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「キヨ、今日からお前は組長ね」
「はぇ?」
いつも通りの朝に、いつもとは違ったことが起きた。
最近貼り替えたばかりの畳からまだい草の香りが漂い、小さなちゃぶ台を囲んで朝食を取っている。
キヨはこれから高校に通うためシンプルなシャツとスラックス姿で、対する衝撃発言をかました育ての親であるガッチマンは着物を羽織っていた。
目の前には湯気が立っている美味しそうなだし巻き玉子と、見事な焦げ目のついた立派な焼き魚。
盛りに盛られた白米と具沢山なお味噌汁がある。
いつも通りの完璧な朝食を前に、珍しく箸を動かさないでキヨは絶句した。
いや、こんな衝撃的な発言の後でもりもりとご飯を食べることは、例え育ち盛りであるキヨですらも無理な話だ。
言葉の意味を理解できないキヨが呆然とする中、当のガッチマンは悠々と味噌汁を啜った。
「キヨ、早くご飯食べないと冷めるよ?」
「いや、いやいやいやいや、意味わからんて!!」
きょとんとするガッチマンに、思わずキヨは自慢の大きな声で応えてしまった。
全く、きょとんとしたいのはこっちだ。
和やかな朝食をしようとしていた矢先に、突然「今日からお前が組長だ」などと意味がわからない事を言われた身にもなってほしい。
いや、どんな身だよ。
こんな訳の分からない状況に陥っているのは、きっとキヨだけだ。
ああ、今日もやはり世界はキヨに厳しい。
現実逃避気味な脳は、そんな取り留めもないことを考えた。
「・・・・・・・・・まず聞きたいんだけど、組長って何?」
一度冷静になれとキヨの中のリトルキヨが提案してきたので、深呼吸してから聞いてみた。
組長といえば、あれかもしれない。
とある組合のトップとか。
どっかの幼稚園の組の中で一番上の人とか。
なんて言葉に出したらガッチマンに鼻で笑われそうだ。
「組長って、ヤクザのトップ以外ないでしょ?」
ガッチマンはストレートにキヨが考えていた答えを言ってしまった。
まるで当然の事のように言うが、全くもって非日常なことだ。
何が悲しくてごくごく一般的な男子高校生であるキヨが、ヤクザの頭に指名されないといけないのか。
「えーと・・・・・・・・・そもそもガッチさんは組長だったの?」
とても根本的な話になるが、実はキヨはこの育ての親であるガッチマンの職業を一切知らない。
ガッチマンは決してキヨの前で仕事の話はしなかったし、キヨも深く聞くことはなかった。
まさかそれが仇になるなんて、思いもよらなかったことだが。
「ふふ・・・・・・・・・こう見えて俺、組長だったりするよぉ〜」
ガッチマンはようやく気づいたかと笑うが、キヨはため息をついただけだ。
ガッチマンがヤクザの組長だったとしても、特にキヨは驚かない。
というか、納得している自分もいる。
ガッチマンという男はそれだけ謎で、誰もが惹かれるようなカリスマ性があり、人が彼を放っておかないような男だった。
そんな人が今更「私はヤクザの頭でーす!」と告白しても納得こそすれ、驚きはしない。
「つーかなんでいきなりオレを組長に指名したんだよ。オレ今ガッチさんの職業知ったばっかりなんすけどー」
衝撃から立ち直ったキヨは、早速だし巻き玉子を頬張る。
目の前の自称「ヤクザの頭」が作ったとは思えないだし巻き玉子は最高級に美味しい。
貶しているように聞こえるが、これは褒めている。
何をやらせても何でもこなせてしまう、本当に器用な人だ。
「お前はやけに飲み込みが早いね」
「誰かさんのおかげさまでね」
「褒めんなよ〜」
「どこが!」
天然で人を振り回しがちなこの人の元で育ったキヨは、この年にして臨機応変な対応力が身についてしまった。
この人の突然の無茶振りにも難なく応えてきたキヨは、もう既に「お前が次の組長な☆」という命令にも諦めが混じっていた。
どうせキヨが拒否しても、この人はあの手この手でどうにかしてしまうのだ。
今更キヨが何を言っても遅い。
「いや、だからって次期組長だってのは無理だかんな??」
とはいえキヨにも物申したい事くらいある。
キヨはまだ高校生だ。
ヤクザという世界を余りにも知らない、普通の世界で生きてきたのに今日からヤのつく自営業なんて無理にも程がある。
漫画でよく見るヤクザは、何よりも格式や序列を重んじていた。
パッと出な上にヤクザとしての経験もなく、若造というよりむしろ子供であるキヨが組長になれば、反対勢力も勿論出てくるだろう。
そんな事を考えられないガッチマンではないというのに、何故キヨを組長に指名したのか。
「他の奴らが反対するかもって思ってる?」
「反対どころか怒り狂うのが目に見えるわ・・・・・・・・・」
まだ誰一人顔も知らぬ組員に、キヨは同情の眼差しを向ける。
きっと彼らも、ガッチマンの無茶に振り回されてきたのだろう。
「大丈夫。反対する奴らはいないよ」
「んな適当な」
「俺が組長になったのも丁度今のキヨ位の年だったし」
そういえばとキヨは昔のことを思い出した。
キヨが孤児院にいた時に初めてガッチマンと出会ったのだが、あの時の彼は高校生だった気がする。
どうやらヤクザの慈善活動として孤児院に来ていたらしいガッチマンに、当時のキヨは勘違いでとんでもない事をやってのけた。
あの時はガッチマンが養子を取るために孤児院に来たのだと思い込み、勝手に養子縁組を迫ったのだ。
孤児院の環境は悪く、常に腹を空かせるか同じ歳の子供からの迫害やいじめに怯える日々に嫌気がさしていたのだろう。
ただの慈善活動で訪れたガッチマンに対し、キヨはおもちゃのナイフを振りかざしてこう言ったのだ。
『オレを引き取ってくれなきゃ、ここでお前を殺してオレも死ぬ!』と。
当時のことを語るガッチマンは「将来有望なメンヘラだーって思ったね」と笑っていた。
それから「おもしれー女」ならぬ「おもしれーガキ」だと思ったキヨを、齢十八歳にしてガッチマンは引き取ってくれたのだ。
当時のガッチマンはまだ未成年なので、裏ルートであれやこれや手を回して。
この件に関してガッチマンに頭が上がらないが、同時に記憶から消し去りたい黒歴史でもある。
今のように時々ガッチマンは昔のことを語ろうとするが、その度に古傷がざっくりと抉れるのでやめて欲しい。
なんて強烈すぎる出会いを頭を振って消し、朝食とガッチマンの話に集中する。
一つの話題からあれこれと考えが枝分かれしてしまうのは、キヨの悪いクセだ。
「その年で組長になるって・・・・・・・・・当時は相当揉めたんじゃねーの?」
いくらガッチマンが優秀で、組長と血が繋がっていたとしても、子供がトップに立っては困るという奴らも大分いたことだろう。
それくらいヤクザというのは縦社会で下に厳しく、メンツを重んじるのだ。
というのは、漫画からの知識だが。
「大いに揉めたよ。でも前の親父は突然死んじゃったし、息子は俺一人だけだったから仕方ないことでしょ?」
さらりとガッチマンは言うが、キヨはその情報量の多さにもうお腹はいっぱいだ。
「それに────────」
グロッキーなキヨに追い打ちをかけるように、ガッチマンは仄暗く笑う。
「俺の時みたいに、反対するヤツら全員クビにすればいい。まっ!あの時反対してたのは、親父を暗殺した奴らだったけど」
クビ、と言いながら自分の首を切るアクションをしたガッチマンに、キヨは背筋が凍る。
どうやら伊達に組長はやってないらしい。
それも今日で終わりらしいが、その貫禄は恐ろしいものだ。
「殺したの?東京湾に沈めたとか」
好奇心から聞いてみると、ガッチマンはあっけらかんと笑い声をあげる。
「まっさかー!漫画の見すぎだよ。今の時代、そんな足がつくようなめんど・・・・・・・・・だるいことしないって!」
「言い直せてないからな?本心出てるからな?」
「二度と悪さ出来ないように、分からせてあげただけだよ」
その怪しさ満点の「分からせる」については一切知りたくないので口を噤む。
触らぬ神になんとやら、だ。
「つーかオレ組長の仕事については一切何も知らねーんだけど?」
「だからオレが組長っていうのは考え直してくれ」と言いかけたが、ガッチマンは「そうだった!」と慌てて出ていってしまった。
キヨに拒否の声を上げさせる暇もなく。
「・・・・・・・・・自由人か」
ぽつりと諦めのため息を零して、ガッチマンを待つ間すっかり冷めてしまった朝食を頬張る。
暫くして、ガッチマンは一つのノートパソコンを携えて帰ってきた。
「なーんにもヤクザのこと分かんないキヨのために、最高の補佐達を用意しといたから!安心して」
「用意て」
ナチュラルに人を物扱いしたガッチマンは、呆れるキヨに構わずせっせとノートパソコンをキヨの前に準備した。
やがて画面に映し出されたのは、二人の人物だ。
それぞれ画面が二つに別れており、片画面に一人ずつ写っていた。
なんだかこの光景、どこかで見た覚えがある。
「じゃじゃーん!彼らがキヨの補佐官です!」
自慢げなガッチマンを一旦無視して、キヨは画面を凝視する。
そこに映っていたのは、とても裏社会の人間だとは思えない奴らだ。
『おっそいわ!ガッチさん。どんだけ待たせんだ』
『全く、待ちくたびれたぜ』
組員である彼らは、遠慮せずにガッチマンへ文句を垂れる。
そんな彼らに軽く「ごめんごめーん」と笑いながら謝るガッチマンを見て、組員といえども対等な関係を築いているのだと気づいた。
『んん。組長の補佐役をしてる、牛沢だ』
そう初めに名乗ったのは、黒髪短髪でメガネをした男だ。
神経質そうな三白眼の目がキヨをじろりと見た気がして、自然と姿勢を正す。
『同じく組長補佐のレトルト。よろしくな!』
続いてもう一人の男も、挨拶をした。
こちらは気さくな感じで、鼻声混じりの声には親しみを覚える。
キヨは名乗る前に、思わずツッコミたくなった。
「今のヤクザって、顔合わせもオンラインなの???」
『そこ重要か?』
「俺の組は、常に時代を先取りしてるから」
『うっしーしかツッコミがいない件』
えっへんとガッチマンは隣で胸を張り、牛沢が呆れ、レトルトが楽しんでいる。
きっとガッチマンは普段からこのように彼らと接しているのだろう。
今まで知らなかった育ての親のもう一つの顔を見て、キヨは笑みが零れる。
「つーかサポートの二人は、いきなりオレが組長になるってやっぱ嫌だよな?」
カメラの前を陣取るガッチマンを押しのけて、補佐の二人に尋ねる。
ここでキヨが組長になることを二人が反対してくれれば、ガッチマンは考え直してくれるかもしれない。
『ザーヤクの世界舐めてんじゃねーよ、ガキ』
そんな淡い期待は、牛沢の辛辣な言葉で消え去ってしまった。
『俺たちがどう思おうが、反対意見があろうが、頭が決めたことなら従うまでだろ』
「ねえ、この人本当にオレを組長として敬う気ある???」
早速喧嘩を売るような反論をされて、ヤクザ怖えーと思った。
基本的にキヨは不良が怖かったりする。
『つまり組のトップになるっちゅーことは、それだけ責任が伴うんやでー!ってうっしー言いたかったんでしょ?』
『あ?おう、まあ、そんな所だ』
「いや、絶対違う言い方じゃん」
レトルトがフォローしてくれたが、どうやらそれはただの深読みだったらしい。
本当にこんな人たちが補佐で大丈夫か?とガッチマンを見る。
そういえば隣の男も適当で自由なので、結局キヨが苦労することに変わりはないだろう。
『とにかく!学校終わったら迎えに行くから、首洗って待ってろよ』
『首は洗っても洗わんくてもいいからね〜』
「ツッコミが欲しい・・・・・・・・・」
ボケなのか本気なのかよく分からない二人は、それだけ言うと通話を切ってしまった。
自己紹介のための短い邂逅だったが、随分とキャラが濃い人が出てきたものだ。
「うっしーは言い方怖いけど、本当は優しい子だから」
全くフォローしきれてなかったレトルトの代わりに、ガッチマンが補足する。
