コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
日中なのに日が差さない為か薄暗い室内に、泣き疲れたような掠れた乳児の泣き声が小さく響いている。
その声に背を向けるようにダイニングテーブルに肘をついて頭を抱え込んでいる女性がいたが、彼女の顔は光がさしていないことを差し引いても暗く沈んでいて、その原因だろう泣き続ける乳児へと顔を向け、憎しみすら籠った目で睨みつけてしまう。
子供が早く欲しい思いから以前付き合っていた彼と別れ、泣いている子供の父と付き合い、念願の子供ができて出産したのに、現実は彼女が思い描いていたほど優しくなかった。
妊娠中に発覚した、事実婚の夫の浮気や言葉の暴力、出産後は彼女の体を顧みない言動に加え、言葉だけではなく実際に手を挙げるようになり、彼女の体の見えないところにはいくつものアザができるようになっていた。
子供に関しては責任を取れないのでまだ欲しくない、いつか欲しいと思うようになるまで待って欲しいと、申し訳なさそうに謝る誠実な、だけど当時の彼女からすればただのお人好しの甘いだけの彼に耐えられず、何事にも己の意思を押し通す強い男に惹かれ、いずれ結婚するかもしれないと思っていた彼と別れを選択したのだ。
その結果がこのザマかと己を嘲笑し、テーブルについた手が震えるほど肩を揺らして笑った彼女は、玄関のドアが開く音が聞こえたことに条件反射のように体を竦めてしまう。
前の恋人と別れた直後はグイグイと引っ張ってくれる男の行動力が単なる自己中心的な考えからではなく、男らしさの表れだと勘違いしていた事を今の彼女は痛いほど実感していて、ああ、また今日も子供が泣いていても関係なく己のやりたいようにやりたいことをするのだと暗く笑うと、玄関から続く廊下のドアが開き、薄暗い室内が更に暗い空気に満たされたように感じてしまう。
疲れたように泣く娘へと顔を向けた彼女は、無言で近づいてくる夫から逃げることもできず、ただ夫の思うがままにされてしまう。
抵抗らしい抵抗も何もできずにリビングへと腕を掴まれて連れていかれると、泣き続ける娘の声がうるさいと言い放ち、泣き声が少しでも聞こえないようにかドアを閉めてしまう。
物理的に遠くなった娘の泣き声を聴きながら、ロクに働くこともしないで昼日中から酒を飲んだり決して良い顔をされない友人たちとふらふらと遊び歩いているだけの男のキスを思考回路をシャットアウトして受け入れ、ただこの時間が早く過ぎ去ることを己のために祈り続けるのだった。
10月に入って日差しが当たる場所にいると少し汗ばむが、それでもまだまだ涼しい日が増えてきた朝、リアムと慶一朗が勤務する病院で、始業前のカンファレンスが行われていた。
部屋の照明を少し落とし、前方のホワイトボードに映し出される情報に疑問を呈したり意見を述べたりと、毎朝のこととは言えこの病院でのカンファレンスは活気があり、議題の中心人物になるドクターやナースらが意見交換をする様子を、今日は特に己が中心になることもないからとホワイトボードから遠い席で欠伸を堪えつつ眺めていた慶一朗は、斜め前方へと目を向け、そこに同じような眠そうな顔で話を聞いている同僚であり隣人であり、職場では秘密にしている恋人、リアムを発見する。
付き合いを秘密にしている恋人はこの病院に勤務するようになってまだ一年足らずだったが、小児科医としての腕前は以前からいるドクターらと遜色のないものだった。
大人でも苦手だと思う検査を子供に受けさせる時、一体どんな魔法を使っているんだと本気で教えてくれと言われるほど患者である子供たちは素直に検査を受け、手術が必要ならそちらも頑張った結果、元気になって退院していくのだ。
リアムが外来の診察をしている部屋からは子供の泣き声がほとんど聞こえないと、彼と一緒に仕事をするナースらが微笑ましい顔で話しているのを幾度となく耳にした慶一朗は、己の恋人がほかのスタッフから誉められていることを秘かに自慢に感じていた。
仕事も優秀な恋人はプライベートでも優秀としか言いようがなく、生活不能者と双子の兄から揶揄われる己とは正反対の、天は二物を与えずを否定するような生活を送っていた。
