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『月を恐れる王の子の逸話』
その昔、その者はいずこの国の王の子として生まれました。第三の英雄と崇められるに至る、畏れ多き王の子でした。
魔女の子でもあったために、その貴くも呪わしい血筋を疎まれ、生まれて間もなく彼の者は棄てられました。遠く神の血を引いてはいましたが、貴き血筋とは無縁の人間の元で育てられることとなりました。
賢く逞しく育った王の子は類稀なる美貌を備えていたために、多くの女を色めかせましたが、愛したのはある村娘だけでした。
しかし、それ故に月の女神の嫉妬を買い、多くの女が呪われ、王の子の愛した村娘に至っては目を焼き潰されてしまいました。
このまま村娘を失うことを恐れた王の子は己の母たる魔女に希い、月の光の届かない深い深い地の底の宮に隠れました。
また村娘への償いをしたいという王の子の申し出を受けて、魔女は祖神に賜った財に恵まれる祝福を息子に与えました。
王の子は新月の夜にのみ地上を訪い、盲目の村娘を覗き見ては、村に富をもたらすだけの日々を送りました。
その血筋故に老いに弔われることもなく、村娘が人の野原を去った後も、王の子は地の底の宮を財宝で満たしていました、いずれ星々の数にも劣らぬ軍勢でもって月の宮を陥落せしめる夜を夢見て。
魔導書であるところの古びれた羊皮紙に書かれた物語を、旅の仲間である紅の髪の少女がユカリに語って聞かせた。
そこに書かれた前世の文字はユカリにしか読めないはずで、そうでなくても今朝会ったばかりのはずの少女にこの羊皮紙を読めるわけがない。眠っている間に合切袋から盗み出して、どうにか内容を解読し、再び片づけ、朝を迎えてからこうして語って聞かせているのでもない限り。
その少女の言うようにユカリが記憶喪失であるという説明の方が単純明快だ。
かつて与えられた役目をとおに忘れてしまった歪な敷石の並ぶ古い街道の脇で一晩を明かしたユカリは、同じように木陰に座る見知らぬ少女を訝し気に見つめている。秋の昼下がり、冬の兆しを運ぶ風に吹かれながら、他に行き来する者のいない道を辿って、ある鉱山街へと向かっていたある朝のことだった。
「信じてくれた? ワタシの話」
その紅の髪の少女は何もかもを赦す慈母の如き微笑みを浮かべてユカリの答えを待っている。
「信じていいの? グリュエー」とユカリは空中に呼びかける。
「グリュエーの知る限りでは本当のことを言っているよ」と冷たい風が答える。
ユカリは言葉の距離感を探る。「えっと……つまり、貴女の――」
「篝火ね」
「篝火さんの言う話が本当なら、エベット・シルマニータを離れてからここ一週間ほど毎朝このようなやり取りをしていることになりますよね?」
「その通り、ほぼ毎回同じようなやり取りだね」篝火はにやりと笑みを浮かべる。「ただしこの話をされた時のユカリは日増しに罪悪感が大きくなっているようだけど」
ユカリは苦笑して頷く。「私が信頼できるように手間をかけさせて申し訳ないです。見捨てられてもおかしくないのに」
「見捨てないよ。友達なんだから」と篝火は誠実に答える。
ユカリは見えない誰かの姿を探すように視線をそらす。「グリュエーが私に説明してくれたら手っ取り早いんじゃないの?」
「だって上手く説明できないから信じてくれないことがあるんだもん」とグリュエーは抗議する。「って言うのも何回目か分からないけど」
「それは、ごめん」ユカリは素直に謝った。
紅の髪の少女、篝火は他の魔導書の内容についても把握していた。文字が読めるわけではなく、ユカリに読み聞かせられたのを覚えているのだという。だから自分はユカリの信頼を得ている人物なのだと少女は説明した。この膨大な量の文章を全て覚えているという主張はむしろユカリの不安感を煽ったが。
「ありがとうございます。でも記憶を取り戻す魔導書が働かないのはなぜでしょうか? 篝火さんのお母さんがそれだけ強力な魔法使いだということですか?」
あのハウシグで出会った魔法使いが篝火の母親だと言われても、ユカリはあまりぴんとこなかった。あまり似ていない母娘だ。
「ううん。確かに母は強力な魔法使いだけど魔導書に抗えるほどではないはず」篝火は何かを思い出すような沈黙を経て話す。「推測にはなるけど、魔導書も万能ではないんだと思う。この記憶喪失は普通の記憶喪失とは違うんだよ。これは器の中身を失ったのではなく、器そのものを失ったようなものなんだろうね。手で作った器ですくうように一時的に記憶を保つことはできるけど、継ぎ足さずに放っておけば、いずれ手の中から漏れ出てしまうというわけ。そして記憶を取り戻す奇跡の魔導書はとても強力だけど、あくまで器を満たす力に過ぎないってことだね」
器の中身ならばいくらでも元に戻せるが、失った器自体を戻すことはできない、ということらしい。
単純明快な仮説ではあるが、ユカリはどこか腑に落ちなかった。ユカリの知る魔導書はもっと強力で強引な存在ではなかっただろうか。魔導書同士が拮抗することはあっても、単なる魔法をどうにかできないというのは初めてのことかもしれない。
とはいえ、いくら強力な獅子も空は飛べないわけで、同じ記憶に関する魔法といえど、魔法の素人には計り知れない隔たりがあるのかもしれない。
ユカリは篝火の説明を何とか飲み込む。
「なるほど。確かに頭の中に収まっているアルダニ地方に来てからの記憶は、どこかちぐはぐな印象があります。つまり篝火さんにまつわる記憶を収める器を取り戻さないことにはどうにもならないんですね」
「そういうこと。そしてそれを奪ったのがワタシの母親ってわけ。ごめんね」
「いえ、でも篝火さんの話を聞いて、篝火さんのお母さんに何かの記憶を渡したことを思い出しました。でもそれはちゃんと覚えていたはずなのに、なぜか思い出せない。不思議な感覚です」
「うーん」と言って篝火は言葉を探す。「それは橋を渡らなければたどり着けない向こう岸のようなものだよ。記憶の器から器へ、思い出すのに必要な道筋があるんだと思う。それ自体の記憶があっても、記憶そのものに干渉しにくい状態なんじゃないかな」
「篝火さん自身を忘れてしまったせいで、篝火さんにまつわる出来事も思い出しづらくなっているんですね。でも記憶を渡した理由については曖昧なんです。怪物を、どうにかして――」はたと気づいてユカリは黙り、申し訳なさそうに口を開く。「もしかしてこういう会話も毎日やってましたか?」
篝火は優しい微笑みを浮かべて首を横に振る。「判を押したように同じ会話ってわけではないよ。ワタシができる限り色々な角度の話題を振っているからね。毎日やっているのはワタシを信頼してもらうことと、お互いの目的を確認すること。魔導書の収集とユカリの記憶の回復が当面の目的だね。ほとんどの場合、記憶の回復を優先しようって結論になるけど、今日のユカリはどう?」
ユカリは真剣な表情で頷く。「異論はありません。それで私たちは篝火さんのお母さんを追うために、彼女の追っている蛾の怪物を追っている、ってことですよね?」
「その通り。今はあの山の麓にある街へ向かっているところ」
ユカリは振り返り、旅の仲間の少女の指さす先を確かめる。そこにはかの大山脈エドンを背景にして、倒れた卵のような楕円体を半分に切ったような山があった。前面を除いて木々に覆われているが夏と共に緑の輝きはいずこかへと失せ、冬の間近に迫る山だ。
ユカリと紅の髪の少女は再び旅路へと戻った。