言い方がきつかろうが、はっきりと意見を述べてくれるのはありがたい。
別に牛沢のことは嫌いではない───────と言いかける前に、ガッチマンが口を開いた。
「ちなみにレトさんの方がめっちゃ毒舌だから。気をつけてね」
「ええ・・・・・・・・・」
いかにも怖そうな奴が実は優しくて、優しいと思ったやつが本当は怖いなど、全くもって迷惑なギャップだ。
チンピラな牛沢、本性は毒舌家なレトルトと脳内で危険人物に丸する。
不本意ながらも組長になるから、そんな二人を手懐けなければならない。
これは骨が折れそうだ、なんて考えるキヨも普通の人より理解力が大分良すぎることに気づいていなかった。
「ていうか、俺が言うのも何だけど・・・・・・・・・キヨは本当に組長になるの?」
「まじでガッチさんが言うのアレだな」
言い出しっぺの奴が確認するように聞いてきて、キヨは思わず苦笑が洩れる。
「一度組長になったら、やっぱり無理ですって出来ないんだよ?それに、お前はまだ若いから色んな選択肢がある」
ガッチマンが決めたことだろうに、まるでキヨが組長になって欲しくないように聞こえる。
この人は無茶振りばかりしてくるが、本当はキヨのことを誰よりも考えてくれている人なのだ。
だから、キヨの考えはもう決まっていた。
「ガッチさんがやれって言ったら、オレは迷いなくやるよ。だってガッチさんには、返しきれない程の恩があるから」
キヨがそう言うと、ガッチマンは黙りこくった。
子育てなど分からない高校生だったガッチマンが、四苦八苦しながらもここまでキヨを立派に育ててくれたのだ。
それがどれだけ大変だったかなんて、きっと今のキヨには分からない。
分からないながらも、キヨはガッチマンの恩に報いたかった。
組長になれとガッチマンが言うのなら、期待に応えよう。
これがキヨの親孝行になるのなら。
「物分りが良すぎて困っちゃうね、全く」
そんなキヨの思いを察したのか、これ以上ガッチマンが聞くことはなかった。
「むしろオレよりも、組員の方が心配なんだけど」
ヤクザのことなどよく知らないぱっと出のガキに頭を下げなければならない組員達が、何よりも心配の種だった。
気に入らないからといって、いきなりドスで斬られなければいいが。
「それに関しては大丈夫だと思うよ」
不安げなキヨに、ガッチマンは自信満々に言い切った。
「なんで?」
まさか権力で黙らせろとか言わないよな、と危惧しているとガッチマンは口を開いた。
「それより学校はいいの?結構時間やばそうだけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ」
ガッチマンに言われて慌てて時計を見れば、ホームルームがとっくに始まってる時間になっている。
「やば!もっと早く教えろし!」
キヨは慌てて残りの身支度を済ませて、家を飛び出た。
朝から衝撃的なことを言われたおかげで、こんなにも時間が経っていたとは。
組長になるだのなんだのは一旦忘れることにする。
今はとにかく本業の学校へ向かわなくてはならない。
家から近いという理由だけで選んだ高校は、走れば十分ほどの距離にある。
時間も時間なので校門に教師の姿はなく、これ幸いと固く閉ざされている門を飛び越えた。
元々キヨは遅刻魔で優等生とは言えない生徒だったので、今更焦ることもない。
一限目も始まっているようなので、そう急ぐ必要もないだろう。
キヨが上履きに変えるために靴箱を開けると、思わずため息をついてしまった。
「幼稚園児かよ」
キヨの新しい上履きには、ご丁寧に油性マジックで罵詈雑言が書かれていた。
しかも足を入れる部分には画鋲が入っている始末だ。
全くもって暇を持て余した奴らである。
きっと朝早くに来てマジックで書き込み、画鋲も全て上向きになるようにわざわざセットしたのだろう。
これが暇人でなければ、ただの時間の無駄遣い野郎だ。
キヨは上履きをそのまま持って、靴は脱がずに廊下を歩く。
第一高校生になってまだ上履きの校則がだるいのだ。
これで晴れて靴で校内を歩けるという大義名分が出来た。
遅刻したうえに嫌がらせを受けた人物とは思えないくらい悠々と廊下を歩き、自分のクラスの戸を開ける。
「遅れてすんませーん」
がらりと豪快に開けて、後ろの戸にほど近い自分の席に腰掛ける。
「遅刻してその態度はなんだ!」
一限目は数学だったのか、小言がうるさい教師として有名な奴が教壇に立っている。
文句があるなら、朝からとんでもない事をしてくれたガッチマンに言って欲しい。
一介の教師が、ヤクザのトップ(もう元だが)に説教するのもまた一興だろう。
「それに土足で校内に入るな!上履きは持ってるだろ」
さっさと授業を再開すればいいのに、数学教師は律儀にキヨに構う。
面倒くさくなりながら、キヨは上履きを机に乗せた。
「上履きにイタズラされたんで、オレ今日から靴で過ごしまーす」
これを期に全校生徒の上履きを撤廃すればいいという企みを元に訴えれば、分かりやすいほど教師は狼狽えた。
「そ、そうか。そういうのは担任か、生活指導の先生に相談してくれ」
明らかなイジメに面食らったのか、もう教師がキヨに構うことはなかった。
(それでも教師かよ)
教師を嘲笑しながらちらりととある男子生徒を見れば、ひどく顔を歪めて忌々しそうに小さく舌打ちしたのが聞こえた。
こそこそと裏で嫌がらせをしてくるやつだろう。
どうやらそいつはここいら一帯で有名な半グレらしい。
バックにはヤクザがいるだの、関東一の暴走族総長だの、他校の生徒を自殺に追い込んだ、だのと色々と尾ひれのついた噂がある男だ。
どうせそれらはただの噂か、見栄を張ったでまかせだろう。
そんな大層な肩書きを持つやつが、こんなみみっちいイジメをするなんて笑いものだ。
小物感に磨きがかかりすぎて、最早噛ませ犬である。
そんな奴の相手をするだけ時間の無駄なので、無視した方が余程有益だ。
ついこの間こいつに数学の教科書をお釈迦にされたので、ノートだけ開いて退屈な一限目を過ごした。
「キヨ!またイジメられたの!?」
昼休み。
ガッチマンが作った彩り豊かな弁当を片手に理科室に行けば、先に着いていた友人のフジに詰め寄られた。
どこからそんな情報を得たのか知らないが、その言い方だとまるでキヨが虐められている弱者のように聞こえる。
「イジメじゃねーよ。ただの嫌がらせ」
幼稚園児がするような、と付け加えるが、フジはマスクの下で大仰に悲観している。
「やっぱり先生に言った方がいいって」
「えー。どうせアイツらは”学生同士のイタズラ”で終わりだよ。現にお前が虐められてた時、大人は誰も助けてくれなかったろ?」
「う・・・・・・・・・」
フジはその時のことを思い出したのか、唸るような声を出す。
キヨの前に目をつけられていたフジは、似たような嫌がらせを受けていた。
エスカレートしていくイジメを看過できなくなったキヨが割って入ったら、次の日からターゲットが自分になっていただけの話だ。
イジメを庇うことで標的が移るのはよくあることだし、酷い嫌がらせは孤児院時代に散々受けてきた。
あの時よりずっと嫌がらせはぬるいし、精神もより成長したのであれ如きに動じるキヨではない。
「なんだ、キヨ。また虐められたのか?」
理科室の戸が開いて、もう一人の友人が顔を出した。
弁当を持つ姿が良く似合う、こーすけだ。
「だーかーらー、イジメじゃなくてた、だ、の、嫌がらせ」
「一緒だろ」
「違うわ」
とにかくキヨは一切気にしていないので、こーすけとフジも放っておいてほしい。
どうせこういう嫌がらせは無視しておけば、時が解決してくれるのだ。
構うだけ労力も時間も無駄なのである。
毎回どんな嫌がらせを受けても平然としているキヨに納得したのか、二人は目を合わせて頷いただけで深く突っ込むことはなかった。
今日も変わらず美味しかった弁当を全て平らげて、キヨは窓際に寄る。
蝶の標本や縮小した人体模型が並ぶ中に、金魚の入った鉢があった。
鉢は小さいが金魚も二匹しかいないので、窮屈ではなさそうだ。
鉢の近くに置かれている餌を取ってパラパラと適量撒いてやれば、小さな口を懸命にあけて餌を頬張っている。
「毎日その金魚に餌やってるけど、キヨのなの?」
「んなわけねーだろ」
未だにパンに齧り付いているフジが、不思議そうに聞く。
ここ数ヶ月間一緒にご飯を食べているというのに、今疑問に思ったのだろうか。
「まさか食うつもりで餌やって肥やしてんのか?」
「蹴るぞ?」
こーすけまでそんな事を言い出し、キヨは怒りのあまりつい出そうになる足を抑えた。
「・・・・・・・・・一ヶ月間だけいた生物の先生に、世話頼まれたんだよ」
「一ヶ月間・・・・・・・・・って、あー、なんかそんな人いたね」
キヨ達が入学してから一ヶ月しか居なかった先生を、フジはあまり覚えていないようだ。
確かに影が薄く、あまり目立った特徴のない人だった。
ただキヨは、そこいらの一年生より少しだけ彼と接点があっただけの事。
教室の雰囲気に馴染めず一人寂しく理科室近くで弁当をつついている時に、声をかけられたのだ。
「この教室好きに使っていいから、先生が離任しても金魚を頼むって」
「へぇ。だから餌やりしてんのか。キヨって見た目にそぐわず実は面倒見がいいよな」
「こーすけは見た目より大分面倒見は悪いけどな」
「なんだとー!」
「まあまあ本当のことだし・・・・・・・・・」
「フジまで・・・・・・・・・!」
小さな理科室に三人の笑い声が響き渡る。
学校なんてつまらない馴れ合いの場としか考えていなかったが、ここまで仲の良い友達に恵まれて考えを改めた。
それを言うとこの二人が調子に乗るのは目に見えているため、口には出さないが。
金魚が餌を全て平らげたのを見届けて、キヨは鉢から目を離す。
ふと窓の外、校庭の方を見ると、同じ歳くらいの少年が歩いているのが見えた。
なぜ目に止まったのかというと、その少年が制服ではなく私服だったからだ。
何となく気になって追っていると、少年はキヨの目線に気づいたのかいきなりこちらを振り返った。
(ここ三階だぞ・・・・・・・・・)
正確に視線を読み取っただけではなく、その少年はキヨに向かって笑いかけた。
「キヨ、何見てんの?」
「お!転校生か?」
フジとこーすけが窓から身を乗り出して校庭を見た。
その時にはもう少年はこちらを見ておらず、キヨは何故かほっとする。
第一印象は得体の知れない気持ち悪いやつ、だ。
転校生とはいえ関わらないのが一番だろうと結論づけて、キヨは窓から離れた。
帰りのHRもそこそこに、キヨはスクールバッグを適当に引っ提げて校門を出た。
放課後はいつもフジとこーすけとゲームセンターかカラオケに行くのだが、今日に限って奴らは委員会と別の友人との約束があるらしい。
という事で今日の下校は、キヨ一人だけだ。
決して他に遊ぶ友達がいないとか、そういう訳では無い。
作ろうと思えば作れるけど、面倒いから作らないというだけだ。
誰にもなく言い訳を心の中で連ねながら帰っていると、狭い通路に軽自動車が止まっていた。
殆ど車が塞いでいるせいで、満足に道も通れやしない。
というかどうやって止めたんだと胡乱げに車を見ていると、影になっているところに二人の男が立っているのに気づいた。
二人は仲良く並んでタバコを吸っている。
道を車で塞いでいる上に路上喫煙など、迷惑もいい所だ。
(くっそ邪魔だな〜)
なんて思いながら通り過ぎようとすると「おい、待て」と声を掛けられた。
「・・・・・・・・・なんだよ」
渋々ながら振り向くと、黒髪黒目の男が紫煙を吐き出しながら不機嫌そうに口角を下げた。
「「なんだよ」じゃねーよ、クソガキ!!すっぽかしやがって!!」
「はぁ?」
突然怒鳴る男に、キヨは?が生える一方だ。
(こいつ、誰だ?)
男はまだブツブツと言っているが、キヨは無視して記憶を手繰る。
(どーっかで見た覚えあんだけどな〜。芸人か?)
