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クオルは檻の中の、師であるメヴュラツィエに対して、しかしそれが当然のことで何も不自然ではないかのように話しかける。
「先生。レモニカさんにも先生の深遠雄大な計画をお話しください。そうすれば彼女も少しは協力的になるかもしれませんよ。彼女は先生のことが知りたいらしいのです。その知恵の一端でも聞かせて、彼女をひれ伏せさせましょう」
クオルは檻の方へと近づいて、メヴュラツィエの抱える襤褸布を奪って放り捨てる。
メヴュラツィエがすがるようにして、力なく床に突っ伏し、掠れた声で呻く。「返して。私の赤ちゃんなの。もう悪いことしないから、赤ちゃん返して」
その老女は涙を流し、嗚咽を漏らす。
「赤ちゃんを返すったって……」クオルは息を呑んで勢いよく立ち上がる。その瞳は己の頭の中で渦巻く何かを見つめている。
「赤子。そうか。私たちの魂が生み出すもの」クオルはぶつぶつと呟いて辺りを歩き回る。
「知恵。言葉。欲動。感情」その胡乱な瞳がレモニカを捕まえる。
「そうです。あの呪い。感情を写し取るのではなく、取り込んでいる? いや……」作業机に移動し、紙束を並べて文字を書き始める。
「何も他人の赤子でなくてもいい。合わせ鏡のように。無限の照応」クオルは机に突っ伏して頭を抱える。
「噫、駄目。始まりが肝心です。私では力不足。本末転倒です。……何か……何か。先生! 他に何か……」クオルが檻に目を向けるとメヴュラツィエは額づくように丸まって、両手で耳を覆っている。
「その格好は一体……ああ、そうか。『もう悪いことしないから』。罪人。罰。そういうことですね。そうです。何を躊躇うクオル。ここまで多くの人に力を借りてきたんです。それなら術式は単純。しかし不可逆。ですが退く理由など微塵もない」クオルは声高らかに哄笑し、猛烈な勢いで粘土板に文字を刻み込む。
「さすが先生です! 天才に他ならない! 貴女のように産まれていればこのような苦労もせずに済んだろうに! しかしこうして先生の最大の発明に立ち会えたのは私に才能がなければこそのこと。今では己の平凡さも誇らしいというものです」
レモニカは少しもクオルの言葉に、思考に、ついていくことができなかったが、ついていくべきではないと魂が訴えていた。
「噫!」と再びクオルは喚く。
「まだ足りない! 先生! これでは無限に死ぬだけです! メヴュラツィエ先生!」クオルは粘土板を持ち上げて、メヴュラツィエの方へ向ける。
「見てください! ほら! ここのところの呪文、レモニカの呪いを私なりに解釈して組み込んだのですが」そう言ってクオルは鳥籠と粘土板を檻のそばに持って行く。
もはやまっすぐ立つこともできなくなったメヴュラツィエの魂は、しかしクオルの言葉で何かを揺り動かされたのか、その肉体をゆっくりと起こさせる。そしてメヴュラツィエはクオルの掲げた粘土板を見つめた。その瞳の奥に再び何かの燈火が閃いたかに見えた。
しかし、その時、メヴュラツィエのその弱った心臓に、闇の奥から飛来した矢が深々と突き刺さり、襤褸布そのもののようにメヴュラツィエの体は頽れる。
「先生! そんな!」クオルは粘土板も鳥籠も放り出して檻にすがりつく。「どうして! どうしてこんな!」
盛大な音を立てて鳥籠が落ち、中のレモニカは悲鳴を上げずに身を守る。落ちた衝撃で鳥籠は変形し、レモニカはこっそりと抜け出した。鼠の姿を維持したまま物陰に隠れ、メヴュラツィエを見つめる。するとメヴュラツィエは矢の飛んできた闇に顔を向けて微笑みを浮かべ、そして何事かを呟いた。
闇の中、檻と檻の間にボーニスが立っていた。今にも破裂しそうな怒りを身の内に抑え込んだ表情で、弓を放り捨てる。似たような旅装で、あの魔法の剣を佩いているが、初めて会った時のような落ち着いた佇まいは鳴りを潜めている。今にも飛び掛かってきそうな獣の如き、前傾の構えだ。