今朝もそうだが、同じ時間にお休みと言って眠りに落ちたはずが、朝は慶一朗よりも早く起きだし、金を出してもいいと思えるほど立派な朝食を用意し、朝が来たから起こしてくれるのだ。
今までの己の生活からすれば信じられないことにリアムと付き合いだしてから三食ほぼしっかりと食べるようになり、今朝もイングリッシュマフィンにベーコンとゆで卵-しかもゆで卵は慶一朗好みの半熟だった-を苦も無くテーブルに並べ、味見をしてくれと言って一口目を食べさせたのだ。
いい年をした大人が人に食べさせてもらうなど恥ずかしいとの思いは脳みその片隅に存在していたが、口の前に出される料理は今まで食べたどの料理よりも美味しく-それは例え前日に同じものを食べていたとしても美味しく感じられた-、ついつい子供のように食べてしまうのだ。
その、甲斐甲斐しい世話焼き具合を疑問-本音を言えば少しだけ薄気味悪さ-を感じて何故と問いかけたが、その疑問が不思議だと言いたげに驚いた後、きっとこれは己しか見ていないと思える突き抜けた青空のような笑みを浮かべてお前が好きだからと言い放ったのだ。
好きな相手の世話を焼く事に何ら苦痛を感じることもないのか、お前が好きで世話を焼くのも好きだからやっていると言われてしまえば慶一朗に返す言葉はなく、また感じていた薄気味悪さなど吹き飛ばすような笑顔に、お前がそうしたいのなら好きにしろとしか返せなかった。
その、信じられないほどのお人よしの恋人、リアム・フーバーの様子を斜め後ろから見つめていた慶一朗の耳に、カンファレンスの終わりを伝える挨拶が流れ込み、薄暗かった室内も明るくなった為、椅子から立ち上がって大きく伸びをする。
「・・・今日は早く帰れそうか?」
三々五々カンファレンスルームからドクターやナースが出て行き、今日の業務へと向かう中、さっきじっと見つめていたリアムが自然と隣に並び今日の予定を尋ねてくる。
「緊急の手術が入らなければ大丈夫だな」
小児科医であるリアムに比べれば脳神経外科医である慶一朗の方が緊急手術などの頻度が高く、今日も定時に仕事が終わったと言える日が少なかった。
だからではないが、もし今日の仕事が早く終われば市内のいつも行くパブに行かないかと誘われ、悪くないと小さな笑みを浮かべてリアムの腰に拳を押し付ける。
「ケイ?」
「・・・定時で帰れることを祈っててくれ」
「俺が知っている全ての言葉で祈ろうか」
頭半分高い位置にある愛嬌のある顔をちらりと見上げつつにやりと笑った慶一朗にリアムも同じ表情を返し、それぞれの診察室がある病棟に向かうために廊下を曲がる。
「終わったら連絡する」
「ああ」
友人同士が仕事終わりに飲みに行く、その約束をしているとしか思えない口調で今夜のデートの予約をしたリアムに慶一朗が付き合っているとは思えないそっけなさで頷くが、決して素直な感情を表に出さないだけだと伝えるように握った拳を自然な動作で口元に運び、薬指にキスをする。
それを瞼を閉じることで受け取ったリアムが踵を返すのを見送った慶一朗は、今日一日一緒に仕事をすることになる研修医のアンディが小走りに駆け寄ってきた事に気付き、緊急事態でもないのに病院内で走るなと笑み交じりに注意をするのだった。
生後六か月になるミシェル・シモンズが父親と思しき男に抱かれて診察室に入って来た時、一瞬だけリアムの脳裏に以前付き合っていた彼女の勝気な笑顔が思い浮かぶ。
初めて見る乳児の顔から別れた-どちらかといえば盛大に振られた-彼女を思い出してしまったのは、乳児のラストネームがさして珍しいものでもなく彼女と同じものだったからだろうと判断し、今日はどうしましたかと、父親らしき男に椅子を勧め、彼の腕の中でぐったりしているミシェルへと目を向ける。
「少し前から、調子が悪くなって…」
ミルクを与えても余り飲まず、ホームドクターに診察をしてもらったが原因が分からないので紹介状を書いてもらったと、子供の容態の説明をする口調は怯えている様子なのに視線の強さに違和感を覚えたリアムだったが、問診票と共にデスクにある紹介状へと目を通し、ミルクを与えてもすぐに吐いてしまう、栄養状態も良くないことなどを読み取ると、後ろにある簡易ベッドにミシェルを寝かせてくださいと告げ、泣く力もないのか、虚ろな目をした乳児の様子に眉を寄せてしまう。
