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ユカリが地下神殿へと降りてくる少し前、ベルニージュは体の内に燻っていた燃えるような熱が消え去っていることに気づいた。散々苦しめてくれた熱病が、初めからなかったかのように綺麗に取り払われている。
意識がはっきりとしてきて、ゲフォードことジェドに呼びかけられていることに気づき、ベルニージュは飛び跳ねるように退く。シイマは孫娘キーチェカの方を揺り起こしていた。
改めて、ユカリの姿がどこにもないことを確認する。グリュエーはあの後すぐにユカリの元に戻ったのだろうことは想像に難くない。間に合ったのだと信じるほかない。
「いったい何が起きたの? 呪いは、解けたの?」
ベルニージュの問いにジェドは答える。「ああ、だが俺たちにも何が何だか分からない。シイマに覆いかぶさって熱病の矢を受けたはずなんだが」
シイマの呆けたような表情を見て、ベルニージュは否定する。「でも、それだけじゃないでしょ? 呪いが解けるとすれば魔女の子に関して何か変化があったということだよ」
「変化?」汗を拭いつつ起き上がったキーチェカが呟く。「もしかして、ばあちゃんとゲフォード、じゃなくて、ジェド、結婚したとか?」
「何で分かったんだい? キーチェカ」というシイマの声が上ずっている。
「やっぱりね」と言ってキーチェカはからかうような笑みを浮かべる。「そうすれば呪いが解けるかも、って思ってたんだよ。ジェドが夜闇の神へ祈りを捧げてきたことで、女たちが《熱病》に襲われることを防いでいたのなら、そもそも夜闇の神の下に誓いを立てれば月も手出しできなくなるんじゃないかなって」
ジェドがシイマの方に熱い視線を送る。「おそらくその通りだ。俺がシイマに求婚した」
ベルニージュとキーチェカは期待を秘めた眼差しをシイマに向けて言葉を待つ。
「ああ、そうだよ」とシイマは忌々し気にベルニージュとキーチェカの期待に同意する。「あたしはそれを受け入れた。まったく、こんな歳になって恥ずかしいったら」
「あの状況でよくもまあ」とキーチェカは言って、呆れたようにジェドを見る。
「なるほどね」ベルニージュは円蓋の穴を見上げる。「矢の雨も降りやんでいる。《熱病》も去ったのかもしれない」
「もしくはジェドが死ぬのも月を諦めさせる一つの手かもしれないと思ってたけど」とキーチェカは言い、驚くジェドの表情を見て笑う。「もちろん冗談だけどね。ねえ、念のために結婚式をしておいた方がいいんじゃない? 壁画を見て大体やり方は分かっているからさ」
シイマは少し抵抗したが、また熱病が来たらどうする、という半ば脅すような説得に従った。
そうしてキーチェカが古代の結婚式を再現しようと準備をしている間、ベルニージュは床に落ちていた羊皮紙を見つけた。まるで内容は読めないが、間違いなく魔導書のそれだった。
キーチェカが苦心して財宝の山の中からそれらしい装身具を集め、シイマとジェドを飾り付けていく。二人は瞬く間に王と妃のような装いになって壁画の前に立たされる。
キーチェカは壁画を見つめながら何かを思い出すように頭の中にある言葉を読み上げていく。
二人のこれからの人生の全ての喜びを分かち合い、全ての重荷を分かち合うように、そしてキーチェカは夜闇の神の下に誓約の順守を言い渡した。
シイマとジェドは誓約の順守を誓い合って、二人はこうして形の上でも契りを結んだ。ベルニージュはその誓いの証人となり、その夫婦を祝福した。
