クオルを打ちのめしてなおボーニスは剣を構え、全身に緊張を漲らせたままでいる。
床で伸びるクオルの背中を見下ろしてボーニスは言う。「まさかお前がその衣を作ったわけではないよな。お前如きに猊下より賜りしこの聖剣を防げるはずがない」
グリシアン大陸に存在するどのような力によっても、またグリシアン大陸に存在しないどのような力によっても、決して破壊されることのない魔導書の衣はボーニスの誇る聖剣の一太刀を浴びてもやはり一切の無傷だった。それを纏うクオルの体は両断されずに済んだが、しかし衝撃を受け、割れた作業台の間で少しも身動きできずにいる。
ボーニスは少しだけ躊躇いながらも近寄り、クオルの纏う茜色の円套に手を伸ばすと無理に剥がす。僅かな力での抵抗も空しくクオルは作業台から落ちた羊皮紙や薬品や粘土板と同様に床の上を転がる。
「魔導書、によって顕現した衣か? いや、見覚えがあるな。何だったか」とボーニスは呟く。「禁忌文字、それに見覚えのない文字。あるいは魔導書そのものか。だとすればお前などよりも遥かに大きな収穫だ。いずれにせよ、お前には過ぎた品だな。どうせ先生が見い出したものを奪ったのだろう? さて、最後の言葉でも聞こうか?」
クオルは這いずりながら距離を取り、息を切らせて言う。「先生の最後の言葉を聞きたくないですか?」
ボーニスは否むように小さく首を振り、悲しげに呟く。「どうせ意味のある言葉じゃないだろう」
「先生はこう言いました。眩しいな、と。闇に顔を向けてそう言ったのです。貴方にその言葉の意味が分かりますか? 私には分かりました! 死を前にしてなお後継に真理を伝えようとなさった先生の真意! あなたには分からないでしょうとも!」
「度し難い」とボーニスは呟く。
その時、クオルが何事かを囁いていることにレモニカもボーニスも気づく。埃も舞わない小さな声音で、クオルはうたっていた。
とどめを刺そうと躍りかかるボーニスに、密かに近づいていたレモニカは飛び掛かる。天鵞絨の毛皮の巨大蝙蝠へと変身する途中にボーニスから魔導書の衣を奪い取り、出入り口の方へと走り出す。
しかしその無謀な策の無様さに、レモニカ自身が悪態をつく。体が大きすぎて館の出入り口から出られない。ずっと鼠でいたために、体の大きさの感覚が分からなくなっていたのだった。
まるで兵どもを鼓舞する銅鑼のような音が聞こえ、レモニカが振り返ると、ボーニスは標的を変更し、天鵞絨の蝙蝠の方へと向かって歩いてくる。
しかしその死神の背後の光景にレモニカは目を奪われていた。
無数の粘土板が宙に浮き上がり、統率された蝗の群れのように飛び回って、部屋を一巡りすると、床に横たわるクオルの体に集って覆う。
その有様に気づいたボーニスは、深い森の奥から響く幽玄なる青銅の鐘の如き音と共に聖剣を大振りに空を斬る。するとクオルを覆っていた粘土板の塊は激しく震え、卵の殻のように弾け飛んで散らばった。
再び現れたクオルの姿は変わり果てていた。粘土板の卵から孵ったクオルは羽も無いのに浮き上がる。その身の内から黄色い光が溢れている。黄金の輝きを放っているのは全身の骨だ。髑髏から足の指まで全ての骨が光を放ち、臓腑と肉と皮膚を透かして広間に投射している。
宙に浮いたクオルは虚ろな瞳で広間を睥睨し、口を開く。「おはようございます。新しい世界。おやすみなさい。旧い世界」禍々しい姿のクオルは嬉しそうに楽しそうに、ぐずる幼子にわらべ歌でも聞かせるようにうたう。「私が起きたらみんなも起きて。私が寝たらみんなも寝ましょう。さあ、空を仰いだなら、季節の巡りを祝いましょう。共に歌って踊りましょう」
ボーニスがすかさず距離を詰め、斬りかかるが、同時に天井が崩れ落ちる。否、降ってきたのは瓦礫ではなく、黒い蜥蜴だ。天井の中心から外側へと崩れる建材が無数の蜥蜴へと変身して落ちてくる。