男を凝視していると、突然閃いた。
「あ、あーーーーー!!」
「な、なんだよ急に・・・・・・・・・」
怒っていた男も、いきなり大きな声を出したキヨに若干引いた。
「誰かと思ったら、うっしーか!」
「うっしー、だと?」
キヨの中でこの男はうっしーだと思ったのだが、うっしーではないようだ。
「あり?うっしーじゃないの?」
「俺はう・し・ざ・わ・だ!!」
「うっしーじゃん」
うっしーをうっしーと言っただけなのにうっしー本人から否定されるとは思わなかった。
きょとんとしていると、黙って二人の漫才を見ていた男がタバコを吹き飛ばす勢いで爆笑する。
「年、年下にうっしーって、ふは、やば」
大口を開けて笑うその男の口元に何やら立派な傷があるが、生憎とキヨはこの人とは初対面だ。
「あの・・・・・・・・・どちら様ですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ?!」
爆笑していた男はキヨがそう言った瞬間、動きを止めた。
変なこと言ったかなぁと頬をかくと、今度は牛沢が大爆笑する。
「く、くふふ「どちら様」だとよ」
「い、いちいち繰り返さなくてええねん!」
男は顔を真っ赤にして、流れるような訛りで反論する。
そしてタバコを踏んで火を消すと、顎に付けていたマスクを引き上げて指をさした。
「ほんま薄情もんやなぁ!!ガッチさんに言いつけたるで!!」
ごちゃごちゃと叫ぶ男を見て、キヨはようやく思い出した。
「あー、レトさんか!マスクしてねーから誰かと思った!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・おれマスクで認識されてたん?」
「まあお前、マスクが本体みたいなとこあるしな」
「メガネが本体の牛沢さん、何か言った?」
「・・・・・・・・・不毛な争いだな」
「「お前が言うな!!」」
ピッタリと息があった二人に、キヨは笑う。
ヤクザだから怖い人達なのかと思ったら、普通に面白い人だった。
朝にリモートで知り合ったばかりだが、何となくこの二人とはいい関係を築けそうな気がする。
「つーか、なんでレトルトがさん付けで俺は呼び捨てなんだよ」
「で?二人はなんでオレを待ってたの?」
「人の話聞けや」
「やーっぱり朝の約束忘れてる!放課後おれとうっしーが迎えに来るって言ったじゃん」
「おい」
「あー、なんかそんなこと言ってた気がする」
「おーい」
「ほんっと、しっかりして〜。こんなんが頭じゃ、今から心配だよ」
「あの、無視しないでいただけます?」
「なんかほざいた?うっしー」
「ほざく!?」
あえて無視した牛沢がいよいよウザくなったのか、レトルトは律儀に構ってあげる。
その構い方が大分雑というか、面倒くさがっているというか。
ぎゃいぎゃいと仲良く言い合う二人に疲れたキヨは、さっさと車に乗り込むことにした。
軽自動車らしくこじんまりとした車内は、長い足の自分が座るとより狭く感じる。
「ヤクザならリムジンで来いよ・・・・・・・・・」
なぜよりにもよって自家用車のナリをした車でお出迎えなのだろうか。
よく見るドラマやマンガでは、黒塗りの高級車でのお迎えだというのに。
小さく文句を言うと、若干開けた窓からレトルトが覗いてきた。
「うっしー運転が荒すぎて、よく車をダメにすんの。ついにガッチさんが怒って、うっしーの車はこれになったってわけ」
「まるで俺だけが悪いみたいな言い方だけどよ、お前も運転下手すぎてよく廃車にしてはガッチさんに絞られてたろ」
「うっしーみたいに相手の車に突っ込んだりサツと要らんカーチェイスしてない分、ガッチさんは怒ってなかったです〜」
「ガッチさんはいつも「レトさんに運転させると何故か街路樹かガードレールに突っ込むんだよねぇ」って嘆いてたの知らんのぉ?」
「不毛な争いパート2止めてくんない?」
いい加減キヨが止めなければ、この二人は延々と不毛な話題で喧嘩しそうだ。
キヨが気だるげに止めると、補佐の二人は目を合わせてため息をついた。
「確かに」
素直に口喧嘩を止めて、自分たちも車に乗り込む。
牛沢が運転席で、レトルトが助手席だ。
「っと、時間やべ」
ナビの右上にある時間を確認した牛沢が、小さな呟きを洩らした。
その言葉に反応したレトルトが、勢いよくキヨを振り返る。
「まずい、キヨくん!早くシートベルトして!」
「ん?今するところだったけ───────ど!?」
キヨが言い終わる前に、突然体にGが掛かって危うくシートに頭をぶつける所だった。
慌ててシートベルトを付けると、恐ろしい速さで窓の外の景色が過ぎてゆく。
「飛ばすから舌噛むなよ〜」
アクセルを全開で踏み抜く犯人は呑気にそう言うと、レトルトとキヨの絶叫に構わずスピードを上げる。
公道を普通に走る堅気の車をごぼう抜きにしては、右折左折の度にドリフトを挟む。
普通の軽自動車でここまで無茶な運転をするやつが何処にいるか!!ここにいるな!!と一人でツッコミつつ、キヨは無事に家に帰れますようにと願った。
「くそ牛め・・・・・・・・・絶対、絶っっっ対ガッチさんに言いつけてやるぅ・・・・・・・・・」
「おえっ、ぎも”ぢわ”る”い”」
レトルトとキヨはほうほうの体で、ようやく止まった車から転がり出る。
レトルトは慣れているからかふらふらとするだけでしっかりと自分の足で立っているが、キヨは車に手をついたまま動けなかった。
もともと三半規管が弱く酔いやすい体質なのに、ここまで運転が荒いと酔うなと言う方が難しい。
(組長になったら、運転手交代させるからな・・・・・・・・・!)
ムカムカする胸を押さえつつ、キヨは決意を新たにする。
職権乱用とかガキのくせにとか文句を言われてもいい。
絶対に牛沢を運転手にはしないぞと心に誓って、キヨは息を整えた。
大きく深呼吸をして、辺りを見渡してみる。
目の前にあったのは、それはそれは立派な漆喰の壁だ。
牛沢の幅寄せが下手すぎて少しサイドミラーが壁に引き摺られているのは、見なかったことにする。
「こっちだ」
すたすたと憎たらしいほど健康的な足取りで進む牛沢の背を睨みながら、キヨは後に続く。
「おお・・・・・・・・・おぇ!」
感嘆の声を上げるが、途端に気持ち悪くなって口元を慌てて押さえる。
牛沢の荒い運転のおかげで、素晴らしい屋敷を満足に見ることも出来ない。
「ここ・・・・・・・・・何?」
「ウチの組の総本山」
もう車酔いが治ったレトルトが、軽やかに歩きながら説明する。
今だけその元気を分けて欲しい。
「これから組の奴らに、新組長のお披露目をすんだよ」
「ほうほう」
そんな晴れ舞台なのに、主役がグロッキーでは台無しすぎる。
何かあったら責任取れよ・・・・・・・・・と憎い背中に念を送りつつ、キヨは立派な庭を突っ切った。
とにかく屋敷までの道のりが遠く感じる。
庭が立派なのは良い事だが、正直もっと小さくていい。
防犯用なのか景観用なのか悩む砂利を踏みながら、まだ着かないのかよと悪態をつく。
延々に続くと思われた砂利を抜けると、等間隔に置かれた平らな石が現れる。
その上を歩く頃には、車酔いも大分治まってきた。
平らな石を渡り終えると、今度は庭を割るように大きな川のような池のようなものが見える。
「すげぇ・・・・・・・・・」
石の簡素な橋が架かっており、そこから池を見下ろせば綺麗な尾ひれをチラつかせる鯉が泳いでいた。
でっぷりと肥えた腹に優美な尾ひれを自慢げに揺らして、悠々と池を横断する。
鯉の他にも池には睡蓮や灯篭が浮いていた。
灯篭の中にきちんと蝋燭が入っているのか、太陽の下でも薄ぼんやりと点っている。
奥の池には涼やかな音を立てるししおどしがあり、その隣には石の灯籠もあった。
日本人としての心をくすぐりすぎる庭に、キヨはすでに酔いも忘れて目を輝かせる。
流石に枯山水は無いらしいが、屋敷の奥には白い葉か花をつけた巨大な木が堂々と佇んでいた。
きょろきょろと忙しなく庭を見渡していると、ようやく屋敷につく。
障子で区切られた部屋に、ちらりと見えた中身はしっかりと書院造りになっている。
ここをデザインした人の本気度が伺える屋敷だ。
キヨは立派すぎる屋敷にらしくもなく気後れしながら、そろそろと牛沢とレトルトの後に続く。
「にしても、組員さんには会わねーな」
これだけ広い屋敷にも関わらず、組員の誰とも会わないとはおかしな話だ。
だからといって誰もいない訳ではなく、確かにこの屋敷内に大勢の人の気配はする。
「そりゃそうだ。言ったろ?お披露目会って。組員は椿の間でお前が来んのを今か今かと待ってんだよ」
「ひえぇ。狩る気満々じゃん」
いきなり組長に指名された挙句、ヤクザのヤの字も知らない若造を、縦社会で生きてきた輩が認めるわけが無い。
その組員が敷き詰められて───────集められている「椿の間」とやらは殺気で満ち満ちていることだろう。
それが容易に想像出来て、キヨの顔から血の気が引く。
「入った瞬間、ドスで腹刺されたりして」
「縁起でもないこと言わんでぇ・・・・・・・・・」
レトルトは楽しそうに言うが、今の状況では全く笑えない。
おっかなびっくりしながら足を進めていると、一つの部屋に案内された。
「あ、おかえり〜」
その部屋で待っていたのは、ガッチマンだった。
平素のシンプルな和服ではなく、細かい刺繍が施された立派な羽織りを付けている。
「んじゃ、頑張れよ」
「また後でね」
キヨを届け終えた二人は、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
簡素な部屋に残されたキヨは、ガッチマンを見る。
「うっしーの運転で酔ってない?」
「んー、さっきよりはマシ」
ガッチマンの中でも牛沢=荒い運転という認識らしい。
キヨがげんなりしながらお腹を摩ると、ガッチマンはやっぱりかと笑った。
「思ったより元気そうで良かった。主役が皆の前でゲロって一生の思い出になるのもいいと思ったんだけど」
「思い出じゃなくて黒歴史レベルよ、それ」
緊張するキヨを冗談で和ませたつもりだったのだろうが、生憎とそれが冗談で済まされなさそうで背筋が冷えている。
「さ、冗談はここまでにして・・・・・・・・・皆待ってるし、そろそろ行こっか」
ガッチマンはこちらを振り向くと、キヨの縒れた学校指定のネクタイを直した。
その眼差しは眩しいものを見るように細められている。
「よし!完璧!」
励ますように胸の辺りをポンポンと叩かれて、キヨは前を向く。
おかげで体の要らない力がすっかり抜ける。
何も今から取って食われる訳では無いのだ。
キヨの傍にはガッチマンや、牛沢やレトルトがいる。
何も身構えることなく、堂々としていればいい。
「行こっ!」
にかっといつも通りガッチマンに笑いかければ、穏やかな笑みが返ってくる。
そして「椿の間」へ向かう。
ガッチマンはもうこちらを気にすることなく襖を開けると、さっさと「椿の間」へ入る。
キヨも続けて足を踏み入れると、ゾッとするような数多の視線に晒された。
二つの部屋をぶち抜いたような広さの空間に、スーツを着た物々しい男たちがじろりとキヨを見ている。
品定めするような、獲物を狙うような目だ。
ガッチマンは涼しげに肩で風を切って、上座にある一段高い所に座った。
その隣にはご丁寧に座布団が敷かれているので、きっとキヨの座るところなのだろう。
そのお立ち台の前には、キヨとガッチマンに背を向ける形で牛沢とレトルトが座っていた。
組員と向かい合う形なので、まるでキヨを守っているかのように錯覚する。
「集まってくれてありがとうね、皆。もう分かっているとは思うけど、今日この組の頭を引き継ぐ」
しんとした空間は、ふとした瞬間に破裂しそうなほどの緊張感が漂っていた。
値踏みするような視線が何十と向けられて、キヨは自然と背を伸ばす。
組員に気後れすれば、きっと弱い頭だと思われて舐められてしまう。
だからキヨは意地でも堂々としなければいけなかった。
「次の頭はもう決まってる。俺の息子のキヨだ。ヤクザどころか裏社会も知らない子だけど、皆でサポートしてほしい」
「一生懸命勉強して、誰にも負けないような組にするから!よろしくお願いします!」
キヨは勢いよく頭を下げるが、組員の反応はない。
恐る恐る頭を上げてみても、じろりとした目線を送るだけで歓迎の拍手一つもなかった。
(何か反応してくれてもよくね??)
