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『元気になったら、二人で同じ学校に行かない?』
彼女は嬉しそうに笑っていた。もう一年も前のことだ。少し古いタイプのタブレットには、この街にある高等学校の制服が表示されている。
『見てみて! この制服可愛くない?』
セーラー服タイプの制服は、色白の君にきっと似合うんだろうな、なんてことを考えた。そしてその隣を歩く自分の姿を想像して、僕は少し俯いた。
まだ僅かに暑さの残る十月、僕は屋上に足を踏み入れた。この場所は彼女の好きな場所だった。遠く離れた水平線に至るまで、小さなこの街を見渡せるから。
『平日は友達と買い食いしてさ、休日はどこか遠くに……遊園地とか行ってみたい!』
彼女の細い指が空に絵を描くように街をなぞるのを、僕は隣で静かに眺めていた。
あれもちょうど今くらいの季節だった。あの日の君は楽しそうに夢を語って、僕にも同じように夢を語らせようとしていたっけ。あの時は病気を治すことが夢、だなんて言ったけど、僕の夢は今も昔もその先も、ずっと君の隣にいることだった。まあ、その夢は叶わないんだけど。
僕は渡しそびれた彼女への手紙を取り出すと、丁寧に折り畳む。伝えられなかった想いを隠すように、一つずつ丁寧に、丁寧に。
やがて出来上がった紙飛行機は、数年振りに作ったとは思えないほどの良い出来だった。それが何だか嬉しいような、悲しいような、何とも言えぬ気持ちのまま、僕は風を待っていた。
彼女は不自由な人間だった。幼い頃から現代の医療では治らないとされる病に蝕まれ、来る日も来る日も普通と呼ばれる日々に憧れを抱いていた。
『私たちはいつになったら自由になれるのかな? 何を食べるとか、どこに行くとか、そういうの。いつか自分で決められるようになるのかな? みんなの普通に近づけるのかな?』
二人で肩を寄せ合って、夕日を眺めながらそんなことを話した。影の落ちた顔から表情は伺えなくて、僕は何も言えず、ただ彼女の小さな手を握った。少し温度の低い手のひらは、微かに震えていた。
一際強い風が吹いて、僕は現実に引き戻された。当然ながら、隣には誰もいない。僕は大きく息を吸い込むと、晴れ渡った空に向かって紙飛行機を飛ばした。
紙飛行機は小さな街の上空を、海に向かって飛んでいく。僕はその背中を眺めながら、ゆっくりとつぶやいた。
「バイバイ、またいつか、会える日まで」
これは、空を行くこの飛行機は、君だ。君はもう自由なんだ。どこに行ったっていい、何を見たっていい。君だけの自由を求めて、この広い空を駆けていけ。そこに、僕がいなくても。
紙飛行機が水平線の彼方に消えた頃、不意に電話が鳴った。僕の唯一の友人で、たった一人のかけがえのない親友からだ。
『宏樹〜!! やっと着いたよ! 飛行機めっちゃ長いんだけど! 疲れた!』
「お疲れ様。国際線だもんね。そっちはもう夜だっけ?」
『うん、午後六時! すごく月が綺麗だよ! 見る?』
そう言うと彼女は返事も待たずにビデオ通話に切り替えた。先刻の言葉通り、暗くなった空には淡く輝く美しい月が浮かんでいる。
『見える? ほら、綺麗でしょ?』
彼女は月を指差して笑った。その笑顔があまりに眩しくて僕は少し俯いた。僕は昔から恥ずかしくなるとすぐに俯く癖がある。わかりやすいって、彼女に笑われたっけ。
僕が何も言えないでいると、画面の向こうの君も同じように黙り込んだ。二人の間に沈黙が続く中、月だけが煌々と雄弁だった。
そんな月に背中を押されるように、彼女が重い沈黙を破った。
『……私、宏樹に言わなきゃいけないことがある』
いつになく真剣な調子で彼女は言った。先ほどとは打って変わったその様子に唾を飲み込むと、僕はかろうじて聞こえるほどの小さな返事を一つして、彼女の言葉を待った。
『私ね、宏樹の書いた手紙、見ちゃったんだ。勝手なことして、ごめんね。でも、聞いてほしい』
僕は先ほど空へ旅立った紙飛行機を思い出す。その内容が頭の中でフラッシュバックし、心臓が早鐘を打ち鳴らしていた。
彼女が浅く呼吸を繰り返すのが聞こえる。その一音ですら聞き逃したくなくて、僕はボリュームを最大に上げた。
『私の病気はアメリカの病院なら治るかもしれないけど、宏樹は違うんだね。毎日毎日、朝目が覚めて初めて、まだ生きていると安心する、そんな日々を今まで続けていたんだね』
彼女の言ったように、僕の体は今この瞬間に死んでもおかしくないような、そんな病魔に冒されている。ずっと、隠してきた。彼女と同じ境遇の友人であるために。
『今まで知らないでごめんね、私ばっかり言いたいことを言って、ごめんね』
「違うよ、悠。僕が悠の話を聞くのを好きだったんだ。同じように重い病気を抱えながらも、それでも明るく生きようとする君が…」
そこまで言ったところで僕は口をつぐんだ。今僕はいったい何を言おうとしたんだ。伝えないって決めていたはずなのに、仕舞い込んだはずの想いが溢れ出してしまいそうで、口を押さえたまま僕は立ち尽くした。