ボーニスもレモニカも天井だった蜥蜴に覆われる。巨大蝙蝠レモニカはクオルの魔法から逃れようと暴れるが蜥蜴たちは意に介さず、我が物顔で天鵞絨の毛皮を這い回る。
一方ボーニスが剣を振るうと蜥蜴は全て弾き飛ばされ、レモニカを覆っていたものも含め、全てが元の建材へと戻った。天井はさらに崩れ、レモニカは瓦礫にのしかかられて床に這いつくばることになるが、魔導書の衣は手放さなかった。
天井が除かれ、壁の一部も崩壊する。灰色の空が露わになり、不遜な雪風が吹き入る。
クオルはボーニスのことなど忘れたかのようにうたい続ける。「暖を取り、心と体を温めましょう。嵐に負けない歌うたい、仮初の館とお別れしましょう」
すると歌に応じるようにして館の周りを囲む森が急き立てられるように炎を噴き出し、次いで空を渦巻く灰雲が激しい嵐を呼び、僅かに残った天井は吹き飛び、いくつもの柱が耐えかねて悲鳴の如く軋んで折れる。古い世に連なる遺構の館が形も影も失われていく。
ボーニスは対抗するように剣を振るい、鐘の音を森に響き渡らせる。積もった瓦礫の山が吹き飛び、中からメヴュラツィエの入った檻が露わになった。格子はひしゃげており、ボーニスはそこからメヴュラツィエを引っ張り出す。そうして慈しむように壊れやすい物のように己が手をかけた女を抱き締めた。
クオルの歌の調子が変わる。「暴れん坊を許してあげて。皆等しく可哀想。手に手を取れば一つになれる。私もあなたも二つに一つ」
今度はそこかしこで雄叫びが劈く。ボーニスを襲い、ボーニスに肉塊へと変えられたはずの獣たち、瓦礫によってぺしゃんこになった哀れな者たちの魂なき屍体が彷徨うように蠢き集い、一塊になると粘土細工のように新たな姿を得る。どれもこれもが一言では形容しがたい姿になっていく。
頭が複数ある獣には前足がなく、全身から角の生えた鳥が十二本足で走る。ボーニスの体はメヴュラツィエと混ざり、体毛の代わりに鱗に覆われた巨大な獣の一部となった。三十を超える魔の生き物が己の出鱈目な肉体を試行錯誤している。
それと同時にレモニカは鼠の姿になり、驚く。それはレモニカの近くにいたボーニスがいなくなったことを意味し、あのような姿に成り果ててもクオルは鼠が嫌いだということを意味する。
鼠の小さな体で、魔導書の衣が風に飛ばされないように必死にしがみつく。はためく衣の隙間からクオルが近づいてくるのが見える。
クオルは高らかに歌う。「遥か果ての王座を求め、裏切り者は捨て置いて、進め進め歌うたえ。なりたいものになるために」
クオルに見つかれば良くて殺される。悪ければ、あの生者とも死者とも区別のつかない醜く禍々しい者どもの仲間入りだ。
しかしレモニカはどこか落ち着いていた。嵐が過ぎ去るのを待つのは慣れている。クオルはレモニカに、閉じこもるだろうと予言した。それは間違っていないかもしれない。しかしただ耐えるのではなく、耐え忍んで機を待つことができたならば、閉じこもるのも悪くないはずだ、と考えた。
とうとうクオルが魔導書の衣を持ち上げる。そこにレモニカはいない。衣の表にも裏にもいないが、瓦礫の下に身を潜めていた。
「ありがとう。ブーカ」
レモニカの隣で、鼠の王様の第一の家臣ブーカは得意そうに鼻をひくつかせる。クオルが衣を持ち上げる直前に瓦礫の隙間から下へと引っ張り降ろしてくれたのだった。
「いったい何をまごついていたのですか? まさかあの衣を奪われまいと?」
「奪われるのは諦めましたが、最後には取り戻すための準備をしておりました」
レモニカの中の蜥蜴の呪いは尻尾の呪いの位置を正確に教えてくれた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!