丁度その時、螺旋階段をユカリが降りてくることに気づく。ユカリは遥か上空から地面に叩きつけられたのかもしれない、というベルニージュが頑なに追い払おうとしていた最悪の想像が呆気なく霧散した。ベルニージュは喜びに飛び上がり、ユカリのもとへ駆け付けることを堪える。厳粛な場だ。ユカリもそれを察したのか、静かにキーチェカとベルニージュのもとへ歩み寄って来る。
「いったい何をしてるんです?」とユカリはキーチェカに囁き尋ねる。
「ばあちゃんとゲフォードの結婚式が執り行われたんだよ」とキーチェカは微笑みを浮かべて言った。
声を潜めつつも驚きを隠せない様子でユカリは言った。「いったい何が起きたらそうなるんです!?」
そう言いながらも、ユカリは拍手をして、きっちりと二人を祝福する。
ベルニージュは熱病の呪いが解けた理由を交えてユカリに説明した。そもそもゲフォードことジェドが魔女の子だということも初耳のユカリにとっては驚きの連続だった。その様子がおかしくて、改めて生きていたことが喜ばしくてベルニージュは涙ぐむ。
「よく分かりました」ユカリは拗ねた風に言う。「でももっと早くに戻って、私も結婚式に参加したかったです」
「ワタシが結婚する時はユカリを招待するよ」とベルニージュはらしくもない冗談を言うが、ユカリははにかんで答える。
「ありがとうございます。その時は是非」
ベルニージュは穴を見上げて尋ねる。「そういえば上の様子はどうだったの? 母上は無事だった?」
「ええっと、母上? ああ、はい。上にいた女性は無事でしたよ」
ベルニージュは怪訝な面持ちでユカリの顔を覗きこみ、尋ねる。「上にいた女性? サクリフはどうなったの? 《熱病》と戦っていたように見えたけど」
「羽ばたき? ああ、あの怪物ですか。怪物は私の記憶をあの女性に渡して、えっと、救うために、あれ?」
いよいよ異常な事態をベルニージュは確信する。
「あの怪物ですか、って言った?」ベルニージュはユカリの肩を掴んで問い詰める。「記憶を渡した? ユカリ! サクリフが分からないの? サクリフの記憶を母上に渡したの!?」
ユカリはベルニージュの真っすぐな視線から逃げるように逸らす。「羽ばたき? と、その、貴女のことも分からない、です」
全身を燻すような白い煙を立ち上らせて、ベルニージュは螺旋階段へと駆け出した。怒りのままに駆け上がり、地上へと戻る。
サクリフはもういない。ベルニージュの母は背を向けて、中腰で見えない何かと話している。まるでそこに小さな子供でもいるかのように。
「母上! いったい何のつもり!?」ベルニージュは母の背中に怒鳴る。
ベルニージュの母は腰を伸ばすが背を向けたまま答える。「何のつもりか、教えなくては分かりませんか? ベルニージュさん」
ベルニージュには分かっていた。母がその道を選ぶ理由は分からなくても、その目的地がいつも同じだということを。つまりベルニージュのために、ユカリから『ベルニージュの記憶』と『サクリフの記憶』を奪い取ったというのだ。
ベルニージュの声が喪失を恐れて震える。「お願いだから返して。ワタシの大切な友達なの」
「ねえ、ベルニージュさん。貴女は貴女が母上と呼ぶ母上の名前を覚えていて?」
「それは……」
何度も聞いたが、覚えられない。覚書を用意しても忘れてしまう。この記憶喪失は器の中身を失っているのではなく、器そのものを失っているのだ。
「貴女が大切だというユカリは、私からすれば取るに足らない小娘です」とベルニージュの母は冷たく言い放つ。
我慢の限界を超え、ベルニージュが理性を手放しかけたその時、ジェドが後ろから呼びかけた。
「母さん。俺を、俺たちを助けてくれて、ありがとう」と。
不意打ちを食らったような気持になり、ベルニージュは振り返る。ジェドは抱えていたシイマを下ろし、優しい微笑みを浮かべていた。
何らかの説明を求めようと母と名乗る者の方を振り返った時には、もうその姿はなかった。