名前を初めて呼ばれたアーネストが、大きな手で口もとを隠して目を逸らす。頬はうっすら紅く、しかめっ面に見えるが、ただの照れ隠しだ。
「……あ、ああ。そうだな、頼む」
名前を呼ばれるのは、こんなにも嬉しいものなのか。
もう酔いの火照りなどなかった。
「なんだ、顔が真っ赤になってるぞ。疲れてるならやめるか?」
「いや、俺は大丈夫。だが、鍛えるというのは……」
「ただ振り回すだけでは感覚は掴めないだろ。だから、戦おう」
ヒルデガルドは彼が握り締める槍を杖で指す。
「怪我の心配はいらない。君がいつも使う、その槍で本気で掛かって来てくれればいい。かすり傷でもつけられれば、君の勝ちでいい。そうだな、明日の朝食でも賭けようか。デザートに、村で獲れた新鮮なイチゴがあるそうだ」
ぴく、とアーネストが反応した。イチゴは昔から彼の大好物で、ヒルデガルド相手でもなんとなく譲りたくないという精神が働いた。
「……わかった、賭けよう。本当に怪我の心配はないんだな?」
「ああ、ない。まったく。むしろ、君こそ平気かな」
「──それは実際に戦ってみれば分かることだ!」
開始の合図もなく、アーネストは先手必勝の如く、風を切って突撃した。軽やかな身のこなしから繰り出される、槍の連撃。魔物から採取した核で作られた特別製の槍は魔力を帯びていて、強力な外殻を持つ魔物でも容易く切り裂き、貫通する破壊力を持つ。掠っただけで致命傷になりかねない危険な武器を、彼は精確に操ってみせた。
だがヒルデガルドも負けていない。たとえ彼の人間離れした身体能力から繰り出される強力な槍の連撃も、彼女は的確に打たれた位置にのみ魔力の壁を創り、貫通を許さない。そのうえ、身体強化の魔法で、アーネストの動きに並ぶどころか、軽々といなして、汗ひとつ掻いていない余裕の表情だ。
「くっ! ここまで通らないのか、俺の技が……!」
「ハハハ、もっと肩の力を抜け。無理にやっても勝てんぞ」
当たると思えば防がれ、隙を突こうとしても、気付けば槍は彼女の傍を通るだけで触れてもいないような錯覚。杖を振るって受け流され続け、アーネストは次第に息を切らす。全身を濡らすほどの汗を袖で拭い、ぎろっと睨んだ。
(俺は何と戦ってるんだ。風か、それとも水か? まったく触れられる気配がないどころか、ヒルデガルドの動きに追いつけん……!)
まだ限界ではない。槍を構え直し、再びヒルデガルドに挑む。相手は汗のひとつ掻かず、呼吸の乱れもなく、最小限の動きだけで受け流し、弾き、軽い反撃をして突き放す。進んでも進んでも、後ろに戻される。
「疲れてきたんじゃないか、アーネスト?」
「いいや、まだだ! 俺はまだ戦える!」
諦めたくなかった。感情は苛立ち、圧倒的な実力差を前にかすり傷ひとつ与えられない自分が情けなくなった。経験の豊富さでも、細やかな技術でも負けている。それでも一歩くらいは、と立ち止まれない。
脳裏には、たくさんの仲間の死が過る。五年前のイルネス・ヴァーミリオンを中心とした魔物たちの軍勢を相手に、多くの仲間の屍を越えて戦った。その後も精力的に、危険度の高い魔物たちを相手に遠征を行い、鍛錬も欠かしたことがない。
だが飛空艇ではどうだった。目の前で飛び交うワイバーンを相手に対した戦果も挙げられず、コボルトロードには後れを取った。結果、傷つく必要のない者が傷つき、冒険者たちを助けたのはヒルデガルドだった。
「俺は……、もっと強くなりたい。ヒルデガルド、どうすればいい!? 俺はあなたのように、誰かを救えたことがない。共に戦う者たちを犠牲にして、その屍のうえに、偶然にも立っていたのが俺だっただけだ!」
悔しさが溢れて、怒りをぶつけるように叫ぶ。
「分かるとも。それは私も同じだ、君が思っているより、誰も救えていない。だが、それでも君はあまりに脆すぎるな。──その武器がなければ何ができる?」
一瞬の隙を突かれ、杖で槍が空に弾かれる。同時に、ヒルデガルドの放った風が槍をさらに高くあげた。つい見上げてしまったアーネストの胸を石突で強く押し、バランスを僅かに崩したところを足を払って転ばせる。
「君には何もできない。魔導師のように手をかざせば魔法が使えるか? クレイグのように拳ひとつで戦えるか? 君の長所は、その槍を振るう技術以外にない。ただそれだけで生き残ってきたのも君の才が成せる業だが……それが限界だよ、今の君には」
振ってきた槍が、アーネストの傍に落ちて地面に突き刺さった。
「……ならどうすればいい。俺には魔法の才能もないんだ」
「限界までやってみたのか、才能がないなりに努力はしたのか」
杖をしまったヒルデガルドは、俯く彼を見下ろして言った。
「私は才能なんてなかった。師はよく認めてくれたが、成長は鈍間で、結果が出るまでに五年以上も掛かった。いや、それでも早い方だったのかもしれない。そうやって何度も積み重ねてきたから今がある。君だってそうだろ。その槍を、今の水準にまで扱えるまで、どれだけの経験を経てきた。たった一年や二年で辿り着いたのか。最初から誰もが出来ないものを、誰もが出来るようになるまで繰り返す。その血の滲むような努力もしないうちから、初心を忘れ、限界を見た気になるんじゃない」
ローブを翻して背中を向けたヒルデガルドは、もう稽古は終わりだと村へ帰るポータルを開く。疲れにふらふらと立ち上がったアーネストに、彼女は一度だけ振り返って、優しく笑いかける。
「才能を言い訳にするな、アーネスト。君は努力家なんだから」