キヨを非難する野次が飛んでくるかと思ったが、返ってきたのは鋭い視線と無言だ。
ガッチマンがいる前でキヨの事を反対出来ないのかもしれない。
やばいぞと背中に嫌な冷や汗をかいていると、牛沢がため息をついた。
「んで?誰か何か言いたいこととかねーのかよ」
そう言われましても牛沢さん。面と向かって罵詈雑言吐かれたらオレだって凹みますけど?
という思いを込めて牛沢の背を睨むが、彼が気づいている様子はない。
キヨはいい加減腹を括って、どんなクレームもどんとこいと拳を握った。
やはりしんと静まり返った空間は、居心地が悪い。
自分の激しい心拍音すら皆に聞こえているのではないかと思う中、一人の組員が何か言いたげに口を開いたのが分かった。
「き・・・・・・・・・」
「き?」
首を傾げながら男に続きを促すと、物凄い勢いで男は俯いていた顔を上げた。
「キー坊!!おっきくなったなぁ!!」
「へ?」
キヨは大きく目を見開いたまま、ぴしりと固まった。
その男の呼ぶ「キー坊」とは、もしかしなくてもキヨの事だろうか。
生まれてこの方「キー坊」などと一度も呼ばれたことは無い。
頭が「?」だらけになるキヨに構わず、組員の男たちは一斉に相合を崩した。
「昔はこーんなにちっちゃかったのによぉ」
「よく組長の後ろについてまわってたなぁ」
「キー坊もう高校生だろ?時が経つってのは早ぇこった」
「キー坊は」「キー坊が」「あのキー坊」と「キー坊」が連呼される度に、キヨの頭は余計にこんがらがる。
「ふっ、あはは!」
ガッチマンは隣で爆笑しているだけなので、キヨは近くにいるレトルトに助けを求めた。
「気づかなかった?キヨくんがガッチさんに引き取られた時から、皆こっそりキヨくんを見守ってたんだよ」
「んえー?!」
まさかそんなに昔からキヨの事を知られていたとは思わなかった。
だからこんなにも「キー坊」と呼んで懐かしそうにしていたのか。
「っにしても、小学生のガキをつけ回すおっさん集団は、マジで事案だったわぁ」
当時を懐かしむ牛沢に釣られて、キヨもその光景を想像してみた。
するとかなり犯罪者じみていたので、今更ながら二の腕に鳥肌がたつ。
「見守り途中で何人か現行犯で連れてかれた子もいたねぇ」
ガッチマンは楽しそうに言うが、全く笑い事ではない。
何がともあれ、キヨが組員になる事を反対されなくて良かった。
胸を撫で下ろしていると、ガッチマンが微笑ましそうにキヨを見ていることに気づく。
「言ったでしょ?「大丈夫」って」
「・・・・・・・・・うん」
ガッチマンは分かっていたのだ。
組員がキヨの事をどれだけ大切に思っているかを。
だから何も知らないキヨがいきなり組長になると言っても、彼らが反対しないと。
「んにしても、ガキとはいえ頭になる奴に「キー坊」はねーよ。ちゃんと組長って呼べ」
生暖かい組員の目線をぶった斬るように、牛沢が現実を突きつけてきた。
確かに組のトップになる者があだ名で気安く呼ばれていては内外に示しがつかない。
ヤクザはこういう「メンツ」を気にするものだと、キヨはマンガで知っていた。
「そうは言っても牛沢さぁん。俺たちゃあキー坊がこーんな小っちぇ時から知ってんですぜ?」
「いきなり組長は難ぃよな」
「他人行儀だし」
「キー坊の方が親しみやすくていいじゃねーですか」
「お前らねぇ」
頑固に「キー坊」呼びをやめない組員に、レトルトは呆れ返っている。
「それならさぁ、公の場ではキヨを「組長」って呼んで、そうじゃない時は「キー坊」で・・・・・・・・・キー坊、ふふ・・・・・・・・・で、いいんじゃないかな?」
そう提案するガッチマンは、時折「キー坊」呼びにツボって言葉が途切れる。
呼ばれている本人としては恥ずかしいので、そんなに笑わないで欲しいのだが。
「ナイスアイデアですぜ!えーと、前組長?」
今度はガッチマンの呼び方まで悩みだした組員に、キヨは笑いをこらえる。
キヨの組長を反対するどころか、呼び方一つでこんなに盛り上がっているのが不思議で面白かったのだ。
ガッチマンらしい緩い組に、キヨは少しだけほっとした。
想像していたヤクザは殺伐とした感じだったが、実際はアットホームで一人一人がキヨを大事に思っていることが伝わる。
「俺的には「ガッチさん」って呼んで欲しいなぁ」
「無理無理無理!絶っっっ対にそんな気安く呼べねーですって!!」
「無茶ぶりせんといて下さい!呼ぶ度に俺らの寿命が縮みますわ!!」
「え・・・・・・・・・ショックなんだけど・・・・・・・・・」
ガッチマンを尊敬するあまり気軽に「ガッチさん」と呼べないらしい組員が全力で拒否するのを見て、ガッチマンが傷ついている。
「前組長が無難じゃね?」
「んー、それか・・・・・・・・・間をとって「オジキ」とか?」
牛沢とレトルトまで、ひそひそとガッチマンの呼び方について論じている。
今日の主役であるキヨのことはもう放ったらかしだ。
「いいね!「オジキ」!なら俺はキヨの兄貴になるのかな?」
落ち込んでいたガッチマンが、レトルトの案を聞いて瞬く間に蘇った。
「んじゃ、オジキでいいのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・やっぱ一回ガッチさんに───────」
「「オジキ」で決定な。ほら、さっさと宴の準備しろ。酒持ってこい」
「う、うっしー!?」
沈黙の末諦めきれなかったガッチマンが最後に足掻くが、牛沢が容赦なく無視したせいで無かったことになってしまった。
元とはいえ組長と冗談を言い合ったり、部下があれこれと口出しできるのは、相当仲がいい証拠だ。
キヨが思っていたより何倍も緩やかな組に、思わず安堵のため息が洩れた。
「ガッチさんって、意外と慕われてんだな」
「今の何を見聞きしてその結論に至ったの?あと「意外と」ってどーゆー意味?」
「オレの分の飲み物あるかな?」
面倒くさくなりそうな雰囲気を感じ取って、キヨはそそくさとガッチマンの傍から離れた。
椿の間に次々と長テーブルが運ばれてきて、一升瓶やら立派な舟盛りが並べられる。
「おう、キー坊!こっちに来て飲もうや!」
「次はこっちだ!」
「いや、その前にこっちで食え!」
主役であるキヨが席のあちらこちらで手を引かれて、代わる代わる可愛がられる。
強面のヤクザ達が親戚のおじさんに見えてきた。
お茶やジュースを注がれ、好物をじゃんじゃん皿に盛り付けられる。
そしておじさん達にもみくちゃにされながら何とか宴を脱出する頃には、それぞれが好きに騒いでいた。
酒を浴びるように飲んだ酔っ払いが腹踊りを披露すると、わっと宴が盛り上がる。
へろへろになりながらガッチマンの隣に戻ると、その光景を優しい目で見ながらちびちびと酒を舐めていた。
「どうだった?」
「顔に似合わず皆フレンドリーすぎてビビった」
傷やら刺青でゴテゴテに装飾された強面のヤクザが、あれこれと甲斐甲斐しく世話してくれた。
ガッチマン以外の大人からろくに好意を受けたことは無いので、嬉しいながらもどこか恥ずかしさがある。
「つぅか、もう誰もオレに興味ねーじゃん」
キヨのお披露目会というのはもう名ばかりで、今や酔っ払いとお花畑達の飲み会になっている。
牛沢も瓶ビール片手に隣にいる強面の組員をヘッドロックして、ベロベロに酔っていた。
レトルトは酒こそ飲んではいないが、腹芸をする組員を見て狂った勢いで笑っている。
混沌と化した宴の席には混ざりたくなくて、キヨはガッチマンの隣へと避難してきたのだ。
「皆で集まるのは随分久しぶりだからねぇ。今日は許してやって」
親心というやつか、ガッチマンはいつになく寛容に組員たちのどんちゃん騒ぎを見守っている。
「なー、ガッチさん」
「んー?」
手持ち無沙汰に、キヨは口を開く。
「なんで、組長辞めるの?」
そういえばガッチマンが組長をなぜ辞めるのか聞いていなかったことを思い出した。
キヨにその座を継がせるのは百億歩譲って・・・・・・・・・かなり譲歩するが、それなりの理由がなければこんな大それたことはしないだろう。
ましてやガッチマンはまだまだ若い。
組長だった時でさえ、現役の中では若手の方だったのだ。
とはえいえ学生時代から組長を務めていたため、かなり歴は長いが。
「んー・・・・・・・・・」
ガッチマンは困ったように眉根を寄せ、目線をさ迷わせた。
「まだ・・・・・・・・・言えない、かな」
「え?」
珍しく歯切れの悪い返答に、キヨは驚く。
キヨにさえも言えないような事があって、組長を辞めなくてはいけなくなったのだろうか。
例えば、命の危機が迫るような何かが。
その可能性を思いついてしまって、キヨの顔面は蒼白になる。
「ガッチ、さ・・・・・・・・・」
「ごめんね」
目を見張るキヨに、ガッチマンは視線を逸らしてただそれだけ言った。
めでたい宴の場は、キヨとガッチマンの周りだけ急激に冷めてしまったようだ。
嫌な予感をひしひしと感じながらも、キヨはこれ以上ガッチマンに聞くことは出来なかった。
(オレに、何を隠してんだろうな)
キヨは机の冷たさを頬で体感しながら、ぼんやりと教室の煤けた窓から外を見る。
キヨの「なぜ組長を譲るのか」という質問を曖昧にした当の本人は、そのことをすっかり忘れたような惚け面で普通に朝ごはんを作っていた。
朝の穏やかな時間にあの時の緊張を蒸し返す訳にもいかず、結局キヨは何も聞けずに学校に登校してしまったというわけである。
傍若無人に振舞ってはいるが、キヨの本質は空気を読みすぎる子供だ。
それが孤児院で育ったという環境故かは知らないが、それもあって益々ガッチマンを詰問することが出来ないでいた。
もしかしたら、側近かつ友達である牛沢とレトルトなら何かを知っているかもしれない。
そう希望を持ちかけるが、それを聞くためには牛沢の”恐怖!地獄直行ツアー”(運転)で魂を削らなければいけないだろう。
「・・・・・・・・・」
考えるまでもなく、キヨは保身に走った。
またあの肝の冷える体験をしなくてはいけないのなら、ガッチマンの理由など聞かなくてもいい。
そんなことをつらつら考えていると、キヨの隣の席に誰かが着席したのが分かった。
確かその席は一学期に不登校になって以来机とイスだけが教室に取り残された佐藤くんの席ではなかったか。
ついに不登校から脱出できたのかと考えていると、気配の主がキヨの方へ向いた気がした。
「おはよ〜」
(ん?佐藤くんってこんなフレンドリーだったっけ?)