クオルはボーニスを睨みつけて言葉を放つ。「裏切り者め! よくも! よくも先生を!」
「裏切り者はお前たちだ」とボーニスは淡々と答える。「尋問する予定だったが、あの様子ではそれも難しかろうと思ってな。早々に引導を渡すことにした。いずれにせよ、上からは殺せとしか命じられていない」
クオルは涙を流し、嗚咽を漏らす。「貴方が天罰官だったのですね。ボーニス」
ボーニスは驚きを隠して言う。「知っていたか。天罰官の存在を」
何かの機会を窺って身を潜めるレモニカは少し考えるが、天罰官なる言葉は聞いたこともなかった。
「まあ、噂程度には。先生のように、最たる教敵に認定したこと自体を世間から隠したい場合、大聖君猊下直々に力を与える天罰官なる者たちが秘密裏に処理するとか。あってます?」
「俺も詳しくは知らん」ボーニスは自虐的な微笑みを浮かべる。「ある日拝命し、そのまま任務に就いたからな」
「まあ、そういうことにしておきましょう。しかしまさか私の信頼を得るために実験の支援までするとは、身内の不始末を片づけるためならなりふり構わないんですね」
「ちなみに」と言ってボーニスは話を変える。「お前は最たる教敵に認定されていないわけだが、ついでに殺す」
「そうだろうと思いました」と苦笑いを浮かべたクオルが大きく口を開いた瞬間、闇の奥から飛んできた短剣がその口内に突き刺さる。
クオルは衝撃で勢いよく作業台に突っ伏し、嗚咽して短剣の突き刺さった邪眼を吐き出す。クオルの邪眼は姿を見せる前に封じられてしまったのだった。
クオルが一言の呪文を唱えると、全ての檻の硬い格子が一人でにほどけるように開かれる。
ほとんどの檻の中身は生きているにせよ死んでいるにせよ身動き一つ取れずにいたが、それでも数十匹の獣が解き放たれる。目の血走った狼や興奮した様子の熊、吠え止まない豺。いずれも檻からの解放を喜ぶ暇もなく、クオルの魔法の命じるままにボーニスに躍りかかった。
しかしそんなものではボーニスという男がどうにもならないということを、レモニカはよく知っていた。かの湖での逃走劇の前座において、ベルニージュの放った炎の獣たちと一人渡り合った剣士だ。
悪霊どもも慌てて逃げ出す鐘の大音声を合図に、剣劇芝居は再び再演され、血に渇いた獣たちはボーニスの引き立て役に成り下がる。ボーニスが清らかな魔法を秘めた剣を振り、激しい鐘の音が響き渡れば、獣たちは喉笛を斬られ、腸が露わになり、辺りにはどろりとした血飛沫が舞う。以前とは違い、熱い血潮を滾らせた獣たちはボーニスに触れることもなく屍に成り果てる、惨憺たる演目だ。
無意味な犠牲からレモニカは目をそらす。視線の先でクオルは作業台の上の沢山の粘土板を前にして、一心不乱に呪文を唱えていた。何度も舌を噛み、唇を噛み、死が迫っていることに焦っている。
クオルは苦しそうに呟く。「何で。どうして。魔術は完成したはずなのに」
ボーニスはクオルの方へと歩きだす。その間も恐れを奪われた獣たちは無謀にボーニスに挑みかかるが、その歩みを遅らせることさえできないでいた。清潔だったボーニスの衣も沢山の血を浴びて、処刑人も慄くようなおぞましい汚れに染められる。
レモニカはボーニスの嫌悪する巨大蝙蝠に変身しないように、クオルの前方へと移動する。
背後から迫る死の歩みに気づいているのか、いないのか、ボーニスの剣の間合いに入ってもクオルは魔術を行使している。不思議で強力な歌をうたい、厳かに響き渡る呪文を唱えている。
全ての獣を切り払った時には、すでにボーニスはクオルの真後ろにいた。そして声をかけることもなく剣を振り上げ、慈悲も躊躇いもなく一太刀にクオルを切り捨てる。
その衝撃はクオルの細い体を作業台に叩きつけ、作業台は二つに割れる。クオルは短く呻き、沈黙した。