「さっきは済まんかったな。気が立っていたんだ。本当に助かったよ。魔法使いの旦那」
痩せた男が蹲っている。男の隣には簡易な墓が築かれていて、土を掘り返したばかりの跡がある。
少し離れた所で分厚い長衣を纏う者が立っている。裾から僅かに見える手は藁で出来ており、握った鋤に寄りかかっている。
「気にするな。見た目が怪しいことは自覚している」そう言って周囲を見渡す。生き残った者は僅かばかりで、瓦礫と泥濘の土地に多くの墓が築かれていた。「何があった?」
「長らく雨が降らなくてな。旱魃、そんで飢饉だ。働くのもままならねえのに徴税と徴兵は何も変わらねえ。それだけじゃあ飽き足らず、神は俺たちを嘲笑うために大雨を降らせ、洪水を寄越しやがった。息子が死んじまって、妻が後を追った」男は溢れる涙を隠すように両腕で顔を覆う。「いったい俺たちが何をしたってんだよお」
「ともかく君らは生き延びたんだ。生きていく他ない」
痩せた男は空笑いを漏らす。
「家も流されちまったんだ。畑も駄目。水車小屋も壊れた。どのみち、生きられやしないさ」
「足掻くだけ足掻くつもりじゃないのか? だから墓を造ったんだろう?」痩せた男の答えを待たず長衣は続ける。「土台が残ってるなら、僕の魔術で当分雨風を凌げる代物は直ぐに建てられる。畑はどうにもならないが、水車も何とかなるだろう」
痩せた男は力ない表情ながら眼を光らせ、しかし窺うように長衣を見つめる。
「ありがたいが、差し出せるものは何もない」
「気にするな。僕の欲しい物を持っている者など見たことがない」
長衣は鋤を置き、仕事に取り掛かった。
川岸に少女の遺体の前で手を合わせる兎の剥製を見つける。風に流されるように長衣もそばへ向かう。
「安らかにお眠りください。貴女の魂が風雨に曝されぬ御屋に導かれますように」と兎が呟く。
「ピークネーリ。どうやら川上で戦闘があったらしい」長衣で身を隠す者は声をかける。「あちこちで略奪が起きている。その子も難民の一人だろう」
「どうしてこうも人間は脆いのでしょう」ピークネーリが小さな背中を震わせて呟く。「弱いくせに愚かで、孤独なくせに独りよがりです」
「多くの人間を見てきただろう? そうではない人間も沢山いた」
ピークネーリが振り返り、濡れた瞳を向ける。
「我々より頑丈な者などいませんでしたよ、キーポガルー」
確かにそうだ、とキーポガルーは小さく頷く。人間は死に、札を本体とするキーポガルーとピークネーリは死なない。まだ今のところは。
「ああ、僕が言ったのはそういう意味ではなく、精神的な意味だよ」
「それとて疑問ですね」ピークネーリがかぶりを振る。「不滅の肉体があれば魂が傷つくこともありません。戦争や天災に苦しむこともない」
君は傷ついているように見えるがね、とキーポガルーは心の内で呟く。
ピークネーリが再び憐れな幼い遺体を見下ろす。
「私が生まれてきた理由は、人間をあらゆる災厄から守る建築を生み出すためかもしれません」
キーポガルーはその理由を求めて過ぎ去った旅路を思い返す。多くの出会いがあったが、自分たちのような存在を知る者は見つからなかった。
「それが我々の創造主の願いだ、と?」
「もしくは企みですね。様々に学んできましたが、結局我々の本質は人間の建築魔術の粋を体現していることでしょう」
神にせよ、魔法使いにせよ、使って欲しくない力を与えはしないだろう、と考えるのは楽観的だろうか。キーポガルーは沈思黙考する。
「半分だけ同意だな」キーポガルーの言葉にピークネーリは沈黙で応える。「天災など稀にしか起きない。そしてあらゆる争いは不足から生まれる。つまり飢餓や、……いやそれこそ日々の労働程度では人間が繁栄するには不足しているのだ。我々が築くべきは人間をあらゆる労苦から救う建築だろう」
ピークネーリが顔を傾ける。皮肉を言う時の仕草だ。
「確かに、半分だけ同意ですね。つまり優先順位の問題です。キーポガルー。我々が協力すれば人類の最高の栄華は直ぐに訪れます。幾たびの実験が倍の速度で成され、必要十分な失敗は半分の年月で積み上げられ、黄金時代が成し遂げられましょう。ですが、まずは、理不尽に死なぬこと――」
「理不尽な死こそ後回しで良いんだ」キーポガルーはピークネーリの考えを否む。「目に見えて、徐々に迫り来る死をこそまずは除かなければならない。君の言う通り、たとえ二人で取り組んだとしても幾星霜を経ることとなるだろう。ならば日々を生きる希望が必要だ。明日の糧が保証されている生ならば戦争を企むことも天災に折れることもないだろう」
ピークネーリは顔を傾けたままだ。
「そして貴方の理想郷だけが平らげられるのです。私の楽土は違います。奪われる不安がなければ人間もよく働くことでしょう。そもそも不足など雲散霧消するかもしれません。杞憂に過ぎないかもしれません」