生後六か月の乳児にしては確かに痩せていて、服の上から手で触っただけでも乳児特有の柔らかさよりも皮膚の薄さを感じ取ってしまい、リアムの脳裏に考えたくはないがどうしても考えてしまう言葉が沸き起こる。
それをぐっと堪えつつ椅子の上で落ち着きのない様子で診察を見守っている父親を振り返り、離乳食はもう始めているのかと問いかけつつ看護師の手を借りてミシェルの服を脱がせるが、見えた白い素肌はやはり想像通りで乳児特有のものとはかけ離れていた。
「離乳食はまだで、ミルク中心です」
母親が母乳も出ない役に立たない女なのでと、この時だけはやけにはっきりとした口調で返され、一瞬耳を疑ったリアムだったが、母乳の出が良い悪いで役に立つかどうかの判断は出来ないでしょうと苦笑交じりに返す。
腿の上で強く手を握っている男の足が小刻みに震えていて、緊張しているのかそもそも足を揺する癖があるのかと考えていたが、タトゥーが彫られている腕へと目を向け、そこに気になるものを見つけてしまう。
だが、男の腕のそれが幾ら気になったとしても、リアムの患者は目の前で泣くことすらできないほど衰弱しているミシェルで、聴診器を当てて内臓が弱っている事を確信し、自宅で様子を見るよりも入院した方がミシェルのためだという判断を下す。
「ミスター・シモンズ」
「俺はシモンズじゃない、アダムスだ」
「…ミスター・アダムス、ミシェルの容体が心配なので、今日にでも入院することは可能ですか?」
ミシェルと同じ姓ではない事を強い語気で伝えた男、ケヴィン・アダムスの言葉にリアムが感情をなるべく出さないように気を付けつつミシェルを入院させて経過観察をしたいこと、ミシェルの母親と一緒に明日にでも病院に来てほしい事を伝えて可能かどうかを問いかけるが、先ほどの語気を思えば信じられないほど素直に今からでも入院は大丈夫だと答えられて胸を撫で下ろす。
「では、入院に関する手続きや説明をソーシャルワーカーとナースから受けてください」
ミシェルはこのまま入院するので、病室の準備ができるまで待合室で待っていてほしいと伝え、ミシェルの入院に向けて慌ただしく動き出すバックヤードに顔を出して指示を与えるが、病棟のナースであるアナが程なくしてやってくるとその横に向かい、気になることがあると小さく囁く。
「特別な注意事項が?」
「ああ。・・・少し気になる」
ミシェルを腕に抱いて入ってきたケヴィン・アダムスと名乗った男だが、口調と言動のイメージが一致しない事、診察時の落ち着きのなさが引っかかると素直な感想をアナに伝えると、詳しいことは後で聞いた方が良さそうだとアナが判断をし、分かったとだけ返す。
「ミスター・アダムス、入院の説明をいたします」
こちらへどうぞ、ミシェルは看護師が病室に連れていきますとアナがケヴィンを連れて病室を出ていく。
その背中を見送ったリアムは、簡易ベッドでただ天井を見上げているだけのミシェルの顔を覗き込み、視線が重なったことを確かめると、不調の原因を調べるためにいくつか検査をする、注射もしなければならないけれど許してくれと言葉に出して幼い体で検査の苦痛に耐えてくれと祈ると、ミシェルが小さな手を持ち上げる。
小さなやせた手がリアムの指を掴み、ただそれだけのことに全力を使っている様子にリアムがきつく目を閉じ、すぐに不調の原因を発見してやるからと改めてミシェルに告げると、病棟から運ばれてきた小さなストレッチャーにミシェルを寝かせ、診察が終わり次第病棟に向かうこと、可能な検査の準備と技師たちへの連絡を頼むと伝え、脳裏にがっちりと引っかかっている疑問点をメモ用紙に殴り書きするのだった。
泥のような眠りから目を覚ました時、家の中は静まり返っていて、こんなにも静かな家などいつぶりだろうかと、靄がかかったような頭で思案するが、明確に思い出せないほど疲労が全身を覆っていた。
リビングのソファに起き上がり、ベッドルームのベビーベッドに寝かせている娘の様子を見るためにのろのろと立ち上がった時、重力とともに靄も足元へと落ちていったのか、何故こんなにも静かなのかという疑問が沸き起こり、瞬間的に娘がいない事を悟る。
「ミシェル・・・!!」
