたスニーカーの汚れを気にした、そのとき。背後から静かな足音が近づき、思わず振り返る。
「──おはよう、か、奏……」
そこには、少しカジュアルな服装の氷室が立っていた。グレーのシャツに、羽織ったジャケットがよく似合っている。その表情には、僅かな照れと期待が入り混じっていて、見慣れた“完璧”とは違う柔らかさがあった。
(おいおい、ちょっと待ってくれよ。制服姿とはまた違う、格好よさが氷室から漂っているだけじゃなく――)
「おはよう、氷室……あのさ、今、俺の名前――」
いつもは「葉月」と名字で呼んでいたのに、いきなりの“奏”呼びに心臓が一瞬で跳ねた。
「ふたりきりのときは、名前で呼んでもいいかと思ったんだ。もしかして……嫌だったか?」
少しだけ視線を外して言ったその声に、俺は即座に首を横に振った。
「全然イヤじゃない! ちょっとビックリしただけだから!」
友達に名前を呼ばれるのと、氷室に呼ばれるのとじゃ、響きがまるで違う。ものすごく特別に感じることができた上に照れすぎて、パニック寸前だった。
「だから奏も、俺のことを名前で呼んでほしい」
不意打ちみたいなお願いをされてしまい、頭の中が発狂しそうになる。
(しかも、ちょっと上目遣いなんてされたら——絶対に逃げ場がないだろ……)
「えっ……れ、蓮……っ?」
声が裏返りそうになるのを必死で抑えて、ようやく出てきたそのひと言に、氷室はふっと笑った。
「そんなに照れることか?」
「なに言ってるんだ、当たり前だろ! 氷室の下の名前なんて、俺の中じゃ特級レアなんだぞ!」
「ほら、また名字に戻ってる」
「あ、つい……無意識で」
照れ隠しの笑いとともに頬を掻くと、氷室は俺の背中にそっと手を置いた。そのぬくもりだけで、落ち着きを取り戻していくのがわかる。
「何度も名前で呼んでいれば、そのうちきっと慣れるさ。そろそろ行こう、映画館に」
その声に、こくりと頷く。
「うん。……あのさ、蓮。やっぱり照れるな」
言葉を口にした途端、ふわりと冷たい風が吹き抜け、赤く色づいた葉がふたりの間をひらりと舞った。その一瞬すら、なにかの暗示のように思えてしまった。
誰のものでもない俺たちだけの時間が、少しずつ日常に染み込んでいく。きっと今日が、そのはじまりになることを、妙に意識してしまったのだった。
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