キーポガルーは微笑む。多くが似通っている二人だが、違いを見つけるのは面白い。
「今の今までこれほど、芯の部分で考え方に違いがあるとは思わなかったな」
「そうですね。私も。でもどちらも譲らないところは同じです」
こうして二人の魔性は長い旅の果てに袂を分かった。
キーポガルーはあらゆる労働に苦しむことなく、あらゆる病も危難も退ける安楽の都を築くことに決めた。農耕、牧畜、狩猟。あらゆる労働の労力を最小限化し、ゆくゆくは完全に自動化することを見据える。雨水も地下水も余すことなく利用し、かといって使い尽くすこともない均衡を維持する。一切他所に頼らない完全都市だ。
どこでも良かったが、初めは最も貧しい土地を選ぶことにした。ここで上手くいけばどこでも上手くいく。これは最初の一手であり、いずれは地上の全てを楽園へと変えるための一歩だ。
貧しい村に身を寄せ、彼らの生活をひたすらに改善していく。信頼を得ると長期計画を立て、次々に着想を実行していく。水車の一つもなかった土地が機械化されていく。土地のあちこちで人の手に依らない力が歯車や滑車によって向きを変え、綱や鎖が伝え、人の労働を代わっていく。
容易い力で土が耕され、些細な苦労で水を貯え、動植物自身が動植物を繁栄させ、十分に肥えると人に身を差し出した。
人口は増えに増えた。子供が増え、移民が増え、それに伴って土地が開拓されていく。貧村が都と呼ばれるまでにはそう長い年月はかからなかった。
遠目に見えるピークネーリが築いているらしき壁はまだまだ低いが、その長大さを考えると順調な様子だ。
キーポガルーは政も制し、労働力も最高効率で利用した。それでも労苦は限りなく制限する。確かに僅かな労苦でも不満は出る。しかしキーポガルーは更なる改善のための指針として喜んで耳を傾けた。
キーポガルーのための安楽的な執務室から都を眺める。広大で輝かしい街並みが窓一杯に広がっている。整然として清潔な通りに、笑顔で溌溂とした健やかな子供たちが駆けていく。人々は哲学と芸術に悩み、運動と遊戯を楽しみ、魔術と祈祷に明け暮れ、僅かな労働で人生を謳歌している。
「蝗害というのは知らなかったな。神々の着想には目を見張る」
キーポガルーの呟きに、身なりの整ったキーポガルーの秘書が「はあ」と相槌を打ち、いくつかの書類を眺め、簡潔に報告する。農耕の効率化が蝗を大量発生に導いたと推測された。
「閣下、いかが致しましょうか? 農地の被害は甚大です。保存食の貯蔵は十分にあり、数か月を耐えられますが、早く手を打たなければ」
キーポガルーは窓を眺めながら指示する。「うん。畜産部と食料加工部の魔術師を招集してくれ」
「畜産部? 食料加工部? 蝗の駆除であれば農耕部の防虫課か、あるいは狩猟部の魔術師を頼るべきではありませんか?」
「農産物が蝗に変換されてしまったのだろう? 利用しなくては勿体ないではないか」
秘書は悲鳴を堪えるような声で抗議する。「虫を食べるなど考えたこともありません」
「そうか。僕は昔、他所の土地でご相伴に与った。見た目ほど悪くはなかったな。まあ、君に無理に食べさせたりはしないさ。いずれにせよ君の孫の代には当たり前の食料になっているかもな。上手く生産できるようになればの話だが」
秘書は反論を呑み込み、キーポガルーの指示を伝えようと執務室を出ていく。
キーポガルーは相変わらず都の景色を眺め、築き上げた楽園に慈しみの眼差しを向ける。もはやピークネーリを呼び寄せる必要はないかもしれない。未完成の塔は既に噂になるほど強靭な砦として機能しているらしい。だが、この都は狙いを定めた侵略者すら恭順せしめる程の富を蓄えていた。侵略行為の方がずっと高くつく労働なのだ。
ふと都の外縁部に違和感を覚える。麦穂の如き黄金の瓦が波打つように都全体に広がっているが、外縁部はくすんでいるように見えた。
キーポガルーは秘書を連れて都の外縁部を視察する。そして執務室からは見えなかった現実を目の当たりにした。
不潔な通りに、痩せさらばえた浮浪者たち、あばら家が立ち並び、汚い犬が残飯を漁っている。そして広大なキーポガルーの都には十分な土地があるはずなのに、ここは立錐の余地もない。他に例を見ない最上の都市にありふれた貧民窟が蔓延っている。
「なぜ貧しい者がいるんだ? 君、言ったよな? 食料は十分にあると」
キーポガルーの問いに秘書は用意していたかのように淡々と答える。
「ええ、十分にございますし、全市民に配給されております。もちろん目の前にいる彼らにも」
「じゃあこれは何だ。なぜ彼らはやつれているんだ」
