〈早乙女 裕香 の真実〉
私がこの学校の生物の教師になり、5年の月日が流れようとしていた。
また、今年の4月から新しく入った1年C組の
担任を受け持つこととなった。
どの生徒も無邪気で可愛らしいと思いつつも、プライドの高い私は素っ気ない態度を取っている。
しかし、妙に鼻につく生徒が1人いた。
小柄な体をさらに縮み込ませ、なかなか馴染めないのか他の者と話しているのを全く見たことがない。
肩につかないほどの黒髪を揺らし、今にも折れそうな細い腕を精一杯動かして板書を書き写している。
彼女の名は、佐伯霞。この話ではまだ、彼女のどこが気に食わないか分からないだろう。
私が違和感を覚え始めたのは梅雨明けのことである。
いつものように眠っている生徒を起こすために席の間を曲がり歩いていた。
2列目に差し掛かったところで、佐伯がペンを落とした。私が拾おうと床に目を落とした途端、ペンの出っ張りに挟まる小さな紙切れのようなものに気がついた。
そこに書かれていることに驚いた私は、赤いペンと佐伯を何度も見交わした。佐伯は生温い風に当たりながら、すっかり夏色の景色を横目に頬杖をついている。
紙切れには
『愛してる』
そう書かれていたのだ。
これは私に対してではないのだろうと、我に帰り静かに佐伯の机に置いた。
その週の木曜日。そんなことを忘れていた私は同じように教室中を見て回った。
コツン、と軽い音を聞いて振り返った私はまた2列目の佐伯の机の横で立ち止まっていた。
また同じ、持ちやすそうな赤いペン。紙切れには『好き』と書かれている。この一言は私の脳の奥底をじんわりと侵食していった。
次の週も、また次の週も、佐伯はペンを落とした。
『返事待ってるね』『大好き』『振り向いて』
だんだんと佐伯が面倒になった私は、授業中に教卓の前から離れなくなっていった。
申し訳なさと、ほんの少しの恐怖が湧き上がり暑いはずの教室はどこか寒気を感じた。
しかし、日頃から彼女がよく私を追い回していることは知っていた。教師としては好きと嫌いの以前に、生徒とそんな関係に陥るなど決して駄目なことだと応える気すらもなかった。
ある日の放課後、私は普段通り生物室で仕事を済ませた後、奥にある鉄扉を開けて栽培室の花に水をやりに行った。
栽培室は生物室と繋がっていて、天井もなく広々とした空を眺めることができるため、私が唯一落ち着ける場所であった。
すると突然、生物室の入り口扉を通り、重い扉を開ける音と共に空気がこちらに押し寄せる。
__ついに佐伯が話しかけに来たのだろうか?
と思い振り返ると、そこには
松上 悠真(まつがみ ゆうま)が立っていた。
松上は無遅刻無欠席、さらに定期テストは毎回トップ3位以内に収まるほど優秀な生徒であったため、心から感心し一目置いていた。
「松上君じゃない。どうしたの?何か聞きたいことがあれば…」
「先生、僕に生物の授業をしてください」
そう言って彼は私をフェンスに追いやり、両手首を頭上に拘束した。
荒い息遣いが耳をくすぐり、彼の舌が私の首筋の上を上下に滑り踊る。
「ちょ…松上君…。ンッ…//」
抵抗できなかった。
白衣の上から、私の体のラインを指先で丁寧になぞっている。
手のひらを狭め、彼は私のスカートを捲りあげようとした。
「いい加減にして…!!、」
バタン…!!
大きく硬いものと何かが擦れ合う音がした。
気がつくと私は地面を眺めている。
混乱と不安で一気に頭が一杯になり、蝉の声も突然シンと止んだ。
置いてかれたサッカーボールと一緒に、
グラウンドの地面に転がっていたのは
頭から血を流す松上君だった。
私は真っ白な頭を冷静に整理し、すぐに階下へ降りようと思った。
__落ちたのは裏庭だから誰にも気づかれてない、大丈夫。
そう心に言い聞かせ、生物室の扉を勢いよく開けた。
一歩前へ出た後、私は足の裏に丸みの帯びた何かを感じた。
嫌な予感がした私は、首は動かさず目線だけを下に落とした。
そこには見覚えのある赤いペン。
今回ばかりは紙切れなど一切挟まっていないと一目見てわかった。
私の口角は自然と不器用に上がる。
「今回はわざと落としたわけじゃないのね」
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