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テーブルの上にはランクの高そうなステーキ、フォアグラソテーのクランベリーソースがけ、あとはキャビアの……ウェイターは何と言っていたか忘れた。
それから中央の花瓶の中で小さな薔薇が一輪、胸を張っている。
店内にはジャズ。シックな色調がマッチしている。
「これって幸せなのかな」
私は思わず口から言葉をこぼしていた。
彼は顔を上げ、不思議そうに見つめる。「美味しくないのか?」
「ううん、とっても美味しい。一流だし、こういうのもたまには好き」
「そうか」
彼の目は天井のライトを映していない。一方、卓上のカトラリーはぎらりと光った。
「じゃあ今度は、心から好きな人とディナーに行ってよ」
どこか陳腐な台詞に聞こえた。
うん、と答えた声もかすれていた。
いくらかのお札を置いて食後のワインとデザートを楽しむ彼を残し、客室に戻る。
「ふう…」
ジャケットを脱いでベッドに身体を投げ、長く息をつく。彼にもらったヘアピンも取った。
3年前くらいの私の誕生日に買ってくれた。ピンクが好きな私のために、マラヤガーネットが埋めこまれた雫型の綺麗なものを。
頭の中に、彼との記憶が走馬灯のように流れてきては過ぎ去っていく。
最初はとても楽しかった。今までの人より丁寧に、親密に付き合ってくれた。
でも段々つまらなくなった。
振らなかったのは、上場企業の社長である彼は絶好の獲物だったからかもしれない。彼が、離れることを嫌がっていたのかもしれない。
だが彼もいつからか表情が乏しくなってきた。
まるで噛んでいたら味がしなくなってしまうガムのようだった。
プロポーズの言葉なんてもうすっかり忘れている。
気が付くと、涙が頬を伝っていた。白い枕にグレーの染みを作る。
溢れる涙を止める術を思い出せなかった。
彼はまだ戻らない。
ひとしきり泣いたあと、鞄に荷物をまとめてジャケットを羽織り、メモ用紙に書いた。
『色々と私に尽くしてくれてありがとうございました
忘れたくても忘れられないかもしれません
一時は愛していましたから
それでは』
さよなら、と残すのは私らしくないと思った。
出る前にドア横の全身鏡でメイクをチェックする。泣いてしまったので、マスカラもアイシャドウも崩れていた。でももう直す気にはならなかった。
振り返ればかなり大人な恋を味わったな、と思った。それも遠い夏の日の思い出のようだ。
いい大人なんだから、けじめをつけなければ。
ガチャリと重い扉の閉まる音で終わらせた。
豪華絢爛なロビーは、今日の夕方に来たときと大して風景が変わっていないように感じた。
調度品はもちろん変わらない。談笑する人々はいるし、従業員も業務をこなしている。
変わってしまったのは、彼と私だけなのかもしれなかった。
綺麗なお辞儀をするドアマンを横目に、ホテルを出る。
外は雨だった。
終わり