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蕎麦屋の店主、鈴江ゆり野は、初めての店番を ー と云ってもそれは、自らが率先して決断した親孝行であると、自ら言い聞かせてはいるが、やはり深夜の新宿での仕事は恐ろしく、心細かった。東京ジェノサイドで、父母共に行方知れずとなった今、家業を継ぐのはひとり娘の自分しかいない訳だし、いつひょっこりと戻って来ても良い様に、この店だけは守っていかなければと思ってのことで、店の営業許可署も、衛生管理者の名前も父親の名義で、ゆり野自身が講習を受けたことは無い。
幼い頃から、見よう見まねで蕎麦打ちを習い、高校生の頃はこの店でアルバイトもしていたから、都会の立ち食い蕎麦屋など、簡単に出来ると鷹を括っていた。
しかし、ゆり野はまだまだ未熟者だった。
その洗礼に、先程の客にはニチャニチャの蕎麦を出した挙句に。
「蕎麦のおじやだな!」
と罵られ、金も取れずに意気消沈していたのである。
そして今、テーブル席に座るふたりの客は、あろうことか『しっぽく』を注文している。
店のメニューの中でも、いちばん具材の多い商品だ。
ゆり野は、冷蔵庫をあちこち開け閉めしながら、語りかけてくる男の相手もこなさなければならなかった。
本心は『お願いだから話しかけないで!!』と思っていても、現実は甘くはなかった。
「おねえさん、表の看板なんだけどさ、的に矢が当たってるヤツなんて読むの?」
「はい、当たりやです。当たりや鈴が店の名前なんです」
「へえ、かわいいな」
「ありがとうございます」
と言いながら、ゆり野は竹輪を探すが見当たらない。
その脇のずん胴の湯は、火力が強すぎるせいか今にも吹きこぼれそうになっている。
それにも気付かずに、ゆり野は冷蔵庫の奥の竹輪を発見して喜んでいた。
ところが、まな板の上に竹輪を乗せて、薄く切り始めるが形が全く揃わずに、湯どうしすら忘れていた。
ゆり野は包丁が苦手なのだ。
悪戦苦闘のさ中でも、男は話しかけてくる。
「おねえさん、こんな時間までひとりでやってるの?」
「え、ええ、はい。朝までやってますか
「大変だね、若いのに…」
「いえ、父と母が戻って来るまでですから」
「え、もしかして東京ジェノサイドが関係しているのかな…」
その時、隣の女の声が聞こえた。
「ちょっとちょっと、仕事の邪魔しちゃダメだって!おねえさん困ってんじゃん」
ゆり野は心の中で感謝した。
これ以上話しかけられたら、仕事どころではなくなるからだ。
東京ジェノサイドなんて言葉は聞きたくもなかったし、内心は不安でたまらなかったから泣き出してしまいそうになっていた。
その時、ずん胴鍋の湯が吹きこぼれて、ゆり野は悲鳴をあげた。