「ルリさん、ルリさん」
ダイヤの声に起こされる。
あの身勝手な決意から何日か経った。
これから夏と、宗教と、私を終わらせる。
「散歩しよう」
今日が最期。
その場をしのぐ為だけに笑って、食べて寝るを繰り返す。かろうじて生きていることがわかるような薄い命を削る毎日。あれがおそらく分岐点だった。いつまでも地に這っていれば、私は異常ながらに平凡な暮らしをこなせていたはずなのに。
午後六時。窓の向こうでは太陽が沈みかけていた。彼は行きましょうと靴を履く。「……じゃあ」私は頷くと、全財産をショルダーバッグに入れて丁寧に鍵をかける。
「ダイヤモンドみたいだったんだ」
「僕がですか?」
「うん。そう、白くて」「脆そうで。実は強かなだけだったけど」「初めて見た時は、私の宝石になってくれるんじゃないかと錯覚した」
さようならと告げれば済むのに、口から思いが止まらない。遺言のつもりだからかもしれない。
ダイヤの横顔を見ると、彼と目が合った。
「宝石は、全部比喩ですよね」
「……かもね。少なくとも、私は詩人じゃない」
「──『ヒスイ』さんって誰ですか」
「は?」
久しぶりに聞く響きだった。なのに変わらず私の脳を揺らす。
築いてきた壁が呆気なく崩れて、壊れる。
なんで?「だって」
「さっき寝ている間、ずっと呟いてたから」
そうか。そうだね、忘れるわけがない。思い出すのを阻止していたけれど何も消えてくれなかったのは、夢を見ていたからなんだ。知らなかった。決まってるじゃないか。たった数ヶ月間の出来事は今でも私の人生の最重要事項で、ずっとずっとずっと全細胞が貴方を求めてる!
罰しか受けてこなかった私は、ついに正しく成れるんだ!
会いたい、知ってほしい、と涙を無駄に流して私はどうしていつまでもこの世界に留まっていたんだっけ。
もう余生なんだ。気づくのが遅くなっちゃったけど、待ってたよって、きっと切なくなるほど優しく笑って、許してくれる。
「ねえ、ねえダイヤ! 私これからさ」
「大切な人なんですよね」
「……なんなの?」
出鼻をくじかれた感じがする。早く彼と別れて、いくんだ。もう用なんか無いこの場所から立ち去りたいのに。
睨んでもダイヤが怯む様子はない。最底辺の泥からたとえ殺意を向けられたとて、恐らく痛くも痒くもないんだろう。彼も他と同じ正常な側だから。でも畏れる代わりに、困惑が瞳に映っているように見えた。
色の薄い唇が震えながら開く。
「ヒスイさんを、愛しているんですか?」
「……関係、ない」
何故ダイヤが動揺しているのかわからない。内側が熱く煮える。平然とした顔で名前を呼ぶな。酸いも甘いも知らない子供が、拾われた分際で偉そうに愛を語るな。漢字一文字の単語ごときが私たちの関係を表せるはずないんだから。
聖域を土足で侵す彼に、憎悪を覚えた。
「僕は知ってます。ルリさん、悲しそうに泣いてる。だから特別なんだって、分かります」
もどかしそうに、必死に話す彼を恨む。事実を押し付けて、全て暴いて得意気になって、あんたはどうしたいの?
「あのねルリさん。僕も」
うるさい、うるさい。
「ヒスイさんに助けられたんです」
大学一年の春。初日のコマで、いきなり横に立って、私の名簿カードを覗き込んできたのが最初だった。
────お揃いだ。<瑠璃>と、<翡翠>。
────え……あ。
────好き?