不登校明けにしては随分と明るい佐藤くんの顔を拝んでやろうと、キヨは頭を上げる。
「あ!お前、昨日の・・・・・・・・・」
そこにいたのは佐藤くん───────ではなく、昨日のお昼休みに校庭で見かけた男子生徒がいた。
きっちりと第一ボタンまで閉められた律儀なシャツと、歪みひとつない学校指定のネクタイ。
サラサラとした栗色の髪は目元を隠すように下ろされ、その奥から友好的に細められた目が覗く。
「やっぱりおれの事、見てたの君だったんだ」
キヨが見知った顔に声を上げると、男子生徒も頷いた。
距離があったにも関わらず、あっちもキヨの事は認識しているらしい。
「おれはヒラ。実は転入してきたばっかりなんだー」
「へぇ」
どうやら昨日は挨拶と下見をしに学校へ来ていたらしい。
佐藤くんの席は早々に転入生に奪われたが、果たして彼が登校する日は来るのか。
ふとそんなどうでもいい事を考えてしまった。
「これから色々とよろしくね、キー坊」
「おー・・・・・・・・・って、はぁ!?」
キヨはさらりと問題発言をしたヒラに驚いて、椅子ごと横に倒れてしまった。
一方のヒラは、イタズラが成功した子供のように悪びれなく笑っている。
「き、キー坊って、おま、それ、どこ、どゆ、意味わか、え???」
「うーん、とりあえず落ち着こ?」
驚きすぎて語彙力が後退してしまったキヨに、ヒラは穏やかな声で諭した。
転けた拍子にぶつけた頭を擦りながら、倒れた椅子を元に戻す。
一度大きく深呼吸と心の準備をして、ヒラに向かい合った。
「改めまして、っと。おれはキー坊の護衛として、一緒にこの学校に通うことになったんだ」
「つーことは、ヒラも組員なん?」
「準組員、かな。正確にはおれの育ての親が組員なの」
「育ての親・・・・・・・・・」
この組は何件か孤児院を所有しているようで、時には将来有望そうな子供を引き取って育てているらしい。
そしてヒラも、ガッチマンに見初められて引き取られた子供のうちの一人だった。
ガッチマンには既に先約キヨがいたため、ヒラは彼の部下が引き取ったそうだ。
そしてキヨと同じ年でそれなりに戦い慣れているということを考慮されて、護衛役に抜擢されたわけである。
「過保護だな・・・・・・・・・オレ一人でも大丈夫なのに」
ガッチマンに信用されていないようで、キヨは少しだけ面白くなかったりする。
確かに自分はまだまだヤクザとしては駆け出しも駆け出し、素人ではあるが、同じ年のガキに守られる程ではないと思っていたのに。
「ガッチさんからの伝言。二人とも仲良くね〜だってさ」
キヨが不貞腐れることを予め知っていたかのようなガッチマンに、呆れたため息が出る。
キヨの不満も強さも弱さも知った上で、ガッチマンはヒラを護衛につけたのだ。
これはもう断る余地はないと見える。
「はぁー。仲良くすんなら、まずはその「キー坊」ってやつをやめてくれ」
「ん?おれの養父とうさんもそう呼んでるから、てっきり気に入ってんのかと思った」
「んなわけねーし!!」
親子ほど年が離れたおっさん達は兎も角、同い年のヒラにまでそんなふざけた名前で呼ばれたくはない。
それにフジとこーすけに知られたら、とんでもなくはちゃめちゃにイジられるのが目に見えている。
「えー、じゃあ、キヨ?」
渋々ながらヒラは「キー坊」と呼ぶのを辞めた。
「二度と!!キー坊なんて呼ぶなよ?」
「はぁーい」
つまらなさそうに席に着くヒラに、念入りに釘を刺しておく。
牛沢の荒い運転といい、組長業務開始前から厄介事が多すぎる。
ひっそりとため息を洩らしていると、ヒラがそそくさとキヨの席に自身の机をくっつけた。
「何してんの?」
「おれまだ教科書買ってないから、見せてちょーだい?」
あざとく小首を傾げるヒラに、キヨは口の端が引き攣る。
残念ながらキヨの教科書は尽く落書きされているか、ズタズタに切り刻まれているかのどちらかだ。
教科書が無くてもいいやと今まで買っていなかったのが、ここで仇になるとは思わなかった。
「あー・・・・・・・・・」
「?」
純粋そうな目できょとんとヒラを見ても、ろくな言い訳は思い浮かばない。
もう隠すのも面倒になって、キヨは机から一限目に使う現国の教科書を渡した。
「まあ、なんだ。頑張って読め」
「・・・・・・・・・」
久しぶりに見た現国の教科書は、落書きの方だった。
ご丁寧に太い油性のマジックペンで「死ね」やら「キモい」やら、幼稚な言葉が一ページずつ余すところなく書かれている。
それを見たヒラは、案の定呆然としていた。
「キヨ・・・・・・・・・イジメられてんの?」
「イジメじゃなくて、嫌がらせ」
似ているようで違うんだぞとキヨが説明しようとすると、やけにヒラが笑顔なことに気がついた。
「これやったの、誰?」
だからといって、目は全く笑ってない。
今のヒラは、ブチ切れた時のガッチマンとよく似ている。
あちらもこのように笑いながら怒るのだ。
「・・・・・・・・・言ったら、どーすんのよ」
「イタズラにお灸を据えるんだよ。ヤクザ流の、ね」
「やめろやめろ」
尚更言わねーぞと口を固く閉ざす。
キヨはこの通り、別に何ともない。
ヒラが過剰に反応してイジメの主犯を痛めつけてしまっては、学校側がどちらの味方をするかは火を見るより明らかだ。
「・・・・・・・・・むぅ」
待ったをかけたキヨに、ヒラはむくれながらも席に座り直した。
大人しいやつだと思ったが、ヒラはああ見えて狂犬らしい。
しっかりと手網を握っておかないと、どこに噛み付くかわからないのだ。
「オレよりガッチさんの子供みてぇ」
ふとそんな呟きを洩らした。
穏やかな態度といい、突然豹変する恐ろしさといい、キヨの育て親によく似ている。
本日何度目かになりつつあるため息を飲み込んで、キヨは窓越しに空を見上げた。
授業を適当に受けたり寝たりしながら午前を過ごしていると、いつの間にか昼休みになっていた。
「行くぞ」
キヨはそそくさとスクールバッグの中からガッチマン特製の弁当を取り出して、ヒラを従えた。
「はーい」
ヒラも同じように鞄から某コンビニの袋を取り出して、ちょこちょことキヨの後ろに着いてくる。
お馴染みの理科室に着くとまだこーすけとフジは来ていないのか、やけに静かだった。
確か彼らの木曜日の四限目は体育なので、合同クラスの二人はいつも遅れてくる。
この教室から反対側にあるグラウンドのウンザリするような道を考えて、可哀想に思えてきた。
今はまだ涼しいからいいものの、これから夏になってくるとここまで来るのも一苦労だろう。
だからといってこの居心地のよい理科室を移動することはないが。
「へぇ、ここがキヨのシマかぁ」
「いや、範囲狭っ!」
早くも旧知の仲のような下らない会話をしつつ、弁当を広げる。
キヨの中に、まだ来ないこーすけやフジを待つという殊勝さはない。
(おっと、その前に・・・・・・・・・)
弁当に手をつける前に金魚に餌をあげる。
久しぶりに小さな鉢も水を入れ替えてやろうと色々考えながら、窓辺に置かれた金魚鉢に寄った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
が、小さな住処に優雅な金魚の姿はとこにも無かった。
シンプルな鉢には水草や身を隠す岩はない。
だからこの小さな鉢の中で金魚が見当たらないというのは、異常なことなのだ。
キヨは嫌な予感を覚えながら、鉢に近づいてみた。
ぽたぽたと点在する水を辿れば、手や実験器具を洗う水道がある。
無意識に息を止めたまま覗いてみると、シンクの上で無惨にも腹を裂かれた金魚の遺骸が転がっていた。
人間と似た赤い血が川のように排水溝へ無駄に流れている。
キヨは目を見開いたまま、金魚の遺骸を手のひらに乗せた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
この子達は短い間だったが、大切に育ててきた友達だった。
狭い世界を懸命に生きようと泳ぐ姿が、脳裏に張り付いて忘れられない。
「キヨ?」
半ば存在を忘れていたヒラが、やけに静かなキヨに声をかける。
しかし今はヒラに明るく返事できるほどの余裕は無かった。
誰の仕業かは、言わなくても分かっている。
やけに今日は静かだと思ったのだ。
それなのに授業中にニヤニヤと伺うような視線が気に触っていた。
「キ、ヨ・・・・・・・・・?」
穏やかな態度のヒラが、緊張した声を上げたことにも気づかなかった。
ただキヨは、少しだけ表皮の乾いた金魚を大事そうに手のひらで包む。
「なんだっけ?ヤクザ流に、お灸を据える?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
自分でも、どんな顔をしているか分からない。
こんな激情は、生まれて初めてなのだ。
キヨは鉢に新しい水を張って、ゆっくりと金魚を入れる。
いつものように優美なヒレを翻して泳ぐことは、もうない。
「ど、こいくの?」
このまま理科室を出ていこうとするキヨに、ヒラが問いかける。
「埋めてやるんだよ」
人間と同じように土に還るかは分からないが、この無惨な姿のままにしておくわけにもいかない。
「・・・・・・・・・そう」
ヒラはこれ以上何も言わずに、キヨの後を追うことは無かった。
騒がしい校舎の中で、キヨの周りだけが死んだように静かだ。
「キヨ?」
「どうし・・・・・・・・・」
向かってくるこーすけとフジそのまま無視して、通り過ぎる。
キヨの異様な雰囲気に圧倒された二人は、追及することもできずに呆然と立ち尽くした。
キヨは誰もいない特別棟横の花壇へ向かいながら、制服のポケットからスマホを取り出す。
電話帳の上位にある番号にかけると、相手はワンコールの間に出た。
『もしもしぃ?お前から掛けてくるなんて、珍し・・・・・・・・・』
「うっしー」
言葉を遮って、キヨは牛沢の名前を呼ぶ。
たった一声だけで何かを悟った牛沢は、いつものふざけるような態度を潜めて『はい』と慇懃に応えた。
「組長オレの権限って、どんくらいあんの?」
『俺たちは関東を掌握する組のトップなんだ。組長お前が望むんなら、何でも手に入るし、何でもできる』
「そう」
キヨの指示を待つように、牛沢は静かになる。
「なら・・・・・・・・・」
男は、いつでも自由だった。
幼い頃から力が強かったため、少し暴れてしまえば周りは面白いほど従順になったからだ。
気に食わないことがあれば、暴力で解決してしまえばいい。
そう考え至るまでに、時間はあまり掛からなかった。
だから呼吸をするように自然と、力を奮っていたのだ。
それが初めて思い通りに行かなくなったのは、高校生になってから。
いつものように適当な標的を見つけて虐めていると、ある男が乱入してきたのだ。
入学当初から髪を赤く染めて素行の悪いアイツは、初めから気に食わなかった。
アイツは虐めていた奴の間に入ると、仕返しと言わんばかりに男を殴りつけたのだ。
初めて感じる頬の痛みに、男は我を忘れて暴れた。
が、アイツはのらりくらりと躱しては確実に男の鳩尾に拳を入れてくる。
気づいた時には自分の方が空を向いていた。
起き上がれば、アイツと虐めていた奴の姿はない。
男にとって、人生で初めての「負けた瞬間」だった。
それから男はあの日乱入してきた赤髪の男に、復讐することを誓う。
奇しくも同じクラスだったらしいアイツに標的を移して、ひたすら嫌がらせを続けた。
上履きの中に画鋲を入れたり、教科書を切ったり、机に虫の死骸を置いたり。
だがその全てを、アイツはなんて事ないような顔で無視した。
まるで男のことなど、眼中に無いとでもいうように。
それが酷く、気に入らなかったのだ。
だから、アイツの大切にしている金魚を殺してやった。
ぬめる表面に嫌悪感を抱きながら、嬉々としてその肥えた腹にアイスピックを突き刺す。
小さい尾ひれと頭をそれこそ死に物狂いでバタつかせながら抗う様が、気持ち悪く滑稽であった。
この汚い金魚の死骸を見てアイツがどんな顔をするか見てみたかったが、グッと我慢する。
たかが金魚ごときの死骸に、絶望も怒りもクソもないだろう。
これはただの鬱憤晴らしだ。
生き物を殺したからか、少しだけスッキリした気分になる。
もうすぐ午後の授業が始まるというのに、アイツの姿が無いことも男の機嫌の良さに拍車をかけた。
どうやら思った以上に金魚の死骸は効いたようだ。
久々に感じる優越感に、男は上機嫌で授業を受けた。
放課後になると、読んだかのようなタイミングで電話が掛かってくる。
その登録された名前は、自分が籍を置いている組のものだ。
東京の中でもそこそこ大きな組で、薬をノルマに達するまで売ると給料の羽振りもいい。
組にいるというだけで周りも男に一目置いたので、将来はこのままこの組の長にまで上り詰めるという夢すら抱いていた。
その目指すべき組長から電話が掛かってきたので、すぐさま出る。
「は、はい!!」
『・・・・・・・・御所から招集が掛かった。今すぐ事務所に来い』
「・・・・・・・・・へ?わ、分かりました!」
要件だけを伝えてすぐに切れた電話を前に、男は呆然とする。
ここでいう「御所」とは、男のいる組を束ねる「青藍会」の本拠地のことだ。
青藍会は日本の極道のトップと言っても過言ではない。
関東の組の殆どは青藍会に入っているのだ。
男のいる組は二次、三次もいいところの下っ端であるのに、青藍会から直接の面会があるということは。
(ついに、昇進か?)
