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人の心に宿る〝闇〟とは
実に脆く
そして実に容易く広がるものである。
善悪を弁える理性も
理と情を隔てる知識も
それが〝恐れ〟と名を変えた瞬間──
音もなく崩れ落ちる。
それは、最初はほんの微かな囁きだった。
耳を澄ませねば聞こえぬような
風のような声。
けれど、その声は確かに
冷たい毒を含んでいた。
─魔女たちは、本当に人間の味方なのか?─
一度芽吹いた疑念は
土を選ばぬ草のごとく静かに根を張り
やがて
見る者すら恐れるほどの
〝恐怖〟と〝憎悪〟へと変貌していった。
だが、人々は気付かなかった。
その芽吹きが、偶然ではないことを。
自らの胸に抱いた不安が
誰かの思惑によって
播かれた種であったことを──
〝不死鳥〟
この世界における
〝光〟を司る存在でありながら
その身の裡に宿す〝強すぎる光〟ゆえ
常に〝濃すぎる闇〟を孕んでいた。
長きにわたり
静かに眠っていたその闇が──
ようやくその目を覚まし
羽を広げ始めたのだ。
そして
その翼の一振りによって生まれた風は
人の世に恐れを吹き込み
憎しみの火種を焚きつけた。
「異能を持つ者は、悪魔の手先だ。」
「彼らは、神ではなく、魔を崇めている。」
─そんな異形の者たちが
この世界を支配しているのだ─
その言葉を口にする者が現れた時
最初は狂信的な戯言だと、誰もが笑っていた。
だが、笑いは長く続かなかった。
やがてその言葉は、村から村へと伝播し
村は町へ、町は都市へ──
疑念の種は大地の至るところに播かれ
豊穣の土ですら、黒く腐らせていった。
人間たちは、知っていたはずだった。
どれほど魔女たちが
自らを犠牲にして人々を助けてきたか。
干ばつの地に雨を呼び
飢餓の民に実りを与え
病に伏した子らを救い
命を継がせてきたその歴史を。
だが
それはもはや関係のないことだった。
恐怖という感情は
時に過去の恩恵すら切り捨てる。
恐れを理由に
理も歴史も愛も失われていく。
ほんの僅かな火種であったはずの疑念が
いまや大火となり
世界の秩序そのものを焦がし始めていた。
善と悪。
悪として扱われるものが生まれる瞬間とは
こういうものだろう。
そんな世界の変化を見下ろしながら
不死鳥は、内から顔を覗かせた〝闇〟で
密やかに嗤った。
「少し扇動するだけで
ここまで結束するとは⋯⋯」
嘴の端を持ち上げ、まるで人間のように。
それは、決して
〝崇高な神〟の顔ではなかった。
もはやその眼差しは
ただただ〝面白がる者〟のそれであった。
「いいぞ、そのまま恐れよ。
恐れが憎しみを生み、憎しみが炎となる。
そしてその炎は──
いずれこの世界を焦がし尽くすだろう」
すでに火は着いたのだ。
あとは薪が積み上がるのを
静かに見守るだけ。
だが──
不死鳥は、そこでひとつの考えに至った。
人間の恐怖と絶望、憎しみが
これほどまでに結束となり
力を生み出すのであれば──
魔女たちが、同じように〝闇〟を抱いたなら
いったい、どれほどの力を生むのか?