いつもいつも泣いてばかりでいなくなればどれほど楽になるかと頭の片隅で考えてしまう程手を焼き悩んでいながらも、それでも己が望んで生んだ娘は可愛くて、そのミシェルの声が聞こえない為にベッドルームに駆け込むが、小さなベビーベッドにも姿はなかった。
「い、や、どこ・・・!?」
お腹が空いたら泣いて満足すれば嬉しそうに笑うミシェルがいなくなってしまった事に蒼白になり、ミシェルの名を呼びながら狭い家を探し回る。
そしてその時、ミシェルだけではなく入籍はしていないが事実上の夫であるケヴィンの姿がないことに気付き、立っていられずにその場にへなへなと座り込んでしまう。
ミシェルの父であり己の恋人であるケヴィンは多少強引な所がある性格だったが、当時付き合っていた彼にないその強引さに惹かれてしまい、彼と結婚や子供に対する考え方の違いで口論が増えていたこともあり、一人で市内に出かけて飲んでいた時に声を掛けて来たケヴィンとそのまま関係を持ったのだ。
その一度の関係がズルズルと続き、当時付き合っていた彼に関係を問い詰められそうになった時、罪悪感や己の思いが通らないことへの苛立ちから優しかった彼を傷付けてしまう。
全ては己が悪い、申し訳ないと分かっていながらも素直になれず、とても酷い言葉で彼を傷付け、互いの心に永遠に残りそうな傷を与えて別れたのだ。
その別れの時を思い出して陰鬱な気分になった彼女だったが、今はそんな気分に浸っている時ではないことを思い出し、娘はどこと乱れた長い髪を掻き上げるが、その時漸く己が下着一枚の姿である事に気付き、リビングの床に散乱していた服を身に着ける。
ケヴィンの性格は強引で、その直前に付き合っていた彼とは全く違う性格に惹かれて二人同時に付き合っていたが、彼との別れを選んでケヴィンと付き合いだした後、その強引さは暴力性を伴うものである事を、彼女はその身でもって知る事になってしまう。
まだ前の彼と付き合っている時にケヴィンと同時に関係を持っていて、避妊という考えがないケヴィンとの間に子供が出来たのはある意味当然のことだった。
彼女の妊娠も別れの一端となったのだが、妊娠中から徐々にケヴィンの言動に暴力の片鱗が見え隠れし始めたのだ。
直接殴られたりすることはなかったが、気に食わないことがあると物に八つ当たりし、彼女がそれを咎めるようなことを口にすると、反論したくなくなるほど強く荒い口調で言い返されてしまい、気がつけば何も言い返す気力も起きなくなっていたのだ。
恋人の言動が今まで付き合って来た男の中で最も危険で最低である事にようやく気付いた彼女だったが、その頃にはすっかりケヴィンから逃げ出すという考えも無くなっており、また実際問題、安定期に入った妊婦の体でどこまで動けるのか分からなかった。
言動による圧力を受け続けていると、それが当たり前になり、そんな言動をさせる原因を自ら作り出しているからだという一種の洗脳状態に陥ってしまう話を以前聞いたことはあったが、まさか己がそうなるとは想像もできなかった彼女は、きっと自分が悪いのだという、見聞きした人たちと同じ状態に陥ってしまっていた。
ケヴィンの暴力的な言動は寝ている間は収まっていて、その間に考えることは、酷い別れ方をしてしまった前の彼氏と付き合っていればこんなにも日々怯えることもなかったのかもしれないという、今更どうしようもない過去の幻想だった。
あの頃、どうしても子供が欲しい一心で躊躇する彼を詰ったが、ケヴィンとの間に子供が出来た今、思い描いていた母親像、家族像とは程遠い現実が繰り広げられていた。
それを望んだのは己だとの声がどこかから聞こえるが、肩を揺らして小さく笑った後、自分はどうなっても構わないがミシェルだけはとの思いから着込んだトレーナーの裾を握り締め、ケヴィンと向かい合う勇気をくれと更に強く握りしめる。
そんな彼女の気持ちを試すようにか、玄関のドアが開く音が聞こえ、乱暴に開閉する音も聞こえて来たことからケヴィンが帰宅したのだと気付き、条件反射で震える腕を片手でギュッと握り締め、ミシェルのためと己に言い聞かせる。
「・・・起きたのか」
「ええ・・・ミシェルはどこ?」
私が寝ている間にミシェルをどこに連れて行ったのと、いつもの彼女からは信じられない強い意志のようなものを目に浮かべて問いかけると、ケヴィンが苛立たしそうに舌打ちをするだけで答えようとはしなかった。
