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盗賊たちから逃げ果せるユビスの上で、真珠を投げ捨てる蛮行に対するユカリの抗議を一通り聞いたあと、「大丈夫。君が求めている物までは投げ捨てていないよ」とヒューグは答えた。
ユカリは自分の腰に納められている貝の王からの授かり物、真珠の刀剣を盗み見て、その言葉が本当であることを確かめる。確かにリンガ・ミルは生命的に何かに反応するように毒々しい光を放っている。貝の王の最高傑作だけは投げ捨てなかったらしい。
ユカリは、ヒューグはともかくこの剣は信用していた。ユカリの代わりに凄腕の剣士と剣を交え、命を救ってくれた剣だ。貝の王はともかく、この剣は信用できる。
陽光と雲陰が交互に織り成すよろけ縞の草原を終日走り、浄火の礼拝堂、その遺跡にたどりつく。
幾度の戦と幾年の風雨を越えて礼拝堂の本来の形も色も大きく損なわれているが、なお古き神々を讃える様は美しく荘重で、かつて古と闇を恐れた人々が姿無き力有る者たちに頭を垂れていた時代と変わらない崇高さを備えている。計三十本の火の如き柱が円形に並んでいるが、支えられていたものはわずかに装飾帯の彫刻を一部残すのみで大部分が失われている。しかし光を浴びて影の差す霊妙な姿は力ある者に兆しを示し、賢しき者に印を伝える風格を今なお漂わせる。
今まで平原を走っていた時にユカリが見てきた遺構に比べれば綺麗に保存されていた。修復はされていないが、清掃はされているようだ。礼拝堂から見える地平線との中間辺りに街があるので、今ではその街で管理されているのだろう、と推測する。かつては街との間には参道があったのだろう。大きな柱の残骸が残されていた。
ここで何をするのか、それを知っても良いのかユカリは聞かされていなかったし、聞けなかったが、今となっては急かす気持ちの方が強い。心落ち着くべき生家に閉じ込められて出られないかのような不安を感じた。
ユビスを降りたアギノアとヒューグが礼拝堂の中へ入るのをユカリは見送った。が、好奇心に頭を打たれてユビスの濡れた背中を降りる。
「ついてくる?」とユカリは尋ねる。
「走っても良いのか?」とユビスに尋ねられる。
「中で? 駄目だよ。ユビスが走ったら簡単に壊れちゃう」
「では外で待とう」
礼拝堂は無事なものも、そうでないものも含めて六つの神像がある相殿だった。アギノアは中心に据えられた女神像の前で跪いて一心に祈っている。一方ヒューグは見物するように礼拝堂を巡り、神像を一つ一つ眺めているのでユカリもそれに倣うことにした。
中心の神像の台座には礼拝堂の聖火母の名が記されている。ユカリも神話での活躍をよく知っている。火と豊饒を司る、美しき者どもの長だ。闇に怯える人の姿を憐れみ、火の様々な側面を司る五柱の娘を人の野に遣わしたことから文明の母とも称される。
佇むパデラ像は六柱の中でも最も巨大で礼拝堂を囲む支柱とほぼ同じ高さだ。往時は天井近くでその微笑みを湛えていたのだろう。燃え盛る炎を掲げる堂々たる姿は躍動的かつ精緻で、髪の一本一本、その熱風に揺れる様まで彫刻されている。
ユカリは次にパデラを囲む娘たちを巡り、順に眺める。パデラに娘がいるということは知っていたが、名前までは知らなかった。
最初の一柱の名は戦火。パデラ同様に全身が保存された偶像で剣を掲げている。
次の一柱の名は台座の名を削られ、神像も失われている。
次の一柱の名は焚火。こちらは上半身が失われていた。優雅に椅子に腰かけていたことをうかがわせる。
アロカッソの失われた背の向こうには庭口があり、その先、東の方向に広がっているのは旧王国の歴史を紡いできた王族が眠る陵だった。かつて周りを取り囲んでいただろう石垣は崩れ、濃い緑の強かな蔦が勢力を伸ばさんと覆っている。そこに並ぶ奥津城もまた土と下草に覆われているが、それは元からそうであったかのように馴染んでいる。
次の一柱の名は火刑。名の恐ろしさと対照的に跪いて何かに訴えかけるように嘆く姿は啜り泣きまで聞こえてきそうだ。
そして最後の一柱の名もまた失われている。しかしその神像は他と比べずとも一目で全く欠けていないことが分かる。その両手を椀のようにして炎を捧げ持っている。その古びた石の炎はまるで本当に光り輝いているかのようでユカリは思わず目を細めた。
古の神秘を戴く女たちの間を一周して戻って来てもまだアギノアは跪いている。
