うつむき加減に席に戻り、椅子に腰を下ろしてすぐに、久美子が気遣うような顔でそっと訊いてきた。
「また何か言われたの?」
「あぁ、うん……」
久美子は口ごもる私をちらと見てから、戸田に声をかける。
「戸田、今日、飲みに行こ」
戸田がぱっと笑顔になった。
「いいですね!お店は後で適当に電話してみて、だめなら行き当たりばったりでいいですよね」
「急に飲みに行くなんて決めて、大丈夫なの?」
二人ともパートナーがいるのに、と私は気になって訊ねた。
「大丈夫に決まってるでしょ。もちろん佳奈も大丈夫よね?久々に女子会しよう。それで元気出しなよ」
見てすぐ分かるような顔をしていたのかしら――。
私は二人に向かって大きく頷いた。
そうしてその夜、珍しく残業なしで退社した私たちは、うまい具合に予約を取ることができた居酒屋に向かった。案内されたのは、間仕切りとすだれを下ろせば一応のプライバシーは守られる、そんな席だった。
注文を済ませた後、久美子が早速口火を切った。
「それで?今日は大木にわざわざ別室に呼び出されてまで、何を言われたの?」
「実は……」
私は大きなため息を吐き出し、二人の方へ身を乗り出した。個室だし、周りも騒々しくて声が漏れにくいとはいえ、あまり大きな声では言いにくい内容だ。話し終えた途端、久美子の目が吊り上がった。
「なによ、それっ!腹立つっ!パワハラの上にセクハラ?佳奈、我慢してないで上に言った方がいいって」
戸田もこれ以上ないというくらい眉根をぎゅうっと寄せている。
「そうですよ。もう本部長なんか飛び越えて、人事に直接言った方がいいですよ。しっかしホント、大木って嫌な奴ですねぇ。上から目線で俺様気質、赴任してきた時から、いけ好かないのが来たって思ってましたけど、まったく、どうしてあんなのが課長なんでしょうかね。上に取り入るのが余程上手なんでしょうか。そもそもうちの会社って、社内恋愛、社内結婚って普通にあるくせに、取引先の人との恋愛はタブーだなんてことはないと思うんですよね。しかも、高原さんも早瀬さんも独身なわけでしょ?お互いにフリーなんだから別にいいじゃないですか、本当にヤッたとしても。余計なお世話ですよねっ」
戸田の勢いと、あからさまな表現に若干引きながら、私は念を押すように否定する。
「あの、私、ヤッてないから……」
しかし、すでにお酒が入っているせいもあって、私の声は二人の耳に届いていない。いつの間にか当の本人以上に熱くなり、鼻息も荒く大木のことで盛り上がってしまっている。
「大木のやつ、高原さんに嫉妬してるんだよ。というより、ライバル意識みたいな感じ?」
「あぁ、それはあるかもですね。大木って俺がイチバン、みたいなところがありますもん。ってことは、やつはまだ、早瀬さんのことが好きってことですか。俺のモノに手を出すなんて、みたいな?フラれた腹いせだかなんだか知りませんけど、さんざん嫌がらせしておいて、まだそんな風に思ってるとしたら、ほんっと、ナイですよねぇ」
「ナイナイ。そんなことしたら、佳奈にますます嫌われるってこと、分かんないのかしら。しかも勤務中、わざわざ呼び出して言うことかっての」
サワーをグイっと飲んで、戸田がぼそっと言った。
「……どうしてやります?」
久美子も日本酒の入った盃をくいっと飲み干し、少し考えるように宙を眺める。
「やっぱりアレじゃない?飲み物に何か入れるやつ」
私そっちのけで、二人の口から不穏な言葉が出始める。
「じゃあ、アレはどうです?わざとものすごく熱いお茶を出すとか、逆にものすごく温いやつとか出してみたりするっていうの」
「悪くないけど、弱くない?もっとこう、インパクトある方法をさ……」
二人の勢いに呑まれて、口を挟むタイミングをつかめないでいたが、そろそろその危ない会話を止めた方が良さそうだ。このまま放っておいたら、明日にもその「策」を実行してしまうのではないかと心配になってくる。私は二人を交互に見て、なだめるように言った。
「二人とも、私のことでそんなに怒ってくれて、すごく嬉しい。だけど、そういうことするのは、さすがに賛成できないよ」
私の言葉に二人はぽかんとした顔をした。私をしげしげと見てから顔を見合わせ、大声で笑い出した。
「そんなこと分かってるわよ。冗談よ、冗談」
久美子の言葉に大きく頷きながら、戸田もその後に続く。
「そうですよ。本当にやったりしませんよ」
「二人とも、本当にやりそうな勢いだったから焦ったわよ」
