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「…お前…名前は…?」
気がつけば、そんなことを口にしていた。
自分でも、なぜそんな問いが零れたのか分からない。
悪魔は、わずかに目を瞬かせる。
意外そうな、しかし警戒とも違う表情だった。
短い沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。
「サリエル・ヴァレンティア」
名を告げる声には、誇示も虚勢もなかった。
ただ、それが“自分の名”であるという事実だけが、そこにあった。
自分でも分からない。
なぜ、聞いたのか。
なぜ、知りたいと思ったのか。
彼と話せば話すほど、自分が正義だと信じてきたものが、音を立てて崩れていく感覚があった。
「…あなたの名前は?」
その問いに、胸がわずかに跳ねる。
「…アゼリア・エリオス」
口にした瞬間、現実感が遅れて追いついた。
まさか、自分が――悪魔に名乗る日が来るなど、思ってもみなかった。
サリエルは、くすくすと喉を鳴らして笑った。
「なぜ笑う?」
「あなたまで名乗ってくれるとは思わなくてね。」
確かに。
アゼリアはこれまで、問答無用で悪魔を斬り伏せてきた。
敵と、こんな他愛もない会話を交わすのは初めてだ。
自分でも、その理由が分からない。
ただ、不思議で仕方がなかった。
沈黙が落ちる。
剣を握る指先が、わずかに震えていることに、アゼリアは気づいた。
恐怖ではない。
ーー迷いだ。
サリエルは、燃えるような赤い瞳でアゼリアを見つめ、
どこか懐かしむように目を細める。
「アゼリア・エリオス…いい名前だ。」
「悪魔に褒められても、嬉しくない…!」
反射的にそう言うと、サリエルは肩をすくめ、軽く笑った。
「あなたたちは、いつもそうだ。剣を向ける前に、決してこちらの名を聞こうとしない。」
「…聞く必要がないと思っていた。」
「“悪”だから?」
その一言が、胸の奥を鋭く刺した。
アゼリアは反射的に剣を構え直す。
だが、斬りかかることはできなかった。
「私たちは、世界を守るために戦っている。」
「世界、か…。」
サリエルは視線を天井へ向ける。
地下牢の隙間から、血色の悪い雲と、かすかな光が見えていた。
「その“世界”の中に、あなた自身は含まれているのかい?」
「…どういう意味だ?」
サリエルはゆっくりと視線を戻し、真っ直ぐにアゼリアを見据える。
「あなたの目はね、壊れかけている。」
「ふざけるな、」
「ふざけていないさ。正義を疑うことを、禁じられた目だ。」
その言葉と同時に、記憶が脳裏をよぎる。
燃える村。
泣き叫ぶ声。
師の「迷うな」という、冷たい言葉。
剣先が、わずかに下がった。
「…黙れ。」
「なら、斬るかい?」
サリエルは微笑んだまま、一歩も動かず、胸を開く。
無防備なその姿に、アゼリアの呼吸が乱れた。
斬れば終わる。
いつも通りだ。
そう、分かっているのにーー。
「…今日は、やめだ。」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
サリエルの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「そう」
「次に会ったら…その時は、分からない。」
そう言って、アゼリアは背を向ける。
一歩、踏み出したところで、背後から声が飛んできた。
「また会おう、アゼリア・エリオス。」
振り返らなかった。
振り返ることは、できなかった。
だがーー
その名を呼ばれた感覚だけが、胸に焼き付いて、いつまでも離れなかった。