『宏樹は、優しいね。だから、私は宏樹のことが好きなんだ』
その瞬間、時が止まったような気がした。彼女の声が、言葉が、とてつもなくスローモーションに聞こえて、やがて停止する。二人の間だけ時間の流れが狂ってしまったなような錯覚に陥った。
『だから、宏樹の気持ちも教えてほしい』
煌々と輝く月を背にして、悠は静かに佇んでいた。僕は浅い呼吸を繰り返して、やっとのことで言葉を紡ぐ。
「僕はいつか必ず、君を残して死んでしまう。悠を過去に縛り付ける枷なんだ。だから、ダメなんだ。言っちゃ、ダメなんだよ」
『……それは、枷なんかじゃないよ』
悠は静かにつぶやいた。だがそれは冷たい声音というわけではなく、諭すような、優しい優しい声だった。
『いつか自由になりたいって、私は宏樹に言ったよね。宏樹はきっと、そのせいで悩んでいたんでしょう? 自分が死ぬことで私が過去に囚われてしまう。そうなったら、私が自由を手にするなんてできないだろう、って』
悠は微笑みながらそう言った。いつも悲しいときや辛いときに見せる表情で僕に笑いかけた。それが僕の心をどんなに締め付けるかも知らないで。
「…そうだ。悠には僕のことなんか忘れて自由になってほしい」
『宏樹がいなきゃ私は幸せになれないよ』
「でも……」
思い出の中の彼女は、いつだって汚れを知らぬ無垢な子供のようで、その姿のまま変わっていないのだと、僕はそう思い込んでいた。しかし、今画面越しに対峙する悠は、やりきれぬ思いを抱えたままああだこうだと唸る僕より、随分と大人に見えた。
『自由ってのはね、相対的な物だと思うんだ』
泣きじゃくる子供をあやすような、そんな声で悠は言った。いつの間にか月は顔を隠して、辺りには二人だけの静けさが満ちている。
『私が憧れる自由は放課後に大好きな人と一緒にいること。だけど、放課後を誰かと過ごすことを自由だと思わない人も、世の中にはいるもんね』
「…何を言いたいのか、よくわからない」
『あー、えっと、難しいね、例え話って。宏樹と違って本とか読まないからさ』
何か考えるように悠はこめかみを指で叩く。昔二人で見ていた刑事ドラマを真似していたら、いつのまにか癖になっていたやつだ。なんて、今はどうでも良いことばかり考えてしまう。
『えーっと、つまり、宏樹の言う不自由の中でも、私はちゃんと自由だって、幸せだって感じるってこと。宏樹と一緒にいるっていう不自由が、私を自由にするんだと思うんだ』
僕は一言だけ漏れた言葉を飲み込むと、これまでの日々を思い出した。彼女と過ごした数年間を。僕たちが過ごした不自由で自由だったあの日を。
「……悠は、ずるいと思う」
悠は目をまんまるにして呆けた声を出した。
「そういうのは男から言うのがカッコいいってのに、先に言っちゃうんだから」
僕が何を言おうとしているか察したのか、悠は少し顔を赤らめて前髪を触ったり、ソワソワと落ち着かない様子になる。
僕は自分の記憶の中から、最もこの場に適した言葉を考えるが、緊張して上手く出てこなかった。悠がそれを訝しみ始めた頃、一筋の光が僕の目の前に開けた。
「悠、今夜は月が綺麗だね」
いつの間にか、月が再び顔を出していた。悠の背中を押した月が今度は僕の背中を押すように、遠い異国の闇の中で煌々と輝いていた。
『……うん、あなたがいてくれるから』
ああ、やっぱり悠はずるい。僕は今すぐにでも俯いてこの茹で蛸のような顔を隠してしまいたいのに、悠は輝く月の逆光で自分の顔を隠している。彼女もきっと、僕と同じような顔をしているはずなのに。
初めて本音を伝えたこの日、月がニヤリと笑っているような気がした。
「僕も悠も、”無理しない範囲で”、だからね」
「わかってるってば! 何回も何回も同じこと言ってさ、お母さんみたい!」
二人分の足音と、それをかき消すような喧騒が小さな街に響いた。一人はセーラー服の似合う色白の少女。もう一人は冴えない僕だ。
四月の空は澄んで、どこまでも青が続いている。それを切り裂くようにして、一台の飛行機が、飛行機雲を残して飛んでいる。青の世界を自分色に塗り替える飛行機が、そんなわけないのに、僕にはなぜかこの世で一番自由に見えた。
「ねぇ宏樹、どこ見てるの? 置いてっちゃうよ」
交差点の隅で、純白のあの子が笑っている。それを見た瞬間、僕の頭にある一つの考えが浮かんだ。
「悠、昔聞かれた夢の答えを、今言ってもいい?」
この子はあの飛行機と同じだ。この果てしない世界を自由に飛び回る飛行機と同じだ。
「僕、飛行機雲になろうと思うんだ」
悠は意味がわからないといった様子で、僕の顔を二度見した。僕は笑いながらその顔を写真に収めると、彼女を追い抜き駆け出した。
彼女が自由に生きる飛行機なら、僕はそれと共に生きる。悠を決して一人にはしない。彼女が自由に生きた軌跡を、写真という形でこの世界に刻むのだ。
それが僕の、新しい夢だ。