それから居酒屋を出たのは、日付がかわるすこし前だった。
外はあたり一面が雪で真っ白で、バスで帰ろうと慌てて大通りに出れば、もう最終バスが出てしまった後だった。
駅から俺たちの家まで、本来なら歩いて20分くらい。
でも今は歩けば足首まで雪で埋まるくらいの積雪だ。
点々と散るだれかの足あとは凍っているし、何度も転びそうになる若菜に手を貸しながら、俺たちは家路へとゆっくり歩く。
「すっごい地面つるつるだよね、ほんと怖い」
「お前、さっきからマジで滑りそうで怖いよ。
カバンもってやるから、もっとゆっくり歩け」
俺は若菜の大学の教科書や筆記用具が入った大きなカバンをひったくり、なかば無理やり持った。
若菜はヒールのあるブーツだし、しかも飲み慣れない酒を飲んでいるし、見ていて危なっかしい。
「ありがとう。湊はやさしいよね。
あとはもうすこし頭がよかったら……もっとモテたのに」
若菜は「あはは」と能天気な笑いで俺を見るが、俺は逆に冷めた目で見返した。
「あのさぁ、ひと言多いんだよ。
お前、もしかしてその口の悪さのせいで振られてるんじゃない?
付き合ったやつにもそんなこと言ってんの?」
「言うわけないじゃん。湊だけだよ」
若菜は笑って俺から視線を外す。
街灯のしたに差し掛かり、吐く息が白く散るのがよく見えた。
「……あっそ。そんなの余計に悪いわ」
「私もそう思う」
ゆっくりゆっくり、若菜は俺のすこし前を歩く。
今日若菜は白いコートを着ているからだろうか。
その背中がいつもより小さく、雪に溶けてしまいそうなほど頼りなく見えるのは……色のせいじゃなくて、若菜の心が弱っているからかもしれない。
それとも―――。
(弱っているのは、俺のほうなのかもな)
こんなふうに若菜が男に振られると、いつも言い表せないような、複雑な気持ちになる。
なぐさめるのは幼なじみとして。
だけど俺は……いつしか若菜に言葉にできない感情を抱いているのも事実だった。
若菜とは高校で進路が別れた。
それから互いに共有しているものはぐっと減り、その結果、話すことも連絡をとることも減った。
すぐ近くに住んでいても、何か月も顔を見ない時もあったし、たまに連絡をとっても、お互い用件しか言わない。
そんなふうな関係でも、俺たちは一番近くにいた。
正確には、心が傍にあった、というのだろうか。
男とか女とか、そういうんじゃなくて。
なにも言わなくても、会わなくても、相手を理解している。
俺にとって若菜はそういう存在で、たぶん若菜にとってもそうだった。
ほかの幼なじみはどうかわからないが、きっと幼なじみってこういうものだと思っている。
でも―――。
若菜がだれかと付き合った時や、別れた時。
もしくは俺に恋人ができたとか、別れたとかを若菜に報告した時は、今日みたいに心がざわめく。
幼なじみとしてではなく、別の俺が、俺自身になにかを言おうとしているのを感じるんだ。
「あー足が冷たい。足の先とか、もう感覚がないよー」
「俺だってそうだよ。スニーカーびしょびしょだし」
普段なら駅から20分の道のりを、倍の40分ほどかけて歩きながら、俺たちはだらだらとどうでもいい話をした。
車通りが途絶えた道はしんとしている。
暗い、雪がすべてを埋めつくす世界で、今は俺たちしかいない。
住宅街を歩き、ようやく家が見えてくると、俺は若菜の家との間で足を止めた。
そこはだれの所有地かはわからないが、俺たちが子どものころからの空き地だった。
草がぼうぼうに生えていて、夏には蚊が大量に発生して、秋には虫の音がうるさいくらいで。
そんな空き地も今はただ一面に白いだけで、俺はそれを一瞥すると、持っていた若菜のカバンをあいつに手渡した。
「ありがとう、助かった」
「あぁ、転ばなくてよかったよ」
「あと、今日はありがとうね、付き合ってくれて」
若菜は弱々しく、ムリして笑う。
俺はすぐ顔をしかめた。
俺は……こいつがこういうふうに笑うのは好きじゃない。
「いつものことじゃん。さっきも言ったけどさ、お前またすぐ次があるし、くよくよすんなよ」
若菜は受け取ったカバンを肩に下げ、視線を落とす。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、でも……」
「なんだよ」
「……いつも不安になる。
別れると、私って……これからどうなるんだろうって思う」
「若菜……」
今まで若菜は告白されてばかりで、自分から告白をしたことはなかった。
その相手に振られ続けると、人はこんなふうに弱るんだろうか。
そう思ったが、若菜がなにか……別のことを考えているような気もして、俺は気を楽にさせたくて言う。
「……大丈夫だよ、心配しなくても」
「……そうかな」
「そうだよ」
それでも若菜の表情は晴れない。
なんの保障もない言葉だから当然といえば当然だけど、若菜はうつむいたまま、俺と目を合わせようともしない。
「……だれだって別れたら先のことは不安になるし、俺だってそういう気持ちになることもあるよ」
俺もだれかと別れた時は心に穴もあくし、漠然とした不安にも包まれる。
うまくいえないけど、若菜だけじゃないってことを伝えたくて言えば、ようやく若菜が俺を見た。
「……意外。湊、いつもだれかと付き合っても、別れても、わりとさらっとしてるから、そんなふうに思うと思わなかった」
「俺のことなんだと思ってるんだよ。
フツーに思うよ、フツーに」
「……そっか。そうだよね。やっぱ不安になるよね。
……ねぇ湊。それじゃあさ……」
若菜は俺を見て笑った。
鼻の頭を赤くして、目をほんの少しうるませて。
「10年後。
私たちが30歳になってもお互いひとりなら……私たち、結婚しようか」
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