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「食べたいのなら買え」
と言われ、パインをカゴに入れたあと、鍋の材料を見繕い、お惣菜コーナーの前を通っていると、店の奥から出てきた白いユニフォームのおばさんが、
「はい、エビフライ。
今、揚げたてだよ~」
と言いながら、パックを並べはじめた。
和香が覗き込み、
「お惣菜のエビフライって硬いイメージなんですが。
揚げたてだと、美味しそうですね」
と言うと、
「美味しいよ~」
と和香に向かって笑い、おばさんは行ってしまった。
耀はそのエビフライを見つめ、語り出す。
「……エビフライというのは、マヨネーズを合法的に食べるためのものだと言った男がいたな」
あなたは何故、そんな重々しい口調で、スーパーの惣菜を前に語っているのですか。
なにかの伝説の幕開けのような口調だ。
「マヨネーズをエビフライにつけて食べるんですか?
あ、タルタルですかね?」
「いや、あいつは、ほんとうに普通のマヨネーズをつけて食べていた。
マヨネーズを大量に食べたいがために、言い訳として、エビフライを使っている感じだった。
エビフライは最早、マヨネーズをのせるための道具のようになっていた。
ちなみに、その男、時也という名前なんだが」
と言うので、笑ってしまう。
「そういえば、子どもの頃、お醤油をたっぷりご飯にのせたいがために、白菜漬けを食べてましたね。
それでお母さんに……」
一瞬、幸せだったころの我が家が記憶の中によみがえった。
だが、
「そういえば、俺もやってたな、それ」
と暗くなる前に耀が言ってくれる。
「課長のお母様も怒られてました?」
「あの人はそういうとき、怒らない。
無言で見つめてくるんだ」
あの眼力でですか。
それは怖いですね……、と思ったとき、耀がスーパーの中を見回して言った。
「こういうスーパーにはあの人来ないから、今日は邪魔されないだろう」
「そうですね。
でも――
私、課長のお母様、なんとなく好きなんですよね」
和香が以前、スーパーで会ったときの耀の母の姿を安売りのワゴンの前に思い描きながらそう言うと、
「……そうか」
と耀は言った。
特に笑ってはいなかったが、目元がちょっと嬉しそうにも見えた。
「私、よくスマホに買うものをメモしてるんですけどね」
帰りの車で、和香は語る。
「この間、
『ウスターソース
魂
ゴミ袋
除菌』
ってあったんですよ。
買おうとして、……魂!? って思ったんですけど。
卵かなにかだったんですかね?」
そんな話をしているうちに耀の家に着いていた。
玄関の灯りだけがついている。
その柔らかなオレンジの光に照らし出された白い家を見ていると、不思議な感じがした。
図書館の前という理想的な立地の、理想的なおうち。
ここに自分が頻繁に足を踏み入れる日が来るなんて。
この町に引っ越してきた日は思わなかったな、と思う。
しかも、隣には王子様。
図書館の王子様。
恋には落ちまいと思っているが、王子様。
王子様はエコバッグを手に言う。
「買い忘れたものはないか?」
「ポン酢も買えばよかったですね。
あ、あと、炭酸水も買えばよかったですね」
「……帰る前に言え」
「……今思いついたんです」
「買ってこようか。
いるものを忘れないよう、メッセージで送れ」
忘れないように、と耀は言う。
「あー、いえいえ。
ちょっと思いついただけなんで、大丈夫ですよ」
「いや、行ってくる。
魂は買ってこられないが……。
お前、先に入ってろ。
ああ、まだ指紋登録してなかったな」
今から指紋登録の儀式をするか、と耀は言い出した。
いや、儀式ってなんですか、と和香は思う。
登録しといた方が便利だろ、と押し切られ、指紋登録の儀式を行うことになった。
寒い中、手をとられ、登録する場所に指を押し付けられる。
だが、上手くいかなかったようだ。
「乾燥しているのかな」
と言いながら、耀は和香の右手を両手で包み、寒い日に、子どもの手を温めるように、ふうっと息を吹きかける。
