テラーノベル
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玲央菜が静かに出ていったあと、日下部は、しばらくの間、何も考えられなかった。
冷えた缶を握りしめたまま、動けずにいた。
ソファの背にもたれ、ぼんやりと天井を見つめながら──
──あれは、たしか六歳くらいの頃だった。
夕暮れの公園。ブランコの鎖がぎい、と鳴る音。
砂場でひとり、口を閉じて座っていた遥を、最初に蹴ったのは玲央菜だった。
理由なんて、なかった。
ただ、「黙ってるのが、ムカついたから」だと、あとで彼女は笑った。
泣かない遥を見て、何度も靴で砂を蹴りかけた。
棒で殴っても、顔を押さえつけても──
それでも、泣かないから、もっとやった。
あの頃からだった。
玲央菜が、遥に“こだわり”を見せるようになったのは。
日下部は、ただその隣で見ていた。
最初は面白かった。
遥が殴られるのを見て笑った。泣けばいいのに、泣かない顔を見て興奮した。
でも、あるときふと気づいた。
──泣かせるのは、おれじゃなくて、玲央菜なんだ。
そう思ってから、妙な執着が生まれた。
「玲央菜の見ているものが、欲しい」と思った。
「玲央菜が壊そうとしているものを、自分も壊したい」と思った。
でも、同時に、こうも思った。
──誰にも壊させたくない。
それは、所有欲にも似ていた。
遥は、玲央菜の“実験材料”であり、おれの“観察対象”でもあった。
殴っても、壊れない。泣かせても、すぐ戻る。
踏みにじられても、笑わない──
まるで、壊れかけた玩具の、最後のひとつ。
だからこそ、他人に取られるのが嫌だった。
学校の奴らが、無遠慮に遥を傷つけているのを見て、時々イラついた。
“おまえらのものじゃない”
その感覚だけは、強くあった。
けれど──
玲央菜は違った。
彼女には、何をされても怒る気になれなかった。
あれだけ遥を痛めつけていても、どこかで同じ匂いがする気がしていた。
玲央菜も、遥も、どこか壊れている。
そして、自分はそのどちらにも届かない。
だからこそ、間に立ちたかった。
遥を、完全に壊される前に“保存”すること。
それだけが、日下部の小さな執着であり、ひとつだけの誇りだった。
ソファに沈んだまま、日下部は深く息を吐いた。
壁の向こうでは、遥が微かな寝息を立てている。
「……泣けよ、もう」
そう呟いても、誰にも届かない。
泣いたって、もう何も変わらない。
泣かなくても、もう誰も助けない。
でも、それでも。
その“泣かない顔”に執着してる自分は──
やっぱり、最低だと思った。
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