私はほっと胸を撫で下ろした。私以上に怒りながら、とんでもない企てまで考えてくれた二人のおかげで、沈んでいた気分はだいぶ浮上したような気がする。
「二人とも、愚痴を聞いてくれてありがとう。少し元気が出たよ」
礼を言ってから、信頼できるこの二人にならお願いしてみてもいいだろうかと、ふと思う。甘えだというのは分かっている。ダメもとだと思いながら、私はおずおずと切り出した。
「あのね。二人に改めて相談したいことがあってね……」
久美子と戸田は笑いを収めて私を見た。
「しばらくの間、高原さんの対応は、二人にやってもらえないかな?せめて課長が異動するまでの間だけでもいいの。実はね、高原さんの対応をした日って、いつも以上に課長の風当たりが強くなるの。最近ちょっと、きついなぁって、思っちゃって。甘えたことを言ってる自覚は十分にある。だけど……」
「私は別に構いませんよ」
あっさりと言う戸田に続いて、久美子も力強く頷いた。
「私も全然構わないよ。だいたいさ、普段は滅多に弱音を吐かない佳奈がそんなこと言うなんて、よっぽどだと思うんだよね。……それに実はね」
久美子はいったん言葉を切り、少しだけ言いにくそうな顔をして続けた。
「大木のそういうベクトルが佳奈に向かうようになって、うちらへの被害がけっこう緩和されたっていうか……。佳奈には罪悪感みたいなものをずっと感じてたの。だから、それくらいのこと、なんでもないよ」
「そうですよ。課長とか営業の人ってニ、三年でいなくなりますけど、うちらは自分でやめない限りここにいるわけですからね。どんどん助け合っていきましょうよ。それに……」
戸田はピザに手を伸ばしながら、にやっと笑った。
「高原さんなら大歓迎ですよ。だって、目の保養になりますもん」
久美子が戸田をからかう。
「そんなこと言っていいの?カレ、ヤキモチ焼くんじゃない?」
「いいんですよ、たまにはハラハラさせた方が。久美子さんも、時々は旦那さん以外の男の人も見た方がいいですよ。あんまり一途すぎると、そのうち鬱陶しがられますよ」
久美子が鼻で笑う。
「うちは、そんな心配はいらないの。……あ、ごめん。脱線しちゃった。それでえぇと、年度いっぱい、高原さんの対応は私と戸田で受け持つということでいいわけね。他の人にはバレると説明が面倒だから、この三人の中の暗黙の了解ってことでいいよね。でもさ、最初のカウンター対応って基本的に戸田だから、楽勝だね」
持つべきものは物分かりのいい頼りになる同僚だ。私は二人に頭を下げた。
「二人とも恩に着るわ!」
「恩には着なくてもいいんだけど、その代わり」
久美子と戸田が顔を見合わせてにやりとする。
「ここの分、ご馳走して下さいよ」
こうしてこの女子会で、私たちの間に内緒のルールが出来上がった。
ふと思い出したように、久美子が訊ねる。
「ねぇ、本当に高原さんとは何もないの?」
「ないよ、何も」
頭の中にあの夜のことが浮かび、動揺しかける。それに気づかれたくなくて、私は手元のグラスに手を伸ばしながら短く答えた。
「ふぅん?」
戸田の声にふと顔を上げる。私をじっと見つめる彼女の視線とぶつかった。
彼女はにやにやしていた。
「早瀬さんが頷けば、即お付き合いって流れになりそうなのになぁ。『ない』とか言っていないで、嫌いなタイプじゃないのなら、今度プライベートで会ってみたらどうですか?そうこうしているうちに、気持ちが芽生えるかもしれませんよ」
「は?何の話?」
目を見開く私に、戸田はくすくすっと笑う。
「だって、早瀬さんが対応できないって時の高原さんの顔ったら。ねぇ、久美子さん?」
「確かにね。佳奈の時とうちらの時とでは、表情が全然違うんだよねぇ」
久美子までにやにやと笑いながら私を見ている。
「表情が違うって、そんなことないでしょ」
密かにどきりとしたが、平静を保つ。私以外が対応した時の、やや不満げな彼の表情に気づいてはいたが、そんなにはっきりと分かるようなものではなかったはずだ。
「そう思ってるのは、佳奈だけだから。傍から見てると、ねぇ?」
「えぇ、ほんとに」
久美子と戸田は含み笑いをしつつ頷き合っている。すでにパートナーがいる二人は、他人の恋バナが好物だ。過去に二人の餌食となってしまった営業職がいたことを思い出し、話題を変えなければと私は急いで頭を巡らせた。
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