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どれくらい走り続けただろうか。
肺が焼けるように熱く、喉の奥には鉄の味がせり上がってくる。
背後で点々と揺れていた松明の火が
まるで遠い空の星屑のように小さく霞んで見えなくなるまで、私は暁さんの手を決して放さなかった。
生い茂る木々の枝が、容赦なく私の肌を刺し、泥を跳ね上げる。
母の形見でもあった着物の裾は見る影もなく汚れ、ボロボロに引き裂かれていた。
けれど、止まるわけにはいかなかった。
止まれば、自分の中にある「鬼狩り」としての矜持が
今の自分の行動を咎め、足を止めてしまうのが怖かったから。
「……あざみちゃん。もう、大丈夫だから…追っ手は巻いた」
暁さんの、波立たない水面のような静かな声が耳に届き、私はようやく足を止めた。
その場に崩れ落ちそうになるのを、彼の手の温もりが辛うじて支えてくれる。
そこは、江戸の地図のどこにも記されていない、切り立った崖に囲まれた深い深い谷の底だった。
ふと見上げれば、垂直にそびえ立つ岩肌の隙間から
細い鎌のような月が、冷たく
けれど優しく私たちを覗き込んでいた。
そして、霧が晴れた目の前には、夢か現か疑うような光景が広がっていた。
乳白色の深い霧に包まれた、小さな集落。
そこには、粗末ながらも手入れの行き届いた家々が並び、窓からは橙色の柔らかな灯りが漏れている。
そして、私が何より驚愕したのは
そこに「人間」と「角を持つ者」が、当たり前のように言葉を交わし
肩を並べて穏やかに暮らしていたことだった。
「ここは…何、なの……?」
「……『陽だまりの谷』。人を食わず静かに暮らしたい鬼たちと人間が住んでるんだ」
「え……?」
「外の世界に居場所を失くし、迫害され、命を狙われ……行き場のなくなった者たちが、最期に辿り着く場所さ」
暁さんは、まだ私の手に残っている自分の指先を寂しげに見つめた。
彼の白く冷たい手は、この場所の静寂によく似合っていた。
私たちが里の入り口に足を踏み入れると、どこからか小さな影がいくつも飛び出してきた。
額に小さな角が生えた、幼い子供たちだ。
彼らは暁さんの姿を認めるなり、春の花が一斉に開いたような満開の笑顔で駆け寄ってきた。
「暁さま!お帰りなさい!」
「わあ、今日はお客さま?すっごく綺麗な女の人だね!ねえ、お姉ちゃん、どこから来たの?」
屈託のない、澄んだ笑顔。
その澄んだ瞳の中に、私たちが教本で嫌というほど叩き込まれてきた
「血に飢えた残虐な化物」の面影は、どこを探しても見当たらなかった。
私は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
鬼狩りの一族として、私は
「鬼は人を喰らい、不幸を撒き散らすだけの悪だ」
と、それこそが唯一無二の真理だと信じて生きてきた。
けれど、目の前で幼い鬼の子供と
人間の老人が楽しげに笑い合いながら
囲炉裏で芋を焼いている光景は、その教えがいかに一方的で
歪んだものであったかを、言葉よりも雄弁に突きつけてくる。
「…どうして。どうして、こんな場所が存在するの?私たちは、あんなに……」
「鬼も、最初から化物として生まれてくるわけじゃない……ただ、人間より少しだけ力が強すぎて、少しだけ寿命が長すぎた」
「それだけの理由で、ある者は疎まれ、ある者は狩られ、生き延びるために牙を剥くしかなかった者もいる。あの子たちのように、ただ静かに生きたいだけの人たちも…」
暁さんは、里の奥にある一軒の古びた庵へと私を案内した。
静かな部屋の隅には、丁寧に手入れされた古い仏壇があり
そこには一対の位牌が大切に並べられている。
ふと、その位牌の傍らに置かれた「ある物」に、私の目は釘付けになった。
瞬きさえ忘れるほどに。
「……っ、これ……!!」
それは、煤けて古ぼけた一筋の『お守り』だった。
私が幼い頃、母から「お守り代わりよ」と手渡されたものと全く同じ糸で
全く同じ刺繍が施された──
鬼狩り組織『鴉』の、極秘の隠し紋。
「どうして…どうしてこれを、曉さんが持っているんですか……!?」
混乱が津波のように押し寄せ、思考が真っ白に染まる。
震える私を、暁さんは悲痛なほどに深く、慈愛に満ちた瞳で見つめた。
「あざみちゃん。……あの日、君の両親を殺した鬼を、僕は知っている。……そして、君の父親が今際の際に、僕に託した『願い』も」
「……お父さんが、暁さんに?」
「……君を守るために、彼らが選んだ最期の嘘を、今から話すよ」
語られる、十数年前の真実。
暁さんの細い指先が、震えながら私の頬に触れる。
かつては「鬼の冷たさ」だと思っていたその冷気は
今はもう、少しも怖くなかった。
むしろ、その冷たさこそが
彼が長い年月、一人で抱え続けてきた「愛」の温度なのだと気づいてしまったから。
私は、ようやく知ることになる。
私がずっと「両親の仇」だと思い込み
憎むことだけを生きがいにしていた存在が、実はあの日から今日まで
私の命を影から支え続けてくれた、唯一無二の「守り人」であったことを。