功績が認められたため何らかの報酬、もしくは幹部として目を掛けてくれるということだろう。
いち下っ端である男も同行させるということは、自分も昇進するチャンスがあるということだ。
いきなり巡ってきた機会を、逃すわけにはいかない。
今日はやけにツイている日だ。
ムカつくアイツに復讐できたし、めでたく御所にお目通りも叶う。
いっそスキップすらしてしまいそうになりながら事務所に行く。
ソワソワしている先輩組員に混ざって、男も真新しいスーツに身を包む。
なぜこんなガキが青藍会に行けるのかと胡乱な目で見られたが、そんな視線も気にならなかった。
幹部や組長の準備も整い、車に乗り込む。
青藍会まで同行するのは、組長と若頭、そして男だ。
「突然どうしたんですかね」
運転する若頭が、信号待ちの間に組長に聞く。
だが組長も理由を知らなかったのか、曖昧な答えしか返ってこなかった。
「さてな。どうも最近「会長」が変わったらしいから、挨拶じゃねーか?」
「え!?会長変わったんですか?」
初めて聞く話に、思わず男は話に割り込んだ。
いつもならこんな下っ端が組長に話しかけるなと怒られるところだが、御所に向かうと緊張しているためか誰も咎めなかった。
「どうも新しい会長はお前と同じ年のガキだそうだ」
「親父、口が過ぎますぜ」
「なに、誰も聞いとらんからいいだろう」
仮にも上の人間に向かって言う言葉ではないが、男はそれすら気にならないほど「同じ年の会長」とやらが気になった。
同年代の誰よりも強いはずの自分が未だにこんな底辺にいるというのに、ソイツは雲の上の存在のような「会長」になったのか。
どこの誰かは全く知らないが、それが男のプライドを刺激した。
極道の世界においては赤子とも言えるような年齢で会長になるなど、どのような手を使ったのだろうか。
男は敵愾心がむくむくと湧き上がってくるのを感じた。
それと同時にこれはチャンスでもあると勘づく。
男と同年代ということは、それだけ新しい会長にお近づきになれるかもしれないのだ。
お気に入りになれば、自分も青藍会の一員になれるかもしれない。
「乳臭ぇガキで逆によかった。これでシノギも会長の目に怯えながらせずに済む」
青藍会では薬を未成年に売ることは固く禁じていた。
だが男のいる組は比較的若者が集まりやすいシマのため、どうしてもターゲットは若くなりがちだ。
「ちょっとした手違い」ということで未成年に薬を売ることがあるかもしれない。
一応青藍会の下にいる以上規律は守らなければいけないため大っぴらには出来なかったが、今度の会長なら多少おイタをしても大丈夫だろうと上は考えているのだ。
「前会長も堕ちたな。あのまま自分が頭はってりゃあ、天下統一も夢じゃなかろうに」
天下統一、とは些か大仰に聞こえるが、裏社会を制することができたという意味だろう。
噂では知っていたが、それほど青藍会は凄い組織なのだ。
「にしても、あん人が会長を辞めてくれて本当によかったっすねぇ。噂じゃあ、跡継ぎはつい最近までカタギだったガキって話じゃないですか」
「そりゃあ僥倖だが・・・・・・・・・大方、前会長が摂政でもするんだろう」
「・・・・・・・・・それは厄介っすね。隠居しても摂政になってもあん人の影響力はデカい、か」
「そんなヤバい人なんすか?」
やけに前会長の事を恐れている組長と幹部に、男は首を傾げる。
青藍会には下手に関わるなと耳にタコができるほど聞かされたが、その所以を男はまだ知らなかった。
「ああ・・・・・・・・・あの事件はお前がまだ四足歩行だった時だからな。知らないのも無理はねぇ」
運転している幹部が、嘲るような調子で囃し立てる。
「前会長───────ガッチマンが会長に就任した時に、反対勢力をその場で全員斬り殺したんだよ」
「え」
このご時世、昭和の極道映画でも見ないような事をした人が存在したのかと、男の顔は否応なく引き攣る。
「それから組織内の粛清やら改革やらで自分の都合のいい人間ばかり置いて、邪魔者は全て消された」
その粛清は会長自らの手で行われたようで、被害者は一様に鋭い刃物で体を切断されていたらしい。
そんな恐ろしい話を聞かされて、男は冷房がかかっているにも関わらず冷や汗を流した。
そんな人の跡継ぎがなぜ自分たちのような小さな組を指名したのか余計に分からなくて、男は胸騒ぎがする。
車内はいつになくどんよりと重苦しく、気まずい雰囲気の中走り続けた。
幾度目かの角を曲がると、他の住宅から離れるようにして建つ高い塀の家についた。
瓦と漆喰の塀は、ちょっとやそっとでは中を覗けないほど高く設計されている。
門までやってくると、堅牢そうな鉄の扉が重々しく開いた。
観音開きになっている門を車のまま通れば、すぐ近くにいくつかの車が止めてある空間がある。
そこに車を止めろということか。
屋敷まではまだまだありそうだ。
大きな極道の敷地にある不釣り合いな軽自動車をちらりと横目で見ながら、緊張気味に進む。
庭の素晴らしさや天気の良さに感心する余裕はない。
それぞれが硬い表情のまま歩いていると、突然前を歩いていた組長が小さく悲鳴を洩らした。
なんだと身構えながら前方を見てみると、やたらと長い縁側で庭の見事な池と灯篭を見ている男がいる。
鮮やかな青色の着物を嫌味なく着こなし、落ち着いた様子で茶を啜っていた。
「が、ガッチマン前会長・・・・・・・・・」
組長と幹部が深く頭を下げたのを見て、男も慌てて倣った。
視線を限界まで上にあげて男───────前会長を見てみる。
そこにいるのは、何の特徴もない普通の男だ。
想像していたよりもずっと細身で、たおやかな表情をしている。
「やぁ」
低頭平身な自分たちを見下ろすようにして、やけにラフな挨拶が返ってきた。
「な、なぜ貴方がここに・・・・・・・・・」
元とはいえ会長が無防備に縁側で寛いでいるとは誰が考えるだろうか。
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「ここは俺の家だよ?どこに居ようと俺の勝手でしょ。違う?」
「いいえ・・・・・・・・・!違いません!」
語りも表情も穏やかなのに、組長は酷く緊張した面持ちでまた頭を下げた。
いつもは事務所でふんぞり返っている人が、ここまでへりくだる様は初めて見る。
「そう緊張しないで。ほら、皆待たせるんでしょ?早く行かないの?」
「は、はい!」
終始優しい声の前会長は、よっこらせと立ち上がると付いてこいとでも言うように先を歩いた。
その後ろ姿はあまりにも無防備だ。
「ああ、そうだ」
何かを思い出したのか、前会長が振り返る。
「俺のこと、あんまり「前会長」って呼ぶなよ。その呼び方嫌いっつってんでしょ」
途端にその場が凍るような殺気がのしかかってきた。
笑顔だが、それが一層恐ろしく見える。
普通の人にしか見えないという第一印象は、男の勘違いだと気づいた。
能ある鷹は爪を隠すと言うように、この人はただ表に出さなかっただけなのだ。
その抜き身の刀のような鋭い殺気を。
「申し訳、ございません・・・・・・・・・」
組長はそれだけ言うのもやっとなのか、やけに口の滑りが悪い。
「自分の行動や発言に責任を持てない奴は、どうなっちゃうんだろうね」
前会長は歌でもうたうような調子でそう呟きながら、軽い足取りで屋敷を歩く。
組長らは生きた心地がしないのか、車の時よりも沈黙が重たい。
屋敷の大きな庭に心の中で文句を言っているうちに、椿の絵が描かれた襖の前についた。
どうやらここが噂の椿の間らしい。
緊張気味に唾を飲み込む男達と違って、前会長はリラックスしている。
「お待たせ〜」
前会長が一歩足を踏み出すと、読んでいたかのようなタイミングで襖が両側に開く。
(おぉ・・・・・・・・・)
大きな畳の広間には、黒い服を着た男達が等間隔に座っている。
前会長が開けた真ん中の道を通るだけで男達は敬うように頭を下げた。
この人は紛うことなき頂点に立つ男なのだ。
尊敬や畏怖の眼差しを一斉に受けても堂々と歩くその姿は、まさしく男が目指す姿だった。
前会長に続き男達も続いて中央を歩く。
ご丁寧にお立ち台の前に男達人数分の座布団があったので、そこに座れということだろう。
前会長はお立ち台の上にいくと、少し奥の方へ座った。
あくまで主役は新しい会長、というわけだ。
新しい会長を待っている間、いくつもの視線が背中に刺さるおかげで居心地が非常に悪い。
男は見たことも無い新しい会長に、早く来いよと文句を言う。
もちろん心のうちで、だ。
「失礼します」
体感で何十時間も経った気がしかけた時、ようやく会長が現れるようだ。
先に若頭のような雰囲気のある二人の男が入ってきて、お立ち台と男の組の前で座る。
そしてその後ろから、ようやく会長が現れた。
男は他の皆に倣って、深々と頭を下げる。
ここにはどのような用で呼ばれたかは皆目見当もつかないが、わざわざ自分の席まで用意されているのだ。
悪い話な訳がないだろう。
現会長と同じ歳という珍しさから、お側で補佐しろと言われるかもしれない。
そうすれば男は夢見た出世コースの波に乗れるのだ。
一人呑気な早とちりで口元を歪めつつ、ようやく頭を上げる許可が出た。
「なっ・・・・・・・・・!?」
顔を上げた男は、そこにいた予想外の人物に驚いて座ったまま後退ってしまった。
「よぉ」
新しく青藍会の会長となったのは男がこの世で最も憎み、見下していた同じクラスのキヨだった。
「な、なんで、お前が・・・・・・・・・」
こんな所にいるんだ、という言葉は続かなかった。
男の前に座っていた牛沢が、男の頭を勢いよく畳に押し付けたからだ。
「下っ端が「組長」に向かって「お前」だと?」
「ひっ・・・・・・・・・」
ぎりぎりと指で頭を圧迫させられて、男は痛みのあまり短い悲鳴が洩れた。
「も、申し訳ございません!!」
「あ?」
何度も謝罪するが、牛沢の制裁はまだ終わらない。
「それくらいでいい」
救世主のような鶴の一声で、責め苦の痛みから解放された。
だが男は一向に畳から顔をあげられない。
気づいてしまったのだ。
今までキヨにしてしまった数々の所業が、どういう結末をもたらすのかを。
「オレがお前らをここに呼んだのは、他でもない」
(やめてくれ・・・・・・・・・!)