その可能性に
不死鳥の瞳が狂気にも似た光を帯びる。
「⋯⋯試してみる価値はあるな」
その言葉と同時に
不死鳥の胸に潜んでいた欲望が
明確な〝意志〟へと変貌していく。
そして──
この時代には、致命的な欠落があった。
〝信仰の加護〟の者が、いない。
信仰を宿す一族は
すでにその魂を燃やし尽くし
今世代は早くも他界している。
これは
産まれ直しの儀式において致命的だった。
信仰の魔女の加護は
他の魔女たちの能力を高め
産まれ直す不死鳥の核へと
致命をもたらす〝鍵〟である。
その〝鍵〟が欠けた今
魔女たちは
不死鳥を討ち滅ぼす〝確実〟を持たない。
「⋯⋯これは、好機だ」
「彼らが、私を討つ力を持たぬのなら──
今度こそ
私は産まれ直しを拒み続けることができる」
不死鳥は静かに翼をたたんだ。
だが、その奥では
何かが確かに〝蠢き〟始めていた。
均衡を支えてきた光と闇の輪──
何世代にも渡って織り紡がれてきた
宿命の環が、いま音を立てて軋み出す。
だが、まだ誰も気付かない。
魔女たちは、例年と変わらず
未来へ向けて歩みを進めていた。
それが
地の裂け目へと繋がっているとも知らずに。
アリアでさえも──
不死鳥の沈黙の内に潜む、禍々しい胎動に
その気配すら感じてはいなかった。
⸻
それは、風が静まり返った朝だった。
まるで、世界そのものが息を潜め
何かを恐れているかのように
空は灰に沈み、陽は雲の背後に隠れていた。
教会の尖塔は、鉄の如く冷たく空を貫き
広場には、民衆と兵士
そして神の名を騙る者たちが列を成していた
十字の紋章が無数に掲げられ
そこに刻まれるのは救済ではなく
裁きの名を借りた〝焔〟だった。
──魔女狩り
人の畏敬が、恐怖と憎しみへと転じた時
人は理を捨て、祈りを呪いに変える。
「魔女は悪魔の眷属だ。」
「神に仇なす者どもを浄化せよ。」
その言葉が口々に叫ばれる中
かつて助けを求めて門を叩いた者たちが
今は石を握り、罵声を投げ、焔を掲げていた
魔女たちは、簡単には死ななかった。
たとえ不老不死ではなくとも
人間の焚く業火では
魂を燃やすことはできなかった。
だから、人間は考えた。
魔女たちを〝滅ぼす〟ために。
重力の一族
そして守護結界の一族へ襲撃が仕掛けられ
アリアが赴いたその間に
ミッシェリーナの森は踏み荒らされる。
アリアの不在を突かれたその一瞬に
彼女の〝一族〟は
すべて囚われの身となった。
報が届いた時、アリアの胸を裂いたのは
怒りでも、恐れでもなく──
抗えぬほどの〝動揺〟だった。
灰のような雲の下
アリアは一人、教会の尖塔に降り立った。
炎の翼は拡がることなく
背に畳まれたまま。
その表情には凛然たる威容がありながら
その瞳の奥に宿る震えを
誰にも気付かせまいとしていた。
教会の階段には、大司祭が立っていた。
白銀の刺繍に覆われた法衣
手にした金の錫杖。
その佇まいは、もはや神の代行者ではなく
歪んだ正義の仮面を被った
〝審判者〟であった。
「返してほしければ──
魔女を、焼き尽くせ。」
その言葉に、空気が凍りついた。
アリアの両の拳が、ゆるく震えた。
唇が開きかけ、しかし言葉にはならず
ただ、目の奥の光が
静かに翳りを帯びていく。
「私に⋯⋯この私に⋯⋯
同胞を⋯⋯
この炎で、焼き尽くせと言うのか!!」
その叫びが響いた刹那
兵士たちが一人の幼子を引き摺るようにして
広場に投げ出した。
幼きミッシェリーナの子。
血に塗れたその小さな手足には、鎖が絡み
恐怖と痛みに震える瞳が
真っ直ぐにアリアを見つめた。
「アリア様っ!たすけてっ!!」
その声が空に吸い込まれる。
そして、大司祭の足が
その華奢な背中を無造作に踏みつけた。
「やらぬのならば
お前の一族を殺すだけだ!!」
命じられるまま
兵士の一人が幼子の手を掴み
その小さな指を一本ずつ、へし折っていく。
「やめろ⋯⋯っ!」
だが叫びは届かず
響くのは
骨の砕ける音と、子の悲鳴だった。
「アリア様!
どうか、坊やを⋯⋯
坊やをお助けくださいませっ!!」
血に染まった鎖をなお強く引きながら
幼子の母が、倒れ伏しながらも前へと這い
命の限りに叫ぶ。
それでも、大司祭の声は冷徹に響いた。
「さぁ、どうする!魔女の女王よ!」
時が、止まった。
何も聞こえなかった。
何も感じなかった。
ただ、アリアは
沈黙の中で己と向き合っていた。
長く、深く、終わりなき葛藤の果て──
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯わかっ、た⋯⋯」
その呟きは、声ですらなかった。
苦悶に噛み切った唇から流れ出す血が
顎を伝い、首を汚し
瞳から頬を濡らす一筋は
〝血の涙〟へと変わった。
深紅の瞳から滴り落ちたその雫は
足元の石畳に落ちると
一つの紅い〝宝石〟となって結晶し
乾いた音を立てて転がった。
それは
神の血でも、不死鳥の炎でもない──
ただ一人の女としての
どうしようもない絶望の涙であった。