「それは彼ら自身の過ちです。愚か者か怠け者かのどちらかですね」秘書は無感動に告げる。「失礼ながら世の中には閣下の想像以上に愚かな者たちがいるのです。僅かな労働すら拒む者。労働以外の営みすら軽んじる者。その癖、遊戯には耽る者。ご存じですか? 所与の権利を賭け金にして賭博する者もいます。彼らは自ら富を手放しているのです。それを抜きにしても最低保証以上の分配は労働量に応じると、閣下がお決めになった原則です。彼らに富を融通するのは真面目に働く者たちに対して不公平です」
何をするでもなくぼうっと壁を見つめている子供をキーポガルーは見つめる。
「全くもって君の言う通りだな」
つまるところまだ足りないということだ。愚か者や怠け者に分け与えられるほどには富んでいない。それだけのことだ。
「もう一つ申し上げますと」と秘書が付け加え、キーポガルーは黙って聞いている。「過密はこの貧民窟に限ったことではありません。開拓の速度よりも人口増が勝っています。まだ先のことではありますが、土地も資源も無限にあるわけではありません。過密による市民の精神的緊張状態は高まっており、治安悪化の原因になっているという指摘もあります」
キーポガルーは懸命に働いた。更なる理想の実現に反対する者などおらず、力を合わせて理想郷をこの地上に顕現せしめるべく知恵を出し合った。そして、とうとうすべてが自動化され、都から労働が失われる。安楽の他には何もない真の楽園だ。しかし秘書の最後に指摘した問題点の解決には繋がらなかった。富めば富むほど人は地を満たす。まるで蝗のように。
満たしたが故に起きる問題など、わざと不足を起こすことでしか解決できないのではないか。キーポガルーの悩みは、やはりキーポガルーの天啓によって解決した。
楽園閉鎖の大儀式魔術は滞りなく行われた。無数の結界を張り巡らせ、建築と土地を分かち難く結びつける。下部構造は可変し、楽園の形に合致する。何の予兆もなく都は消えた。その営みを維持したまま地下へと埋没し、隠された。陽光も十分に取り込まれ、自動化された生産施設は一切の不足を取り除いた。人口増加は適切に抑制され、人間の人生、営みもまた全自動化される。
その都のありようが素晴らしいことだとはキーポガルーには思えなかった。不足だけでなく、満足までをも適切に取り除かれる。きっとこの先、まだ予期していない問題が起きるのではないだろうかという言い知れぬ不安があった。
都を地下に埋め、唯一の扉を鎖す時、キーポガルーは地平線の果てに聳えるピークネーリの塔を見上げる。完成した塔は今までに見たどのような建造物よりも雄大で美しかった。キーポガルーは恥じ入るように目を逸らし、地下に埋葬された安楽の都へと降りて行った。
「閣下。お側におられますか?」盲目の老いた女が灰色の天井を見上げ、乾いた唇で呟いた。
地下の都にあって十分な光量が部屋の中にも、部屋の外からも溢れているが、人の声や足音は一切聞こえず、ただただ規則的に動き続ける巨大な構造物から発せられる地鳴りのような音だけが響いている。
「ああ、ずっとそばにいる」
清潔な寝台に横たわる盲目の老いた女のそばでキーポガルーは母のように見守る。
老いた女は乾いた笑みを零す。「それはいけません。私が最後でしょう? 閣下は地上にお出でになってください。それから、それから……」
人口増は抑制するまでもなかった。一体何が不足だったのか、あるいは過剰だったのか。キーポガルーには分からなかったが、少なくとも人間の何かを成そうという意志を奪ってしまったことは確かだ。働く者の次にいなくなったのは学ぶ者だった。そして祈る者がいなくなり、遊ぶ者すらいなくなった。楽の音が止み、子供たちの楽し気な声が静まり、老いゆく都に活気が失われていった。
老いた女が静かに眠りに就き、キーポガルーは冥福を祈る。女と、かつて看取った者たちと、そして地下深くの安楽の都に対して。
ただ自動生産施設だけが満たす相手も無しに働き続けている。キーポガルーは都の全てを機能停止させ、地上へと向かう。
これが最初の失敗だろうか。これが最後の失敗のようにキーポガルーには思えた。もはや挑戦する気力も失われてしまった。いずれ回復することがあるだろうか。想像することも出来なかった。
地上へと出ると好奇の視線が集まっていた。どうやら地下楽園の上に農村ができていたらしいと分かる。平凡でありふれた人々の営みがあった。働き、学び、祈り、遊ぶ者たちが遠巻きにキーポガルーを見つめている。きっと満たされてはいないが、生きる意志を持つ者たちだ。
キーポガルーは涙の流れない藁の体を震わせ、人々に事情を説明するべく歩み出る。そして気づく。空を両断するピークネーリの塔が無くなっていた。
次に行くべき場所が決まった。何をなすべきかは分からない。しかしきっとやるべきことがあるはずだ。
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