「こいつとこいつの所属する組を、解散させるためだ」
「な!?」
「ど、どういうことですか!?!?」
男が最も恐れていた事態になってしまった。
男が取るに足らないと思っていた奴が、実は男よりも遥かに偉い人だったなど、笑えない冗談にもほどがある。
男はただの憂さ晴らしで、ただの八つ当たりで、やっと上り詰めてきたヤクザとしての地位を失うのだ。
先程の前会長が言っていた「自分の行動や発言に責任を持てない奴は、どうなっちゃうんだろうね」という言葉が恐ろしくのしかかってくる。
自分一人が追放されるならまだしも、キヨは───────否、会長は男の組ごと消すつもりなのだ。
「まっ、待ってください!!一体どういうことか説明を・・・・・・・・・」
「禁止区域での売春、上納金の横領、うちのシマで未成年へドラッグの売買。他にもまだあるけど、それでもまだ分かんねーの?」
直接キヨに手を下してしまった男のみならず、この組は色々とタブーなことに足を突っ込んでいたらしい。
それでも今まで目を逃れてきたのに、男が決定打を与えてしまったのだ。
「それから───────」
キヨの目が、じろりと男の方に向いた。
光の加減で一瞬見えた赤い目が、地獄の鬼のように思えて男はたじろぐ。
「お前はこの世界から永遠に追放する。二度とその面と名前でオレの前に姿見せんなよ」
「・・・・・・・・・え」
それはつまり、男は青藍会のシマに入ることさえ許さないということだ。
青藍会は今や日本全国に根を張ってる。
そんな中でこの裏社会からも追放するということは、日本のどこにも男の居場所はない。
「そ、そんな!待ってください!!」
呆然とする男の横で、組長が最後まで抗っている。
組を解散させるということは、これまで組長が築いてきたこの地位は一瞬にして砂と化したのだ。
「い、今ここで、こいつの小指を切り落としてみせます!それで手を打ちませんか!?」
組長は全ての責任を男に押し付けて、指を詰めることで許しを得ようとしているのだ。
基本的にこのご時世で指を詰めることはほとんど無く、これ程のことをするならば相手は必ず許さなければならない。
「はっ!自分の責任を全部下に押し付けて、何が「手を打ちませんか」だ。ナメてんのか」
「許して欲しいならそこで切腹したら?血を一滴でも畳に垂らしたら、その頭はおれがもぎ取ってやるけど」
牛沢とレトルトが、軽蔑するように組長を見た。
余計に彼らを怒らせてしまったと知って、組長は顔色を真っ青にする。
「命があるだけマシだと思いな?俺の時だったら、その場で首飛ばしてたよ」
ずっと黙って事の成り行きを楽しそうに見守っていた前会長、ガッチマンが諭すように言う。
だが男がはいそうですかと納得する訳がなかった。
この裏社会に居られないから、自分は死んだようなものだ。
命が助かっただけマシと思え?
なら男は今死んだも同然だ。
死んだように生きるのなら、何も怖いことなどない。
「調子に、乗るなよ!!!」
男は懐に隠し持っていたバタフライナイフを素早く取り出すと、お立ち台の上に向かう。
現会長のキヨ、前会長のガッチマンのどちらでもいいから、殺さないと気が済まなかった。
思えばキヨのせいで男の人生は台無しだ。
こいつがいるから、男の未来は狂った。
そして前会長の見下すような、軽蔑するような目がずっと気に食わない。
男だけ地獄に落ちるのなら、二人のどちらかも道連れにしてやる。
「うあああぁぁぁぁあ!」
男は雄叫びを上げながらナイフを振りかざそうとするが、その前に黒い影が男の前に割り込んできた。
レトルトだ。
レトルトはまさに突き刺そうとするナイフの刃を左手で鷲掴みにすると、力任せに男の手から引き抜く。
男が柄の部分を持ちレトルトが左手を潰す勢いで握ったにも関わらず、力負けしてしまった。
刃を素手で握ったせいで左手が激しく損傷しているが、レトルトの顔色は一つも変わらない。
その様はまるで怪物だ。
男は震えそうになる体を叱咤して、奪われたナイフを取り返そうとするが、レトルトの体に触れる直前で鋭い蹴りが男の脇腹に入る。
綺麗に内蔵へヒットした男は、堪らずその場で蹲った。
そしてその丸まった背中に、足が乗せられる。
「よっぽど死にてぇらしいな」
蹴ったのは、牛沢だ。
セーフティを解除した銃の口は、黒々とこちらを覗き込んでいる。
「うっしー、レトさん」
不気味なほど感情を伺わせないキヨが二人を下がらせて、代わりに男の前に出る。
そして蹲る男の両手を見ると、何かをポケットから取り出した。
アイスピックだ。
それをほぼノーモーションで振り下ろすと、男の小指に突き立てた。
「ぐ、あああぁぁぁぁぁ!」
アイスピックは見事に男の小指の付け根に刺さり、下の畳まで貫通させた。
「こっちは金魚の分」
次に男の反対の手に狙いをつけると、また避けられない速さでアイスピックを小指に刺した。
「こっちはレトさんの分ね」
小指を詰める代わりに、キヨは小指を刺した。
奇しくも、男が金魚を殺したアイスピックで。
「連れてけ」
痛みに悶える男にもう興味はないのか、キヨはもうこちらを見ることはなかった。
男と、呆然としている組長は他の組員によって連行される。
椿の間から半ば強制的に追い出されながら、男は己の人生を狂わせたキヨを睨む。
そしてその日、男のヤクザとしての肩書きは小指の傷とともに永遠に無くなった。
ようやく静けさを取り戻した椿の間で、キヨはまだ静かに男達が連れて行かれた方を見ている。
ガッチマンが丁度十数年前にここで会長───────いや、組長になった時は多く血が流れたこの椿の間も、時代は移ろってこれだけの血で済んだ。
幾度となく張り替えられた真新しい畳を今度は数枚変えるだけでよさそうだと、少し笑った。
「これで、良かったんかな」
小さくキヨが零したのを、ガッチマンは聞き逃さなかった。
いきなり組長になれと押し付けて、初めての仕事で人の恨みを買ってしまったと嘆いているのだろうか。
「いいんだよ。あいつらは青藍会に隠れて掟を何度も破ってた。お前が調べろって言うまで俺らは見逃してたままだったんだ」
先程いきなりキヨからの電話で男の組織を調べろとお願いされた時は「仕事を増やしやがって」と文句を言っていたがすっかりそんな事は忘れている。
流石は手のひらドリルと言われた牛沢だ。
「いや、そーじゃなくて・・・・・・・・・目の一つでも抉れば良かったかな。それとも金魚みたいに腹を刺すべきだった?」
そんなガッチマンや牛沢の心配をよそに、キヨはあの罰が軽かったのではないかと悩んでいたのだ。
つい最近まで一般人で、ヤクザの汚い世界など知らなかったはずの子供が、だ。
「ぷ、あっははは!」
ガッチマンは腹を抱えて笑った。
やはりこの子は間違いなくガッチマンの息子だ。
「かっこよかったぜ、キー坊!」
「いやぁ、流石はオジキの息子だ!」
組員もキヨの成長が嬉しいのか、手放しで喜んでいる。
これまでのように、これからもキヨには悲しい思いや辛い選択はして欲しくない。
だがガッチマンが思っている以上にキヨが正しく狂っていてよかった。
「ま、初仕事でこれだけできてりゃあ、及第点でしょ」
皆がキヨを褒め称える中で、レトルトだけはやけに辛口だ。
そういえばとレトルトを思い出したキヨが、慌てて血だらけの左手を握った。
「血、血ぃ!すんげー出てるんですけど!?大丈夫か?!」
学校指定のネクタイを迷わず止血に使ったキヨに、レトルトは大きく目を見開いた。
「おれ痛み感じない人だから、こんな傷何ともないよ?」
「でも、血は流れるんでしょーが!サイボーグでもねーんだから、もっと自分を大切にしろよ!」
「え、あ、おれ、弾除けなのに?」
ガッチマンに仕えていた時代から口を酸っぱくして言っていたのに、やはりレトルトは自分の危険を顧みずに飛び込むのだ。
「うっしー、病院」
「俺は病院じゃねー。こんな傷、一日寝てりゃあ治・・・・・・・・・」
「うっしー」
「はぁ、レトルト。来い」
「え、うん・・・・・・・・・」
現役時代にもっと酷い怪我を何度も負っているレトルトや牛沢からすると軽い怪我だが、キヨはそれを許さなかった。
上に立つものとしてもうその才能は疑いようのないものになったようだ。
もうガッチマンが居なくてもキヨは大丈夫。
ガッチマンは気配を消して、椿の間から抜け出した。
「・・・・・・・・・ヒラ」
「はい。ここに」
ガッチマンの背後から、音もなくヒラが現れる。
椿の間ではなく、ずっと外で待機していたのだ。
「キヨのこと、一日中護衛してみてどう思った?」
二人で庭を歩きながら、ガッチマンは話しかける。
大抵の組員は椿の間にいるので、広い敷地の見える範囲に人はいない。
「キヨは───────貴方に似ていると思いました」
「へえ」
「初めは・・・・・・・・・青藍会の組長には相応しくない人だと思ってました。自分が虐められても無関心だし」
「でも違った」とヒラはすぐに否定する。
そう、ガッチマンが育てたあのキヨがそんな過小評価で終わるわけが無い。
「大切なものを傷つけられて初めて、キヨは怒りました。おれでもゾッとするくらい」
キヨとは違って、長いことヤクザとして働いているヒラがそこまで言うとは。
息子の成長にガッチマンは口元を隠しながら笑みを浮かべた。
「そしてキヨは、組長としては完璧な判断で事を終わらせました。あの人は、組長に相応しい人です」
「そっか」
元からキヨに甘い組員ではなく、物事を公平に見れるヒラがそう言うのならば間違いはない。
何も知らないキヨにいきなり組長を譲った事に罪悪感を覚えていたが、少しだけ気が楽になった気がする。
「まあ、ちょっと罰が甘い気はしますが」
散々キヨを虐めたのに追放されるだけでは甘いと思ったのだろう。
ヒラは不満げに口を尖らせた。
「そうかな?俺が思うに、あれは被害が金魚だったからだと思うよ」
「・・・・・・・・・というと?」
「もしキヨの大切な友達がああなってたら、いじめっ子はもうこの世にいなかったかもね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
キヨはガッチマンが心配になるほど自分のことについて無頓着ではあるが、大切なものを壊されて黙っているほど弱い子供ではない。
何としてでも相手を地獄に落とし、絶対に許すことなどしないだろう。
そういう所はガッチマンに似ていると自分でも思うのだが、いかんせんまだキヨはそれだけの力が伴っていない。
無理な報復は、自分や周りの被害が大きくなるだけである。
キヨにはまだまだ力が必要なのだ。
「ヒラ。お願いがあるんだけど」
「はい」
ガッチマンは足を止めてヒラと向かい合う。
その表情はいつになく真剣で、自然とヒラの背筋が伸びた。
「キヨに何かあった時、必ずあの子を守ってあげて」
「そのつもり、ですけど・・・・・・・・・」
新しい組長の護衛が決まった時点で命はとうに捧げている、とでも言うようにヒラは首を傾げる。
「もちろん、ヒラ自身も無理は禁物だからね」
ヒラは、もう一人の息子のようなものだ。
自分の命は軽々しく掛けて欲しくはない。
伝わっていないようなのでそう付け加えると、ヒラは嬉しそうに口元を緩ませた。
「よろしく頼んだよ。うっしーとレトさんが居るとはいえ、まだ不安だから」
「牛沢さんとレトルトさんの方が、おれよりも頼りになるんじゃないんですか?」
自分の腹心である牛沢とレトルトを信じていないガッチマンに、ヒラはきょとんとする。
「そうだけど・・・・・・・・・でもあの二人はキヨじゃなくて俺に忠誠を誓ってる」
牛沢は幼い時からずっと。
レトルトはガッチマンが拾ってやった時から。
過ごす時間や恩で、きっと二人はガッチマンに並々ならぬ思いを抱いている。
「もし俺とキヨのどっちか一人を選ばないとどっちかが死ぬってなった時、あの二人は誰を選ぶと思う?」
「それは・・・・・・・・・」
ヒラも、二人がどちらを取るのか薄々勘づいてしまったのだろう。
「もちろん俺はキヨのことは命に替えても守るつもりだけど、あの二人は違う」
だから一人でも多くキヨの味方が欲しいのだ。
そう言外に伝えると、ヒラは察したのか静かに頷いた。
「おれが、キヨを守ります」
「お願いね」
ヒラが即答して安心したのか、また顔に穏やかな笑みが戻ってきた。
夏に移ろいかけている高い空を見上げて、ガッチマンは目を閉じる。
これでもう、何も心配すること無くこの世界をキヨに任せられる、と。
つい最近まで普通だと思っていた人間が、いきなり育ての親からヤクザのトップに指名された。
