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このまま静かに過ごして行けば、やがては心の傷も、少しずつ癒えて行くかもしれない。そう思い始めた頃、スマートフォンに着信があった。
仕事を終えてマンションに戻り、久しぶりに、母直伝のビーフシチューでも作ろうかと思っていたところだった。
伸に電話をかけて来る相手は少ない。仕事のことで中本がかけて来たか、あるいは母か。
だが、それは有希からだった。噴水の前で別れてから、半月ほどが過ぎていた。
「もしもし。伸くん?」
「あぁ」
「有希だけど」
「うん」
「あのね、話があるんだけど、これから伸くんの部屋に行ってもいい?」
「いや、それは困る」
だが、有希は言った。
「実は今、マンションの前にいるんだけど」
「なっ……!」
なんてことだ。
自分は、つくづく間抜けだと思う。あんなに辛い思いをして、心ならずも有希を遠ざけ、ようやく今、心に負った傷に、かさぶたが出来始めたところだというのに、また自ら、かさぶたをはがそうとしている。
なぜ心を鬼にして、冷たい態度で追い返すことが出来ないのだ……。自己嫌悪に苛まれながら、伸は、玄関のドアを開ける。
ドアの向こうに、制服を着た有希が立っていた。
「伸くん。ひさしぶり」
そう言いながら、有希は、するりと中に入った。その顔は、相変わらず行彦にそっくりで、見るなり、胸がズキンと痛む。
「上がってもいい?」
「……あぁ」
有希は靴を脱ぐと、さっさとテーブルまで行って、椅子を引いて腰かけた。相変わらず、十歳以上も年下の有希のペースに押されている。
仕方なく、伸も向かい側に座る。
「で、話って?」
ぶっきらぼうに聞いた伸に、有希は眉を曇らせる。
「怒らないで」
「怒ってないさ」
有希が、すねたように言った。
「ならいいけど」
有希は、椅子の上で居ずまいをただし、話し始めた。
「伸くんの話、初めは、すごく驚いた。伸くんが僕と別れたいと言うのには、何か深い訳があるんだとは思っていたけど、ああいうことだとは思わなかったから」
伸は、黙ってうなずく。
「不思議な話とか怪談話は嫌いじゃないけど、僕自身は、そういう体験はしたことがないし、まさか自分の身に起こるなんて思わないし。伸くんが嘘をついているのかなって思ったりもしたけど、伸くんは、そんな人じゃないと思うし」
伸は、思わず笑った。
「俺の頭が、どうかしていると思った?」
有希は、あわてて否定する。
「そんなことないよ! ……でも、精神的に疲れているのかなっていうのは、ちょっとだけ。……ごめん」
有希はうつむく。やっぱりそうか。
「いいよ。それが、当たり前の反応だと思う」
伸の顔をちらりと見てから、有希は、再び話し始める。
「自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、すごくたくさん考えたよ。伸くんの言うように、全部忘れて新しく踏み出したほうがいいのか、それとも……。
だけど僕は、その話が本当でも、そうでなくても、やっぱり伸くんのことが好きなんだ。今も、嫌いだなんて感情は一かけらもないし、出来ることなら、そばにいたい。
でも、それにはやっぱり、伸くんの話を、自分なりに理解して受け入れて、納得しなくちゃいけないと思ったんだ」
有希が、そこで言葉を切ったので、ふと思い出して、立ち上がりながら言う。
「喉が渇いただろう? コーヒー淹れる? それとも」
「いいよ」
有希は、首を横に振る。
「僕の話を最後まで聞いて」
「……わかった」
伸は、座り直した。
「それでね、納得するには何が必要かって考えて、この前の休みに、墓地に行って来たんだ」
伸は、身を乗り出した。
「それは駄目だって言ったじゃないか。また倒れたりしたら……」
「ごめん。伸くんにそう言われたのは覚えていたけど、どうしても確かめたいことがあって」
有希は微笑む。
「でも、大丈夫だったよ。具合が悪くなったりもしなかった。
実は、僕もちょっと怖かったから、管理事務所の人に、場所を聞くふりをして、お墓まで付き合ってもらおうと思ったんだ。そうしたら、その人、僕が倒れたことを覚えていて」
救急車を呼ぶなんて、そうあることではないだろうから、印象に残っているのも無理はない。
「だから、あのとき倒れちゃったから、ちゃんとお参りしてないんです。場所もちゃんと覚えていなくて、って言って」
いたずらっぽく笑う顔が、とてもかわいらしい。
「僕が確かめたかったのは、お墓に書かれている名前だよ。伸くんが言った通り、桐原行彦っていう名前も、桐原響子っていう名前も、ちゃんとあったし、享年も、聞いていた通りだった。
それで、やっぱり伸くんが言ったことは本当だったんだなぁって。だけど、自分がその人の生まれ変わりだっていうことは、なかなか実感がわかなくて……。
それで、気持ちを整理するのに、少し時間がかかった」
有希が、真っ直ぐに伸の目を見る。
「たくさん考えて、僕なりに結論を出したよ。
伸くんとの日々を全部忘れてしまっても、それでも伸くんのことを好きだと思うのは、やっぱり、それ以前の僕が、本当に伸くんのことを愛していたからだと思うんだ。もちろん、記憶を失っても、好みのタイプは変わらなかったのかもしれないし、それで今の僕も好きなのかもしれないけど」
まじまじと見つめられて、頬が熱くなるのを感じ、うつむく。