俺は瞬きを忘れた。
しかし顔には出さないよう気をつけて若菜を見ていると、若菜は笑って続ける。
「あ、もちろんそれまでにお互いいい人がいたら……。
湊に相手がいたら、今までどおり応援するよ」
「若菜……」
「でもさ、もしも……。
もしもお互いその年でひとりなら、それもいいなって思うんだ。
だって……ほら。湊と私だから。
……私たちだもん」
若菜はよどみなく、俺の目を見て、笑って言った。
“私たちだもん”
そんなことを理由にされても、俺以外の人間にはわからないかもしれない。
でも俺にとっては―――若菜が自分の一番傍にいるやつで、自分が一番若菜の傍にいると思っている俺にとっては、それ以上しっくりくる理由はなかった。
「……そうだな、それもいいかもな」
「でしょ?」
気づけばわずかに笑って答える俺に、若菜も笑った。
俺のことを家族のような、親友のような目で見ているだろう相手からの、意外な提案。
意外なのに、どこか嬉しくて。
すんなり受け入れられたあの日から、29歳の今まで。
俺の気持ちはまだ、あの大雪の日からたぶん変わっていない。
キッチンから若菜のほうを見ていると、ポークカツレツを口に運びながら、何度も水を飲んでいた。
あぁ、あいつ。やっぱり食べられるようになったとはいえ、あまり好きじゃないんじゃん。
見かねた俺は、若菜が好きなクロワッサンを温めなおして、水の入ったピッチャーと一緒に席に持っていった。
「ほら、これ」
俺がクロワッサンを突き出すと、若菜は一瞬驚いて、それからすぐぱっと顔を明るくした、
「えっ?
あっ、ありがとう!クロワッサンくれるの?」
若菜はナイフを置き、クロワッサンをひとくちかじる。
その間に俺はあいつのグラスに水を注ぎ、「ムリして苦手なもん頼むなよ」とつぶやいた。
「べつにムリしてないよ。
でも……やっぱり私はクロワッサンのほうが好きだな。ごめん」
からっとした調子で笑って言う若菜に、俺も似たような調子で釘をさす。
「ほらみろ。でも残すのは許さねーから」
「わかってるよ。湊がつくってくれたものだし、ちゃんと食べる。
あっ、そうだ!
湊に言おうと思ってたんだけど、さっきここに来る途中、原田くんっぽい人を見かけたの」
「原田?」
「ほら、中学3年の時同じクラスだった、原田くん!
私と同じ陸上部だった……」
「……あぁ、あいつね。どこで見たの?」
若菜の言う「原田くん」とは、中学時代のクラスメイトで、若菜は部活も同じ陸上部だったやつだ。
「駅を出たところ。
そのまま近くの雑居ビルに入っていったから、もしかしてこの近くで働いてるのかもって!」
「まじで? へー……」
若菜は中1と中3の時、俺は中2と中3が原田と一緒だった。
いつ同じクラスだったのか覚えているのは、中学時代、若菜を好きなのが傍目にもバレバレで、なにかと俺の目にとまっていたからだ。
告白したいという相談も受けたことがあるし、「告ってみたら?」と適当に言ったこともある。
でもあいつとは高校でばらばらになって、俺たちとはそれきりだった。
「もしも今度見かけたら、声かけてみるよ。
それでここ連れてくるね」
「……えー、いいよ。
ってか、見かけたやつが原田かもわかんないじゃん」
「そうだけどさ、あの背中はそうだと思うんだよね。
だてに同じ陸上部だったわけじゃないよ。なんていうか……見たらわかる」
若菜は言って、クロワッサンを全部口に放り込む。
俺は苦笑いで肩をすくめた。
たぶん若菜は、同窓会気分でそう言っている。
俺はほとんど一日中この店にいるし、外で三人で会うよりここに連れてきたらいいだろうと、軽く考えているんだろう。
昔原田に「告ったら?」と言ったが、その後原田が若菜に本当に告ったのかは知らない。
(まぁ……そいつが原田かもわかんないし、そもそもまた会うかもわかんないし)
俺は「はいはい」と適当に言って、若菜のテーブルを離れた。
若菜は半年ほど前に同じ職場だった彼氏と別れ、今は恋人はいない。
中学の時も見た目がよかったけど―――だれからみてもキレイな若菜に、原田がもう一度恋をすることを……たぶん心のどこかで恐れていた。
それから数日後、3月もあと数日で終わりといったある日。
俺が働いているチェーン店タイプのレストランの、別の店で研修があった。
終えて帰ってくると、休憩室に水瀬がいて、俺はコックコートに着替えながら水瀬に尋ねた。
「今日忙しかった?」
「そうでもないっすよー」と、水瀬が間の伸びた声でいった。
それから突然「あっそうそう」と思い出したようにつけたす。
「今日水曜日なのに、ランチにあの人こなかったんですよ。
清水さんの幼なじみのあの人が」
「お前……ほかに報告ないのかよ」
「そうっすね、だって清水さんには大事なことじゃないですか」
ニヤニヤ笑う水瀬を無視して、俺は着替え終えると時計に目を向けた。
時刻は17時50分。そろそろ店長と交代しないと。
店長に「戻りました」と言い、もうあがりの店長と交代してキッチンに立つ。
オーダーはメインがひとつ入っているだけで、この時間だと客もまばらだった。
今のうちに明日のランチの仕込みでもしておこうと、野菜の下処理を始めた時、入口のドアがひらく音がした。
「いらっしゃいませー」
出迎えたバイトの声に顔をあげると、ちょうど若菜が中に入ってくるのが見えた。
「あれ、若菜……」
ランチは食べにくるが、夜食事にきたことはほとんどなかった。
珍しいなと思いつつ、すぐ後ろを振り返る若菜を目で追う。
そのあと店に入ってきた男を見て―――驚いた。
「……マジか」
思わずつぶやいたのと、キッチンにいる俺に気付いて若菜が手を振ったのは同時だった。
その後ろにいる男もすこし遅れて、笑って手をあげる。
そいつは数日前に若菜が話していた、俺たちの元同級生―――原田だった。
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