どこのマンガだよ、と思うかも知れない。
残念ながらキヨにとっては現実の事だ。
ここ三日は人生で一番波乱万丈だったんじゃないかと思うほど濃密な体験をしたのに、キヨは一向に寝付けなかった。
組長としてやっていけるかという不安で、ではない。
育ての親であり元組長だったガッチマンが、なぜ今になって組長をキヨに譲ったのか分からないからだ。
本人は至って健康だし、耄碌している訳でもないだろう。
多分。
どんなに悩んでも、答えは分からない。
そんなモヤモヤを抱えたままで組長などやっていける気もしないので、思い切ってキヨは聞いてみることにした。
眠気まなこを冷水で醒まして、制服のネクタイをきちんと結んで、髪をセットするという名で戦闘態勢を整えて。
「ガッチさん!!おはよう!」
いざ参る!と意気込んでガッチマンが朝食を作っているであろうキッチンの襖を勢いよく開けた。
「はい、おはよー」
「おはよーさん」
「おはー」
そこには、ガッチマンだけではなく何故か牛沢とレトルトまでいた。
二人はいつも見かけるようなキッチリとしたスーツではなく、シャツとスラックスだけのシンプルな装いだ。
だがその胸元や上げた袖からちらりと見える鮮やかな墨が、朝から眩しいったらありゃしない。
「なんでレトさん達もいんの?」
「ガッチさんがちゃーんと育児してんのか見に来ただけ」
とレトルト。
「俺は単純にガッチさんのご飯食いてーだけ」
と牛沢。
二人が居たのは予想外だが、キヨの計画に変わりはない。
「そんな事より、ガッチさん!」
「こいつ、自分から聞いてきたくせに「そんな事より」だとよ」
「キヨくん、そーゆーとこあるよね」
こそこそと喋る二人を無視して、味噌汁を作っているガッチマンに詰め寄った。
「聞きたいことがあるんだけど!」
「うん?今ぁ?」
明らかに面倒くさいと顔に書かれているが、キヨの覚悟が揺るがない内に聞く方が良いだろう。
「今!ねぇ、なんでガッチさんは組長を降りたの?」
決定的な言葉を言うとこそこそ騒いでいた牛沢とレトルトが静かになり、ガッチマンもお玉を止めた。
「いやぁ、まだ言うべき時ではないかなーって・・・・・・・・・」
「そういやぁ、俺もレトルトも気になってたんだよな〜」
「いっきなり「組長辞めるわ」って言われて、こっちも大変だったしね。それなりの理由があるんでしょ?」
牛沢とレトルトも追い打ちで畳み掛ければ、ガッチマンは「ううっ」と小さく呻いた。
「三対一だね」
ガッチマンが押しに弱いことはキヨが一番知っている。
「お、教えればいいんでしょ!教えれば!!」
案の定ガッチマンは簡単に折れた。
内心ガッツポーズをして牛沢、レトルトに拍手を送る。
拍手は「良く出来ましたで賞」だ。
「ただし!理由を聞いても怒らないでね!」
「怒られる理由なの?」
「そんじゃ今怒っていい?」
「ものによるわな」
レトルトが確信をつき、牛沢がふざけ、キヨが至って真面目に返事する。
ガッチマンが「なら言わない!」と臍を曲げ始めたので、キヨ達は渋々ながら怒らないと約束した。
「ここじゃ説明しづらいから、ついてきて」
とガッチマンは火を止めて、なにやら移動し始めた。
なんだ?とキヨ達は目を見合わせながら、ガッチマンについて行く。
やがて止まったのは、ガッチマンの部屋だった。
屋敷の一番奥にある、キヨでも入ったことの無い部屋だ。
「絶対、ぜーったい怒んないでよ!!」
念を押してくるガッチマンに、三人は固唾を飲んだ。
ここまでガッチマンが言うのなら、余程のことなのだろう。
何が出てきても大丈夫なように、三人はそれぞれ身構えた。
「これが理由なんだ!!」
そう言いながらガッチマンが襖を勢いよく開けた。
そこにあったのは。
「え、ああ・・・・・・・・・え?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あっ、そういう・・・・・・・・・」
七畳ほどの部屋に、美少女の写真やグッズが所狭しと並んでいた。
笑顔だったり首を傾げていたり、とにかく表情やポーズが若干違う似たような写真で部屋が埋め尽くされている。
三人は感嘆詞の他に言葉が出てこなくて、無言でガッチマンを見た。
「か、勘違いしないでよねっ!俺は決してそういう美少女系が好きな訳じゃないんだから!!」
「いや、そういうツンデレ要素今は一切要らないねん」
「これ以上の情報量は求めてねぇんだよ」
「ガッチさん・・・・・・・・・」
すっかり混乱しているレトルトと牛沢がおかしな言動に頭を痛め、キヨは悲しい目でガッチマンを見た。
「やめて!そんな生あたたかい目で俺を見ないで!!」
ガッチマンは恥ずかしがるように顔を両手で隠すが、安心して欲しい。
全く何も分かっていないため、この視線はわりと温かくはないと。
「ガッチさん。ちゃんと順を追って説明してくんね?」
頭を押さえながら聞く牛沢に、ナイスと親指を立てる。
言動が明後日に飛びやすいガッチマンが暴走したせいで、こちらは本当の本当になにも分かっていなかった。
ガッチマンはまだ顔を赤くしながら、やけに小さい声で話し始める。
「さ、最近、こちらのVTuberなるものにハマってしまいまして・・・・・・・・・。推しを応援したいのに組長だと忙しいし、その・・・・・・・・・体裁とかあるからさぁ」
要約すると、ガッチマンはこちらの「推し」を推すために組長だと色々と不便だと思ったようだ。
確かに推しのライブはリアタイできないし、イベントもヤクザという身では堂々と行けない。
そして存分に「推し活」をするために組長を辞めたそうだ。
「それに・・・・・・・・・トラちん───────あ、推しの事ね。トラちんは一般人だから、俺みたいなヤクザはやっぱり怖いかなーって」
「ちょっと待てぇ!」
話がまた変な方向へ向きかけて、レトルトがストップをかけた。
「えっと・・・・・・・・・ガッチさんは、そのトラちん?って人とつ、つ、付き合いたいの???」
「リアコ?ガチ恋勢ってことか!?」
どこでそんな知識を得たのか、牛沢はオタク用語にやけに詳しい。
「推しと付き合いたいのとか何言ってんの?推しは推しだし俺なんかが本気で相手されると思ってんの?解釈違いだわー。そもそも推しは神聖なものだから俺なんかが───────」
「ガチじゃん」
いきなり早口で長文を語り出すガッチマンに、レトルトは怯えている。
この部屋に入る前やけに「怒るな」と保険を掛けた理由が分かった。
ガッチマンはキヨや牛沢、レトルトが「推しそんな事のために組長を辞めたのか!」と怒ると思ったのだろう。
だが。
「ふ、あっはははは!!」
キヨはあれほど思い悩んだのが馬鹿馬鹿しくなって、腹を抱えて笑ってしまった。
これは怒るどころか、安心さえしている。
キヨは自分のせいでガッチマンの人生を奪ってしまったのだと思っていたが、彼はそうではなかったのだ。
キヨが悩むよりずっとずっとガッチマンは自由に人生を謳歌しているし、遅咲きながらも青春を楽しもうとしている。
これを応援しなくて、何をするのか。
「なーんだ、心配して損したぜ。もっとヤバい理由があると思ってたからさ!」
兎にも角にもガッチマンが自分の人生を楽しんでいるのなら、キヨが何も言う事はない。
「ま、本人がそう言うなら俺らも何も言わねーよ」
牛沢は呑気な親子に呆れている。
「さて、万事解決した事だし、朝ごはん食べよ?」
お腹の鳴ったレトルトが、早々にキッチンへ戻った。
三人から特にお咎めもなかったガッチマンは、安心したようにほっと胸を撫で下ろしている。
キヨも甘やかされて育った自覚はあるが、ガッチマンも実は周りに甘やかされているのだろう。
「じゃ、朝ごはんといきますか!」
温め直した朝食がローテーブルに沢山並べられる。
湯気の出る美味しそうな朝食を頬張りながら、他愛もない話をした。
キヨには両親がいないし顔も名前も知らないが、血の繋がっていない彼らが両親よりも家族に思える。
初めは何故自分が組長なんかに、と思ったがそれも今は悪くない。
兄弟のような人や親戚のおじさんが沢山できたから。
その人達をガッチマンが守ってきたように、今度はキヨが守り抜くのだ。
「ごちそうさま!!」
いつも通りの美味しいご飯に感謝して、残りの準備を整える。
バタバタと忙しなく部屋を行き来していると、玄関の方から来訪を知らせるチャイムが響いた。
「フジ達かな」
予定が合えば一緒に登校しているフジとこーすけがやって来たのだろう。
「今行くー!」とキヨが鞄を抱きながら引き戸の扉を開けると、案の定フジとこーすけが立っていた。
「よっ!」
「おはよー!」
「おはー」
こーすけやフジだけではなく、二人の傍に何故かヒラも一緒にいた。
「え、なんでヒラも一緒にいんの?」
疑問に思ったことを聞けば、本人が説明してくれた。
「今そこで会ったの。二人がキヨの友達って言うから、おれも友達になった」
いえい!とピースマークを向けるヒラは、キヨが思う以上に社交性があったらしい。
「友達になるスピードえぐい早いじゃん」
いつかヒラはフジとこーすけに紹介しなくてはいけないと思っていたが、これで手間が省けた。
靴箱から靴を取り出して履いていると、ひょっこりと牛沢とレトルトが後ろから現れる。
「今から学校か?」
「うん」
「キヨくんって友達いたんだ」
「その一言は完全に余計」
牛沢とレトルトを適当にあしらっていると、フジとこーすけがこそこそとヒラに耳打ちしている。
「な、なぁ、あの人たち誰だろうな」
「ちょっと雰囲気怖いよね」
明らかにカタギには見えない二人の柄の悪さに気づいたこーすけとフジが、少しだけ怯えていた。
ヒラはなんて言おうか考えているのか、視線を右往左往に泳がしている。
(余計なこと言ったら蹴るぞ・・・・・・・・・)
というキヨが送った念に気づいたのか、ヒラは苦し紛れに「親戚のおじちゃんじゃないかな・・・・・・・・・」と説明した。
「誰がおじちゃ・・・・・・・・・んぐ!」
とりあえずレトルトの口を押さえて黙らせる。
「じゃあオレ達もう行くから!バイバイ!」
面倒な事を言わない内に行くのが吉だろう。
キヨがこーすけ、フジ、ヒラを押しつつ家から出ようとすると、牛沢が鍵をちゃらりと鳴らした。
「学校まで送ってやるよ。乗れ」
やけにドヤ顔で車を勧める牛沢を「結構です」とばっさり切る。
「牛沢さん、その車じゃ人数オーバーですよ」
至極冷静にヒラが助け舟を出す。
確かに牛沢の乗る軽自動車で五人乗りは道路交通法とかの違反になるだろう。
詳しく知らないが。
「法律とか今更だろ。なんてったって俺らはヤク・・・・・・・・・」
「うっしー?」
完全に余計なことを言いかけた牛沢の背後から、にょっきりとガッチマンが生えてきた。
少しだけ威圧するようなガッチマンの声に、牛沢は軽く肩を竦めて言葉を飲み込んだ。
「ここから学校は近いしキヨは歩くのが好きだから、送んなくても大丈夫だよ。そうでしょ?」
ヒラ以上に有効的な助け舟を出してくれたガッチマンに、親指を立てる。
流石はキヨの育て親だ。
「車と、あと不審者に気をつけてな?」
「分かりました」
レトルトがヒラに「キヨを守れよ」と目配せをし合ったのが分かった。
「あとうっしー。今日でうっしー運転手クビね」
「はぁ!?な、いきなり!?」
あの三半規管が全て持っていかれるような恐怖体験はもうこりごりだ。
調子に乗って車をこれ以上勧めてこないように、早めに手を打つことにした。
タイミングは些か微妙だが。
「ぷっぷー!クビだってさ」
「ちなみにレトさんもなんか事故りそうで怖いから、運転しないでね」
「えっ・・・・・・・・・!?」
まさか自分もクビにされるとは思わなかったのか、レトルトもぽかんとしている。
各自で運転するのは構わないが、キヨを乗せようとはしないでほしい。
キヨだって自分の身はかわいい。
部下の暴走車で他界しました、は本気で笑えない冗談だ。
「ほ、本当に親戚のおじちゃん?」
「ちょっと怪しいよな・・・・・・・・・」
またこそこそとしだしたフジとこーすけが目に入って、キヨは慌てて三人の背中を押して歩かせた。
「そ、そんじゃ行ってくるから!」
怪しまれる前にここを離れる方がいいだろう。
キヨはフジ、こーすけ、ヒラを押しつつ振り返った。
「行ってらっしゃい!」
「気をつけろよ!」
「またねー!」
ガッチマン、牛沢、レトルトが手を振っている。
まるで本物の家族みたいな光景に、キヨは胸がじんわりと暖かくなった。
「いってきます!」