コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
びっくりしたのが、荒木とのセックスの影響で肌のコンディションがすこぶるよくなったことだ。わたしは元々スキンケアにはうるさく、高級美容液や乳液を愛用している。なのでこの年にして肌のハリはあるほうだが――なんというか、触り心地が違う。薔薇色に紅潮し、少女のような無垢さを保っている。――不倫をしておいて無垢というのもなんだが。
荒木と関係したあとは、ひたすらに、仕事のときは仕事のことを、育児のときは育児、家事のときは音楽を聴きながら作業と音楽を没頭――頭のなかを別のことでいっぱいにした。それでも、荒木とのめくるめく行為が蘇り、疼くこともある。そのときはただ、耐えた。
夫がこれをしたから妻であるわたしは激高したのだ。同じ過ちを犯してどうする。
不思議なほどに、美冬のことは考えなかった。夫の告白を受けて、美冬が目の前に現れて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ――恩を感じる一方で、『ふざけんな』という気持ちもある。
美冬はいつも身ぎれいにしていて、細くて――華奢なのに胸にボリュームがあって。リブニットなんか芸能人のようにお似合いだった。わたしには着こなせない、からだの曲線に控えめに寄り添う、ぴったりした服ばかり着ていた。膝をすこし超える丈のスカートなんか馬鹿みたいに似合っていた。
ふっくらした体型で、からだのラインを出さないファッションを選ぶわたしとは対照的だ。思えば――いつからか、からだにフィットした服ばかり売る店と、だぼっとした服を売る店と、綺麗に二極化してきたように思う。美冬が着るのが前者の服でわたしが後者。手持ちの服はドロップショルダーの服ばかりだし、スウェットやパーカー、この時期はセーターばかり着ている。丈も長めのものが多い。
もしかしたら夫は――美冬のそういう部分にも惹かれたのかもしれない。料理上手、床上手……。確かに、わたしが男だったならば美冬に惚れていたかもしれない。正妻に詰問されても笑みを絶やさない――あの女。
こんなふうに、美冬のことをあれこれ考えるときに、不思議と夫のことは思い浮かばない。何故だろう。不倫は――サレ妻は、夫ではなく浮気相手を恨むものというが、まさにそれ。夫に対する憎しみよりも――美冬と自分とを比べ、卑下する気持ちのほうが強い。
美冬が現れる前から、わたしたちは仮面夫婦だった――とまでは言わないが、互いにろくに口を利かない日もある。コミュニケーションが皆無。話すのは夫の好きなサブカルネタや円のことばかり――。円がこの家を出たらどうなるのだろう。夫に合わせて話を振るなんてごめんだ。わたしは、わたしの世界を生きている。読書と書評書きは一生――続けることだろう。
荒木とは――荒木は流石、文章を書く人間なだけあって話が面白い。どんな作家の話を振ってもすぐ答えられる。ラノベばかりの夫とは大違いだ。それに――偏見も少ない。
荒木との会話はわたしを楽にする。たまに、わたしが家庭内の愚痴を言えば、荒木は『あっちゃん頑張ってるね』と励ましてくれ、『頑張りすぎてしんどいときはおれに言ってね』などと言ってくれる。どうして惚れずにいられようか。
本に没頭するわたしの気持ちを理解してくれ、『読書と書評の時間があっちゃんにとっての救いなんだね』と――あのやさしい声で言ってくれる。
そう、わたしは荒木の声も好きなんだ。たたずまいも――さっぱりとした風貌も。やや長めで、ボリュームのある前髪も。セックスのときは、あの前髪をぐじゃぐじゃ掻きまわした――ずっと触りたかったの、とわたしが告白すると、荒木はわたしの髪を撫でながらこう言ったのだ。
『――おれも、おんなじ……』
――さて。荒木とのメッセでのやり取り――及び行為から一週間が経過した。12月に入ると――いや、ハロウィンが終わった頃からかな。世間は、クリスマス一色になる。ケーキ屋に行けば、クリスマスケーキ予約の貼り紙がされ、お気に入りの服屋や雑貨屋に行けばオーナメントにツリーを売っている。クリスマス商戦というやつだ。わたしの、一度行っただけでお気に入りのカフェ『フローラ』の店先に、わたしの背丈以上の高さのクリスマスツリーが飾られている。古本屋がいつも通り簡素なぶん、差が際立って見えた。
荒木の姿はすぐに見つかった。彼の姿は、周囲から浮かび上がって見えた。恋をしている証拠だ。入ってすぐのカウンター席に座って本を読んでいる。――荒木は、断筆したと口では言ってはいたが、その話しぶりから分かる。彼は、選ばれた人間だ。小説のほうが彼を手放さないのだろう。先週荒木のマンションにて、彼がシャワーを浴びている間見れば、デスクのうえにノートパソコンが開きっぱで、クリックすると、青空文庫で『こころ』が開かれていた。そういうひとだ。
なんとなく。名残惜しくてわたしは、クリスマスツリーに隠れて、彼のことを眺めることにした。会うのはこれで最後――と思うと、惜しい気がしたのだ。わたしはこの三十分後、いったいなにをしているだろう。決まっている。
悲壮な決意を胸に秘めながらも、わたしのこころのなかは穏やかだった。荒木の横顔は――幸福そうだったから。わたしは微笑みながら、やがて彼に近寄ろうと思ったのだが――どうやらこちらに背を向ける女が荒木に接近している。知り合い? いや――彼女はエプロンをしている。後ろ姿で見る限り腰のあたりで紐を結わいている。店員、しかしこの店はセルフだ。ドリンクや簡単な料理を客が取りに行くスタイル、なのに店員が彼に近づくこと自体が不自然だ。そして、そのリブニット。うちで見たのと似た感じの、ラベンダー色のリブニット。ざわりと肌が粟立った。ほっそりとしたからだのラインを際立たせるラインに、男ならずとも魅せられるものがある。細いウエストに幅広いヒップ。まさか――。
荒木の席は近かったゆえ、わたしのところまで声が聞こえた。女は、荒木に向けて、
「いらっしゃいませお兄ちゃん」
わたしは、短く悲鳴をあげ、咄嗟に口許を押さえた。崩れ落ちそうになるのを堪えるので精一杯だった。――まさか。そんな馬鹿な。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
荒木が、先にわたしに気づいた。あっちゃん、と声をかけると女は振り返った。いらっしゃいませ、と言う美冬の首元にはネックレスが光っていた。ペンダントトップの代わりに――指輪を。
わたしは足ががくがくになりながらもなんとか彼らに近づき、喉の乾きを覚えながらも、声を発した。「……荒木さん。こちら、妹さん……?」でも、どうして苗字が違うのだ。一秒足らずでわたしの脳は結論を弾き出していた。ということは、つまり……。
「うん」と、状況を分かっていないふうの荒木が答えた。美冬の顔色は――蒼白だ。「みっちゃん。こちら、篤子さん。おれの彼女」
――どうして、こんなことが……!
わたしと美冬は無言で見つめ合った。そのただならぬ様子に、流石に荒木が気づいたらしい。「どったの二人とも。もしかして――知り合い?」
知り合いどころの騒ぎではない。荒木に、『おれの彼女』と紹介して貰えるのは嬉しかったが、でも、でも……。
わたしは荒木に向けて、微笑みながら答えた。「このひと……あなたの妹さんは、うちの夫の浮気相手なの。美冬さんはご結婚をされているから、ダブル不倫てやつね」
*