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「おい、まだ寝てるのか。早くしろ」
翌朝
寝室に響いた透の怒鳴り声で目が覚めた。
枕元に置かれた時計は、まだ午前6時を回ったところ。
昨夜、彼が何時に帰ってきたのかは知らない。
ただ、部屋に漂う酒と、女のものと思われる甘ったるい香水の残香が、すべてを物語っていた。
「……ごめん、今起きるから」
「当たり前だ。俺は今日、大事な商談があるんだ。シャキッとした格好で行かせろよ」
透は鏡の前で、昨日とは違う新しいネクタイを締めている。
それもまた、私が一ヶ月の食費として渡されている額よりも、遥かに高いブランド物だ。
「ねえ、透さん。来月、このマンションの更新時期なんだけど……」
フライパンで卵を焼きながら、背中越しに切り出してみた。
「あ?ああ、そんな時期か。適当に書類出しとけよ。更新料くらい、お前のヘソクリから出せるだろ?」
「そんなのないよ…月5万で、どうやって更新料なんて貯めるの?それに、ここは更新のときに審査があるって……」
透は手を止め、鏡越しに私を冷たく睨みつけた。
「審査?笑わせるな。この俺が、このマンションにふさわしくないとでも言うのか?俺は一流企業の課長代理だぞ、年収だって同年代より遥かに上だ。オーナーだって、俺みたいな上客を手放したくないだろ」
自信満々に胸を張るその姿が、今は滑稽を通り越して哀れに見える。
彼は、自分が支払っている「家賃」が
周辺相場の5分の1以下であることにすら疑問を持っていない。
「……オーナーさんが、もし『今の条件では貸せない』って言ったら?」
「その時はその時だ。もっといいタワマンに引っ越してやるよ。お前は黙って俺についてくりゃいいんだ。家計の管理もできない無能な女が、余計な心配するな」
透は吐き捨てると、私が作った朝食を一口も食べず、トーストを一枚だけ掴んで部屋を出て行った。
入れ違いに、私のスマホが震える。
父からの返信だった。
『承知した。管理会社を通じて、正式に「更新拒否」の通知を送らせる。……美咲、もう無理はしなくていい』
「美咲」という私の名前を呼んでくれる父の優しさに、視界が少しだけ潤んだ。
結婚する時、父は反対した。
「あの男は、お前の家柄に寄生するタイプだ」と。
私はそれを「彼は努力家で、私を支えてくれる人だ」と押し切ってしまった。
だからこそ、透が自分一人の力で立っていると勘違いできるよう
実家の影響を徹底的に隠し、父にも協力してもらって「ごく普通の賃貸」を装ってきたのだ。
でも、もう守ってあげる義理はない。
私はキッチンに立ち、透が一口もつけなかった目玉焼きをゴミ箱へ捨てた。
冷淡な音が、静かなリビングに響く。
私は、父の顧問弁護士の連絡先をアドレス帳の一番上に移動させた。
設楽理沙
#仕事