────なに、が。
────名前。僕は今なったよ。よろしくね、ルリ。
強引な人間。理解できないのに、それはあまり嫌じゃなかった。ただ彼の声は心地よかった。
自分が幽霊ではなくなった瞬間だった。
────書いてみたらどうかな。
誕生日に原稿用紙を贈られた。三セット。
────ルリの字は綺麗だから、読みたい。
全て解ってるよ、大丈夫、と言わんばかりに温かく私を見ていた。社交辞令だったかもしれないのに、その一言が私を突き動かす。
物心ついてからの人生を写し切ってからは、脳内で蓋が弾け出す。升目を埋める文は、いつしか現実のものではなくなっていた。
────ルリの話は、どの小説よりも好きだよ。
物語への賛辞は、作者の思想への賞賛に等しい。そんなの、私自身の生き様まで褒められたんだ、と思ってしまう。
ああ、なんて単純なの。
ヒスイのことを好きで堪らなくなっていた。
「単純ですね」
「馬鹿でしょ」
人を好きになるきっかけが特異なものであってたまるか。
「僕は、隣の部屋に住んでいたヒスイさんから童話を聞きました。母親がいない間に」
「そうなんだ」
まさか同じ人を崇めていただなんて。偶然にも程があるだろう。
ヒスイはまさに聖人だった。性善説を信じて、何もかもを慈しんで生きようとしていた。でも、この世でそれを貫ける者はいないのだと歴史は証明している。
思い返せば、はじめから危うかったんだと思う。犯罪や悪に嘆き、世界平和を心から実現させようと慈善活動に励んだ。結果、自分の健康を顧みず、そこら辺の交通事故でいなくなった。
私は神様を止めなかった。
大衆よりも純粋で誠実で繊細なだけの人間を崇めて、期待して、眺めていた。
「ヒスイさんがね、一度だけルリさんの話をしていました」
「え」
何て、言った。
「どんな人ですか? って聞いたら」
────僕の思考を葬ってくれる。君の物語のおかげで息を吸えていた。────
「……愛してるよ。と」
酷い。私がどれだけ秘めていたか露も知らないで、貴方は言葉にしてしまったんだ。今わかったところで、文句なんて言えないのに。
最底で、最悪だね。神様。
「ルリさんルリさん」
「なんだよ」
空は暗い。ダイヤの輪郭が辛うじて判るくらいの、淡い月が昇っている。
「その鞄の中に、ルリさんの物語があるんですよね」
「…………」
「僕も読みた」「無理」
「なんで!」
ファイルに挟んだ厚い紙束は、どれも端が破れて汚い。
でもこれは、私が最高を感じていたという証拠で、唯一私の物だと叫べる夢だ。貴方に巡り会えたから存在する、教典。
これまでの全部は、貴方だけのものだ。他の奴には教えない。
これくらいの秘密ならロマンチックでしょ?
「……いつか、ダイヤモンドのための話をプレゼントしてあげても、いい」
「本当ですか!」
「決まったわけじゃないけど」
「わーい。楽しみです」
「じゃあ、狂いたくなるほどのハッピーエンドを書こうかな。みんな嫉妬で自殺しちゃうくらいのやつ」
「……地球規模のヴィランになる気ですか?」
ヒスイ、ヒスイ。
私の愛しい神様。もう少し耐えていて。まだ待って。私達は相思相愛だから。暫く会えなくても大丈夫でしょ。
貴方が好きだと言った字で、一番だと褒めてくれた夢物語を、美しくて儚い世界だけを書くよ。
天国でも地獄でもかまわないけど、どこかでまた貴方に遭遇できたら、次は直接それを囁いてって頼んであげる。
撫でて、褒めて、抱いて、認めて、触れて。
貴方が完璧主義な理想家で、幾ら全てを赦せなくても。
二度目は私と、一生幸福でいよう。
コメント
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も っ と 沢 山 の 人 に こ の さ く ひ ん 読 ん で ほ し ~ っ (*'×'*)
うわぁあ好きです まだまだ全部は掴めて無いから、時間をかけてじっくり理解したいけれどひとまず。 私もヒスイさんみたいな人にぐちゃぐちゃにされたいです() もしかしたらそこら辺の宗教よりも断然恐ろしいことなんだろうけど。 強烈な光って痛いけど、やっぱり憧れてしまう…ルリさんやダイヤモンドもそうなのかなぁ。 とても素敵な作品でした。ありがとうございました!