伏し目がちになると、まつ毛の長さとか、切れ長の目の美しさとかが際立って見えた。
……なんか。
ドキドキするんですけど。
さすがの私でも、どきどきするんですけどっ、
と思いながら、和香は耀に手を握られていた。
「よし、これでお前もこの家の住人だ」
指紋登録の儀式、というか。
この家の住人になる儀式は無事に終わったようだった。
試しに開けてみたが、ちゃんと鍵が開き、扉は開いた。
「たいしたものじゃないから、そこのコンビニで買ってくる。
ひとりで行った方が早いから、先に入っとけ」
そう言ったあとで耀は、
「……まあ、いつぞやの車も吹き飛ばしそうな猛ダッシュを考えたら、お前が行った方が速いのかもしれないが。
ここは俺の顔を立てて、俺に行かさせてくれ」
と言い直してきた。
耀のスマホにメッセージでいるものを送ったあと、コンビニに急ぐ耀の姿を見送る。
耀は坂の途中で振り返り、早く入れというように手を振ってきた。
頷いて、和香は中に入る。
そうだな。
部屋をあっためておいてあげよう。
そう思ったからだ。
徐々に温もりはじめたキッチンで、和香は買ってきた食材を出しながら、今は誰もいないダイニングテーブルを見つめた。
そこに耀と自分と子どもたちが座ってご飯を食べている幻が見えた。
ぼんやりしているうちに、ほんとうにすぐに行ってこれたらしい耀が玄関を開ける音がする。
「お前の望むものすべて手に入れてきたぞ」
と何処からか凱旋してきた王子のようなことを言いながら。
この王子様はテーブルにポン酢と炭酸水を置いた。
「豆腐は普通に四角く切ったんでいいんだぞ。
なんか芸術的に切ったりするなよ」
「まあ、豆腐ですからね。
でも、菊の花になら切れますよ」
などと言いながら、ふたり並んで豆腐や野菜を切る。
「鍋の豆腐を菊の花にしてどうする。
めでたい感じになるじゃないか」
と言ったあとで、耀は言う。
「ああ、めでたいか。
お前が我が家の住人となった日だもんな」
ええっ? と和香は叫んだが。
そうか。
あの指紋登録の儀式のことかと思う。
「ここに住んだりはしませんよ。
……課長に迷惑かけたくないですしね」
そう言いながら、和香は豆腐を切り、鍋に入れた。
かなり細かく切れ目を入れたので、少し揺らしてやると、綺麗な菊の花になるだろう。
ほう、とそれを見て言った耀は、シイタケにナイフで細かな柄を入れ始める。
だから何故、張り合うのですか……と思いながらも、二人で楽しく具材を切った。
「ほら、手を拭いて、皿でも運べ」
鍋がくつくつ煮え始めたころ、まだ流しのところにいた和香に耀がタオルを投げてくれた。
ホテルのタオルのように、真っ白でふかふかなそれを見ながら、和香は呟く。
「そういえば、何故か捨てられずに残る呪いのタオルってありますよね」
なんだって?
と耀が振り向く。
「タオルをウエスにするとき。
あ、古いタオル。
今、枚数多いから、これはいいか、と思って置いておいたり。
ウエスにするとき、ちょうど洗濯機の中にあったりして。
なんか逃げ延びるタオルがあるんですよ」
「なんだ。
逃げ延びるタオルって……」
それがなんで呪いのタオルだ、と言われる。
「いつまでもいつまでも、そのタオルの同期のタオルたちがいなくなっても」
「同期のタオル……?」
と耀は|訝《いぶか》しげだったが、和香はそのまま続けた。
「それでも、その一枚だけ、ずっと残ってるのって、なんか怖くないですか?」
「見つけたときに捨てるか、ウエスにすればいいじゃないか」
「でも、なんか、ちょうどいい吸水具合になってて捨てられないんですよっ」
「……気に入ってるんじゃないか、そのタオル」
と言われ、
「そうか。
そうなのかもしれないですね」
と和香は頷く。
「でも、あまりにも変色しているので、お客さまがいらっしゃったとき、うっかり出してしまうと恥ずかしいなとは思ってるんですけどね」
そんな和香の言葉を聞いて、耀は、なにか物言いたげな顔をしたが。
結局、なにも言わず、
「……じゃ、映画観ながら食べるか」
と言ってきたので、和香は、はいっ、と皿や箸の準備をした。