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朝、耀に送られ、アパートに戻った和香はあくびをしながら、階段を上がっていた。
すると、ちょうど羽積が部屋から出てくるところだった。
スーツを着ている。
今日もコピー機の会社に行くのだろう。
「朝帰りか。
そのまま会社に行けばよかったのに」
と羽積は余計なことを言ってくる。
「いや~、課長と一緒に出社するわけには行きませんし、着替えないと」
と言って、
「着替え、持ってっとけばよかっただろ」
と自分を監視している人にアドバイスされてしまう。
まあ、監視といっても、おかしな動きをしないよう、ゆるく見張られているだけのようなのだが。
「帰る予定だったんですよ」
「帰る予定でも帰れなくなる。
それが男と女というものだろう」
「いやまあ、映画観ながら寝ちゃっただけなんで」
はは……と俯き笑った和香を羽積が見つめる。
三階の主婦の人だったら、舞い上がってしまいそうな感じにまっすぐに。
「やめればいいだけの話だろ」
と羽積が言い、和香は顔を上げた。
「復讐をやめればいいだけの話だ。
そしたら、お前は普通のOLだ。
……まあ、FBIだの、なんだのにいただけで、充分普通じゃないんだが」
羽積は和香の迷いを見透かすようにそう言った。
「正直に言いますね」
和香は羽積を見上げて言う。
「実は、王子様に手を温められ、ちょっと迷いはじめたところなんです」
なんだ、それは……、と羽積は眉をひそめた。
「今朝は今朝で。
朝食のデミグラスハンバーグに目玉焼きをのせられ。
なんだかゴージャスな感じがして。
こんな日々が続けばいいなと思って、さらに迷いはじめたんですけど」
なんだ、それは、とまた羽積は言った。
「目玉焼きのせられただけで、嬉しくて復讐を思いとどまるのか。
っていうか、朝からデミグラスハンバーグか!」
「はあ。
前日、鍋だったので消化良すぎて。
お腹すいちゃったので、こってりハンバーグで」
「前日、鍋だったのなら、雑炊にしろ!」
残ったダシがもったいないっ、とよくわからない理由で、自分を監視している人に叱られる。
「ともかく、なにもせずに、普通に嫁に行け。
そしたら、誰もお前を見張らなくなる。
お前が前の仕事で得た力を使って、会社を傾かせたり、専務や常務になにかしたらまずいと思って監視されてるだけだから」
そこで、和香はちょっと笑って言った。
「あなたがたこそ、専務や常務のことなんて、どうでもいいんですよね。
私がかつての住処で養われた能力で、なにかしなければ。
そして、私が捕まって、私の過去が洗われたりしなければ。
……てことは、私が誰にでもできるようなことで、専務たちに復讐し。
警察に捕まらない分には構わないということですね」
ふと思いついてそう言うと、羽積が言った。
「そうだな。
廊下で足引っ掛けて転がすくらいならな」
和香は、くすりと笑って言う。
「二人とも、ご老体に近づいてるお年なんで。
こけただけでも、大怪我になっちゃうかもしれませんよ」
「そんな風に心配する心があるならやめとけ」
……これはあれかな。
私が専務たちへの復讐をやめたら。
私を見張るという仕事が減るから一生懸命言ってるのかなと思う。
「当たり前ですけど。
親しくなったら、人となりも見えてきて。
専務も常務もいいところもあるなとは思うんですよ」
「じゃあ、やめとけよ」
と羽積はまた言う。
「でも、邪魔だったうちの父をハメて、産業スパイに仕立て上げ。
うちの家庭を崩壊させたことには変わりないです」
「お前は父親の事件を調べ直すために、この世界に入ったのか」
和香がした忘れ物を届けに、耀は和香のアパート下まで引き返してきていた。
だが、上で話している声が聞こえ、そっと耳を澄ます。
和香と男の声だ。
二人の声は周囲に聞こえないようにか、小さかった。
「専務も常務もいいところもあるなとは思うんですよ」
「じゃあ、やめとけよ」
なに男と深刻な話してるんだ。
例の羽積か。
そこで、耀は、ハッとする。
やめるんだ、和香っ。
あれほどのイケメンに、そんな打ち明け話をして、慰められたりしたら。
恋に落ちるに決まっている!
