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2026/9/3(木) 22:42
本編について、大幅に加筆・修正しました。
全く違う展開になっている部分もありますので、ご注意ください。
王都に、火の匂いが満ちていた。
石畳の隙間から立ちのぼる煙は、夜だというのに空をどこまでも灰色に染め上げている。遠く城壁の外からは、地鳴りのような喊声と、剣戟の音が絶え間なく響いていた。かつて「黄金の都」と讃えられたこの王都も、今宵かぎりでその名を失うのだろう。仁人はそう悟りながら、燭台の灯りだけを頼りに、宮殿の奥へと続く回廊を急いだ。
黄色の国の王宮は、幾つもの民族の手によって少しずつ積み重ねられてきた建物だった。金箔を貼られた丸屋根、彩色硝子の嵌め込まれた窓、壁一面に描かれた葡萄の蔓と、その合間を縫うように彫り込まれた無数の白い蛇の意匠。豊かさと信仰の証だったそれらのすべてが、今は焼け落ちる寸前の、ただの木と石の塊に見えた。
供の者はもう、ほとんど残っていない。年老いた侍女がひとり、震える手で燭台を掲げながら仁人のあとをついてくるだけだ。他の者たちは、逃げるように命じた。国が滅びるのに、これ以上誰かを道連れにする必要はない。
仁人が向かっているのは、王宮の最奥、代々の女王だけが眠ることを許された「静けさの間」だった。この間に留め置かれるのは、女王のみ。国母たる女王は、脱皮を繰り返す白い蛇と同じく朽ちることなく、永遠にこの国を見守り続けると信じられているからだ。兄王の亡骸は、慣例に従い、すでに東の丘の霊廟に葬られている。仁人が焦がれるように向かっているのは、そうした慣例からも外れた、この国でただ一人の特別な人のもとだった。
扉を開けると、冷たく澄んだ空気が頬を撫でた。祭壇の中央、透き通った水晶の棺の中に、母――先々代の女王が、眠るように横たわっている。生前と変わらぬ、美しいままの姿で。その美貌と気高さは、隣国にまで語り草として伝わっていたという。棺を囲むように彫られているのは、やはり白い蛇だ。この国では、蛇は死を運ぶものではなく、脱皮を繰り返しながら永遠に生き続けるものとして、神聖視されている。
「母上」
仁人は棺の縁にそっと手を置いた。守り切れなかった、と口の中でだけ呟く。この国も、この都も、そしてあなたが遺したものも。
だが、まだ間に合うものもある。
祭壇の脇に置かれた木箱の蓋を、仁人は震える指で持ち上げた。中には、代々の女王が遺した夥しい記録が詰まっている。建国以来の条約、国境の記録、租税の台帳、家臣の名簿――そのどれもが、この国が確かにここに在ったという証だった。しかし仁人が手に取ったのは、そのどれでもない。
初代の女王が自らの手で綴ったという詩集。宮廷の舞に用いられた譜面の写し。名も知れぬ職人たちが遺した、装飾品の意匠帳。政治のための紙は、国が滅びればただの文字の羅列に過ぎない。けれど詩や旋律や意匠には、この国で誰かが確かに笑い、確かに祈り、確かに生きていたという事実が刻まれている。それこそが、仁人がこの国から守り遺したいものだった。
選び終えた品々を布に包み、控えていた侍女に託す。
「これを、頼めるか」
侍女は黙って頭を下げ、大切そうにそれを抱えて、回廊の奥へと消えていった。
喊声が、また一段と近づいた。
もう、そう長くはもたない。
仁人は最後にもう一度、母の顔を見つめた。眠っているようにしか見えないその顔は、何も答えてはくれない。かつて、この人の背中を追いかけて王宮の廊下を走った日々があった。芸術にしか興味を持たない出来損ないの王子だと、陰口を叩かれていたことも知っている。それでも、この人だけは仁人を否定しなかった。
立ち上がり、扉へと向かいかけたとき、ふと視線が、格子窓の外へと吸い寄せられた。
そこに見えたのは、王宮の裏庭だった。手入れをする者もいなくなって久しいのだろう、伸びきった蔓薔薇の向こうに、古びた木のベンチがひとつ、ぽつんと置かれている。
仁人の足が、思わず止まった。
――あそこに、二人で座ったことがある。
まだ何もかもが違う形をしていた頃。国を継ぐことも、失うことも、まだ遠い未来の話でしかなかった頃。隣に誰かがいて、たわいもない話をして、声をあげて笑ったことがあった。あの頃は、こんな結末になるとは、想像もしていなかった。
侍女が、遠慮がちに袖を引いた。
「仁人様。もう、お時間が」
「……分かっている」
答えながらも、仁人の目は、しばらくそのベンチから離れなかった。
窓の外に、ぽつり、と水滴が落ちる。
一つ、また一つ。やがてそれは、屋根を叩く雨音へと変わっていった。
仁人は小さく息を吐き、目を伏せる。
――あの夜も、雨だった。
#ご本人様には関係ありません
りす
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