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「ここに魔導書はあるか?」
シャリューレは身を潜めつつ、闇の奥に護女が潜んでいるかのように囁く。
「聖ヴィクフォレータの恩寵寺院にって意味ならある」と闇は答える。
「この塔、ジンガの書庫には無しか。分かった。魔導書を手に入れたい。協力してくれるか?」
「信頼してもらえたってこと?」
「信頼するためだ」
「そうだったね」と見えない護女は残念そうに呟く。「これ自体が罠だったらって考えないの?」
「どちらにしても危険度はそう変わらないだろう」
「そうかなあ。そうかも、たぶん」護女の生霊は腑に落ちない様子だ。「何か手伝えることはある?」
「魔導書の在り処を教えてくれればそれでいい」
「うん。それは良いんだけど。今のはここから逃げるお手伝いのつもりで言ったんだよ。見ての通り、じゃなくて聞いての通り、声を届けることはできるから何かの役に立てるかな、と」
「必要ない」
シャリューレは周囲を見渡して夜目がきいてきたことを確認すると、計七本の氷の短剣を手の内に形成する。そして足元も行く先も見えない螺旋階段を上り始めた。忍ぶこともなければ、わざとらしく足音を立てることもなく、まるでこの塔の主であるかのように暗闇の階段を上る。そしてある層に至ると氷の刃の一本を闇の向こうに投擲する。さらに階段を上って一本、次の層でもう一本。最上層にたどり着く頃には全ての刃が手の内から失われていた。
「さすがの強さだね」と謎の護女は言った。
「私を知っているのか?」
「もう知ってるも同然だよ」
シャリューレは地下室を脱する。ジンガの書庫の塔は騒ぎになっていた。とはいえ明確に事態を把握している者はまだいない。シャリューレもまた、混乱しながらもどこかへ急ぐ一介の尼僧を装い、ジンガの書庫を東へ、中央の円屋根へと続く通廊を行く。
「魔導書は総長の部屋だよ。急いで」と明るい場所でも姿を見せずに護女は言う。
「さっきの部屋がそうじゃないのか? あそこはメヴュラツィエの研究施設だったようだが。まあ、真っ当に引き継がれている様子ではなかったな。教敵ともなれば当然か」
「総長に叙任されるまでメヴュラツィエさんはジンガの書庫に所属していたからね。総長になってからも研究はあそこで行っていたけど、総長室自体は中枢院、あの円屋根の中心にあるよ。ちなみに今の総長はメヴュラツィエさんの一番弟子だった人なんだよ」
「とんでもないな」
「ねー」
中枢院はとても奇妙な造りだとシャリューレは思った。円屋根の下に広がっているべき広い空間はいくつもの壁によって仕切られ、さながら庭園迷路の様相を呈している。青空の代わりに天を覆うのはただの天井画ではない。
シャリューレは仰ぎ見て言う。「これは、地図か?」
「うん。グリシアン大陸の全図。北方の神秘の土地も少しだけ描かれてるね。あれは想像図だけど」
明かりはわずかだが天井の地図は輝いて見える。それはありとあらゆる宝石が絵の具の代わりに使われているためだ。
ただの地図には違いないが、その巨大な丸天井を覆い尽くさんばかりで、正確さにはかけるが古今東西の伝説、悲劇、英雄、怪物が、この世の全ての色を集めたかのような色彩で力強く生き生きと描かれている。シグニカを中心にしているために全体が西に偏っている。そのうえ西の大国ライゼンはまるで魔境のようだ。しかし総じて、描かれた大陸に落ちて行ってしまいそうな真に迫る実感があった。
天井地図を見上げたままシャリューレは言う。「総長室にはいま誰かいるか?」
「ううん。いないよ。でも中枢院全体に仕事熱心なハハバトリカ部隊の人たちが息を潜めてる。誰にも会わないように案内してあげるよ」
目に見えない護女の導くままにシャリューレは歩く。時折、天井地図を見上げ、光の移り変わりに嘆息を漏らす。