そのとき、二人が黙った。
「課長?」
と上から和香の窺うような声がした。
近づいてないのに、何故、わかる……、
と思いながら、耀は、そっと出ていく。
「すまない。
盗み聞きをするつもりはなかったんだ。
忘れ物を届けに来ただけだ。
助手席に落ちてたぞ、和香」
羽積が耀の手にある箱を見て言う。
「……なに『本格天然鰹出汁』なんて落としてんだ。
イヤリングとかにしとけよ」
いや、うちの料理に使っている出汁が気に入ったと和香が言うので、一箱やったのだ。
「わざわざすみません、課長」
と和香が苦笑いして言う。
ほら、と和香に出汁を渡すために近づいたとき、和香のものではないいい香りが仄かにした。
この匂い、と耀は和香の側にいた羽積を見る。
この匂い、確かカートを持ち上げて、俺を助けてくれた奴からも香っていた。
耀は羽積を見つめて問う。
「まさか……
お前が俺の王子様なのか?」
「……なに言ってんですか、課長」
と和香に言われてしまったが。
「何故、わかったんだ。
顔は見せなかったはずなのに」
そう羽積は耀に訊いてきた。
「匂いでわかったんだ」
と耀は素直に言って、二人に、
犬!? という顔をされる。
「仕事上、極力洗濯用洗剤などの匂いもさせないようにしてるのに……。
和香、こいつ、実はお前の仲間のひとりか?」
いいえ、と和香は苦笑している。
改めて、こいつら、何者なんだよ、と思った。
だが、俺の一番の関心事はそのことではない。
何者かなんて追求する気もない。
和香がこれから先も俺の側にいてくれるのなら――。
羽積はそこで腕時計を見、
「遅刻するぞ、お前たち」
と言った。
階段を降りる前に振り向き、和香に言う。
「こんな日々が続けばいいってお前が思っているのは、目玉焼きに関してだけじゃないだろ。
そのまま普通に生きていけ」
耀は、羽積を見送る和香を振り返り、
「……目玉焼き?」
と訊いてみたが、和香は、
「いえ、なんでもないです」
とちょっと恥ずかしそうに言っただけだった。
休日、耀と和香は母親に呼び出され、一緒に昼食をとっていた。
耀がお手洗いに立って戻ってくると、眺めの良い広い個室に、母親の笑い声が響き渡っていた。
「まあ、ほんとうに楽しいわ。
和香さんのホラ話」
と機嫌がいい。
耀は席に座りながら、和香に小声で訊いてみた。
「なんの話をしたんだ?」
「FBIにいたときの話です」
「……いいのか、それ」
っていうか、FBIに愉快な話あるのか、と思う。
「それで、洗い終わったあとの食洗機の扉開けてたら、そこにお味噌汁ひっくり返しちゃったんですよ~」
まあ、ほほほほ、と母親が笑うのを聞きながら、耀は、
それ、FBI関係ないだろ……と思っていた。
「そうだわ、和香さん。
私、最近、マッサージを覚えたのよ」
耀は、ビクリとする。
「やってあげるわ、和香さん」
やめておけ、と耀は目で訴えたが、間に合わなかった。
「ありがとうございます」
と和香は母に向かい、笑いかけていた。
まあ、断ったところで、なんだかんだで実験台にされるのだろうが。
自分がそうだったように……。
母は和香の後ろに回り込み、その両肩に手を置いた。
「私、ちょっと力が強いのだけれどね。
ツボにぐっと入ると、痛いというより気持ちいいらしいわ」
「そうなんですか~」
と笑っていた和香の顔が止まった。
ほんとうに、この母は力が強いのだ。
というか、ツボに入ったら痛くないのは針治療の話で、指で圧をかける場合は痛いのでは?
と思ってる間も母は言う。
「ね?
ツボに入ると、そんなに痛くないでしょう?」
「……そうですね」
和香は母の機嫌を損ねないようにか、我慢してくれているようだった。
いつ、ぐっ、と母の指に力が入ったのかわかる。
和香がその瞬間、カッ、と目を見開くからだ。
和香。
俺の母の機嫌を損ねないために、激痛を我慢してくれるとはっ。
俺に近づくなとか言われたりしないようにだろうか、とちょっと期待してしまう。
和香は平静を装いながら、何度も目を見開いていた。
そろそろ止めた方が。
人死にが出るかもしれん、と耀はハラハラしていたが。
和香が突然、
「あ、肩が軽くなりました」
と言い出した。
「そうお?」
と母は機嫌良く手を離す。
「ありがとうございます」
と言いながら、和香は笑顔で、ぐるぐると腕を回して見せていた。
嘘なのか本当なのかわからないが。
母は機嫌良く、マッサージを終えた。
できた嫁だ……。
いや、まだ嫁ではないんだが……。
帰り際、和香がまだ腕を回しながら呟く。
「いや~、最初の一撃を食らったとき、新たな刺客が現れたのかと思いましたよ~」
過去、刺客に狙われたことがあるのか……?
「でも、拷問の訓練を受けたことがあるので、大丈夫です」
と和香は笑顔で言ってくれるが。
「申し訳ない」
とあの母の息子として謝った。
「いえいえー。
ほんとうに肩、軽くなりましたよ~」
「それは母の無茶なマッサージから解放されて、軽くなっただけでは……」
和香はまだ肩を回しながら、うーん、と首をかしげて言う。
「確かに痛かったんですけど。
お母様に嫌われたくないと思って、我慢してしまったんですよね。
課長のお母様だからでしょうか」
「和香……」
ちょっと嬉しくなったが、すぐに、
「きっと、お母様のことが好きだからですね。
なんかいいですよね、課長のお母様」
といい感じにまとめられてしまった。