「ねえ、ミシェルはどこ? どこに連れて行ったの!?」
「ミルクを吐いたから病院に連れて行ったんだよ」
そうしたらあの病院、ミシェルを今すぐ入院させる、両親とは面会謝絶だと言いやがったと、頭に手を当てて苛立った時の口癖である言葉を捲し立てながらクソと呟き拳を握って壁に叩きつける。
ケヴィンのいつになく荒れた様子に血の気が引いていくのを感じた彼女、レイラは、ミシェルは面会謝絶になる程悪いのかと震える声で問いかける。
「ああ、あの医者がそう言っていた」
「どこの病院に連れて行ったの!?」
ホームドクターは昨日診察をしたときにはそんなことは言っていなかったのにと、ケヴィンの前に駆け寄ってその腕に手を乗せて少し高い位置にある顔にどこの病院に連れて行ったのか教えてくれ、今からその医者に会いに行ってくると小さく叫ぶが、ケヴィンが小さく呟いた言葉にただ目を見張ってしまう。
「・・・まだあいつが好きなのか」
「え・・・? 何を言ってるの、ケヴィン?」
あなたのいうあいつって誰のことと、ケヴィンの腕に載せた手に力を込めると、その手を振り払われてしまい、バランスを崩して倒れそうになってしまう。
「俺と付き合った事を後悔してるんだろ!?」
「何を言ってるの!?」
突然の激昂にレイラも拳を握って誰のことだと再度問いかけると、ケヴィンが底冷えのするような目で彼女を睨みつける。
「リアムだ」
「!!」
俺と付き合う直前に付き合っていて結婚まで考えていた相手であるリアム・フーバーだか何だかという名前の小児科医と付き合っていれば良かったと思っているんだろうと、再度壁を殴られてその音にレイラの体が竦んでしまう。
「そ、違う、わ・・・そんなこと、ないわよっ!」
彼のことはもう何も思っていないと、己の胸の奥深くに存在する罪悪感とまだ少しの好意を押し隠して何を言っているんだと反論するが、うるさいと怒鳴られまた壁を殴られてそれ以上反論できなくなってしまう。
暴力に屈するのは嫌だが、目の前で見せつけられる暴力的な言動に己が思っている以上に恐怖を感じてしまい、小刻みに体が震えてしまう。
「ドクターに紹介してもらって連れて行ったんだよ」
診察をしてすぐにこのままではミシェルの命に関わる、すぐに入院させるからと、泣いているミシェルを取り上げられたこと、これから弁護士に話をしてくる事を教えられ、膝がガクガクするのを堪えられずにその場に座り込んでしまう。
「ミシェル・・・!」
良く泣く元気な子供で、目を覚ます前までいなくなれば良いのにと思ったように、時々手に負えなくなってしまうこともあるが、それでもかけがえのない可愛い娘の命に関わる事になると医者に言われてしまったことが衝撃で、思わず滲み出る涙を掌で押さえ込もうとする。
「良いな、今から弁護士に会ってくる」
だからお前は俺が帰ってくるまで家で待っていろと肩を抱かれてそっと囁かれ、俺に任せておけば良いとも囁かれて何度も頷いたレイラは、心配そうな声で囁くケヴィンの顔を見ることはなかった。
だから、彼の顔が己の思うままに事態が進む愉悦に歪んでいる事に気付かないのだった。
小さな身体に点滴のチューブを付け、泣きもしないで天井を見上げているだけのミシェルを部屋の外から見つめたリアムは、今朝の診察時に抱いた違和感を解消できずにいた。
ミシェルと違う姓を名乗った男、ケヴィンだが、その腕には皮膚を覆い尽くすようなタトゥーがあり、それを見せつけるように袖の短い服を着ていたことから力を誇示したい思いを感じ取っていた。
力を誇示したい相手はミシェルの母親だろうが、ただそれだけではない気がし、何かが気になるんだよなぁと独り言を口の中で転がしつつ腕を組んで廊下の背後の壁に背中を預ける。
ミルクを自力で飲めないほど弱っているミシェルの様子をしっかりとモニターし、異変が起きればすぐさま駆けつけられるようにナースステーションから最も近い部屋に彼女がいる為、リアムの巨体はナースステーションから丸見えだった。
患者の様子を心配げに見守っている若いドクターという印象をその場にいたナース達は覚え、一年足らずの短い期間しか一緒に働いていないリアムの熱心さに感心したり少し呆れたりしながらも病棟に入院している患者の様子のモニタリングや日常の業務に取り組んでいるのだった。