何度か罠を避ける必要があったが、全て問題なく対処し、総長室にある幾重もの防衛網でさえ、その護女は完全に把握していた。シャリューレは指示された手順に従って、詳しく知りもしない魔法に対処する。
間もなく無人の総長室に侵入した。部屋は今までに通ってきたどこよりも明るい。沢山の燭台に無数の蝋燭、数えきれない炎が揺らめき、昼間のような明るさで、古びた書物の詰め込まれたいくつかの書棚や重厚な造りの黒樫の執務机、沙漠の国の歌を描いた色彩豊かな絨毯、そして総長室の奥に置かれた、星のない夜を塗り込めたが如き黒い櫃を照らしている。まるで影のように輪郭が明瞭ながら、奥行きが判然としない真の黒だ。
「これに魔導書が封印されているのか?」櫃を見下ろしてシャリューレは言う。
「魔導書は封印できないよ。この櫃に入ってるだけ」どこを見ているのか分からない護女がそう言った。
「それで、開くことはできるのか?」
「できるよ。蓋を持ち上げればいい」
つまり魔術を仕掛けられてはいないらしい。シャリューレは吸いつくような感触の金属の蓋に指をかけて持ち上げようとするがびくともしない。
「閉じられているようだが? 鍵か?」
「ううん。閉じられていない。それは魔導書を除けば救済機構において秘中の秘の一つ、魔性の金属宇宙の礎石製の櫃。何より硬くて何より重い。そして何より暗い」
確かによくよく見ると毛足の長い絨毯が押し潰されて、床ごとめり込み、櫃の半分以上が沈んでいる。
「どうやって開ければいいんだ?」
「開き方、知らないんだね」そう言って、少しの間を開けた後、護女は囁く。「その前に一つお願いがあるんだけど」
シャリューレはため息をついて虚空を睨みつけ、腕を組む。
「何だ? 信頼の話か? これを開けられて、そこに魔導書があったなら否が応でも信頼できると思うが」
「ううん。その先の話、信頼されたならお願いしようと思っていたこと」
「言ってみろ」
「ここから逃げるための手助けをして欲しい」
シャリューレは振り返り、そこに謎の護女の居場所が示されているかのように天井地図を見上げる。「いまどこにいる?」
「総本山。聖焼き祓え大寺院」
まさにジンテラ市の中心であり、シグニカの中心でもあり、何より救済機構の信仰の中心だ。だがここ聖ヴィクフォレータの恩寵寺院からは距離がある。
シャリューレは呆れて笑みをこぼす。「今からそこへ行って、貴様を助けた後にまたここへ戻って、これを開けろと? ここまで来るのに苦労したんだがな」
「そうは見えなかったけど」
「まあ、いい」シャリューレはマーデルリンダーの櫃を名残惜しそうに見て言う。「本当は今日ここへ来る予定ではなかった。元々は聖ミシャ大寺院に侵入するつもりだったんだ。その計画も数週後の予定だが。予定通りに計画を実行し、その時に貴様を助けると約束しよう。その時は櫃の開け方を教えてくれ。それでいいか?」
「ううん。十分だよ。その櫃はしっかりと目を瞑れば軽くなるから試してみて」
言われた意味が呑み込めなくて、シャリューレは頭の中で咀嚼する。
「いったい何がしたかったんだ。信頼して欲しかったんじゃないのか?」
「ううん。信頼したかったんだよ」
シャリューレは護女の言う通りにしっかりと目を閉じる。すると瞼の裏に、足元のマーデルリンダーの櫃がある辺りから光が溢れた。シャリューレは先程とはうってかわって慎重に、櫃の蓋に指をかける。力を込めるとまるで羽のように浮きあがってひっくり返り、向こう側に倒れ込んだ。
「もう目を開けても良いんだな?」とシャリューレは確認する。
「体の上に、たとえば足の指先とかにマーデルリンダーが乗ってたら目を開いた途端に押し潰されるから気を付けてね」
シャリューレは念のために問題ないことを確認し、ゆっくりと目を開ける。瞼の裏の光は消え失せ、そこには蓋の開いた暗黒の櫃が横たわって、床を軋ませて新たな傷を作りつつある。
シャリューレは魔法の櫃の中に手を伸ばし、古今東西の名高き若武者や、誰にも知られぬ後ろ暗い者が、伝説の内に探し求める秘宝の中の秘宝、魔導書を手に入れた。