「……まさかここへ戻って来れるなんて、思ってもみませんでした。貴女と祈りの文句を唱えた日々は今も私の胸の内を月の如く照らしています、貴女のこと、沢山見聞きしました。一体何があったのか想像もつきませんが、幸せに……」
アギノアはまるで親しい友か身内にでも語り掛けるように優しく話している。少なくとも目の前の女神への祈りでないことは確かだ。
ユカリはヒューグの元へ行って、控えめに囁く。
「用事ってどれくらいかかるんですか?」
「何を急ぐんだ? ユビスの速さならビンガの港町まで余裕を持って戻れるだろう?」
「でも盗賊たちがここへ来るかもしれませんし、待ち伏せている可能性もあります。余裕があるとは言えませんよ」
ヒューグはアギノアの跪く姿を見つめる。「ともかくまだだ。今しばらく待ってくれ」
その時、ユビスの不吉を知らせるような嘶きが聞こえ、ユカリは一人外へ駆けだす。夕闇の中、浄火の礼拝堂を救済機構の僧兵が何人も取り囲んでいた。さらにその外でユビスが遠目に見守っている。
僧兵は焚書官や加護官とも違う重ね毛皮を使った僧衣を身に纏っている。まるで獣の群れを思わせ、牙と爪の代わりに手に手に槍を構え、現れたユカリの方へ穂先を向けてとじわりじわりと近づいてくる。
「何の御用ですか!?」とユカリは声高に尋ねるが誰一人返事をする者はいない。「グリュエー。いるよね?」
「もちろんだよ。いつもユカリのそばにいるようにしてるよ」
つい先日、グリュエーがそばにいなかったために墜落死しかけたことをもう忘れたのだろうか。
「とにかく礼拝堂に近づけないようにして」とユカリが言うと、グリュエーは無言で応える。
吹き飛ばしはしないが、近づけない程度の強い風が礼拝堂の怒りを示すように僧兵たちに吹きつける。
「救済機構か。何が目的だ?」と青銅の足音を響かせて隣にやって来たヒューグが言った。
「分かりません」ユカリは合切袋から真珠飾りの銀冠を取り出してヒューグに渡し、アギノアの元へ送り返す。「とにかく時間稼ぎをしているので早く用事を済ませてください」
実際のところ、救済機構の目的など魔導書か魔法少女の討伐くらいしか思い当たらない。とはいえ、変身前の姿が一介の僧兵まで伝わっているか分からない。変身するかどうかは慎重に考える。
少なくとも今のところ、僧兵たちの中に呪文を唱えている者は見合たらない。何一つ上手くいかないが、風に吹き飛ばされては立ち上がり、ただただ文句ひとつ言わずに槍を構えて前進し続けるだけだ。まるでそれ自体が目的かのように。
その時、アギノアの短い悲鳴が聞こえる。
ユカリはこの場をグリュエーに任せ、再び浄火の礼拝堂へと戻る。
見覚えのある光景だ。青銅像を前にしてノンネットが両腕を上げ、祝詞を唱えている。その周囲を加護官が囲み、呪文を唱えている。二人の加護官が両脇からヒューグを抑え込んでいる。
青銅像の中にいるヒューグを、亡霊の居るべき場所へ送ろうというのだ。
ユカリは魔法少女の杖をつかんで掲げ、大量の空気をその儀式に向けて噴射する。吹き飛ばすには至らなかったが、加護官たちが体勢を崩し、何らかの魔術が失敗に終わったらしく、ヒューグが自由を取り戻して僧侶の囲いから脱出する。
「邪魔しないでください、エイカさん!」とノンネットが叱りつけるように言う。「カウレンの城邑が呪われていることはご存知でしょう!? この青銅像が失われたことを亡霊が嘆いているからなのですよ!?」
「噂くらいしか知らないよ。呪いって具体的にどういう呪いなの?」とユカリは杖を構えたまま尋ねる。
確かに盗賊たちが青銅像の祟りだの呪いだの言っていたが、本当のことだとは思わなかった。
「色々です。鼠が大量発生したり、ことごとくの鍋の底に穴が開いたり、いつも曇っていたり、蝶番の調子が悪かったり」
話す内容とノンネットの真剣みに隔たりがあるように感じられた。
「それは、まあ、迷惑には違いないけど……。そもそもカウレンの城邑の亡霊はノンネットが何とかしたんだと思ってたんだけど?」
ノンネットは頷く。「もちろん拙僧は何とかしようとしました。しかし青銅像を、彼の亡霊の息子を元の場所に戻すまでは城邑を呪い続ける、とそう仰っていたのです」
超常の存在は人間に何かを取り戻させることを好むのだろうか、と思ってユカリはため息をつく。
ユカリもまた事情を話す。フォーリオンの海。貝の王の最高傑作。海の異常な引き潮。それが最高傑作の真珠が盗まれたことに起因すること。カウレンの城邑の呪いを軽んじるわけではないが、規模の差が大きい。
ノンネットを除いて誰もがユカリの話に眉を顰める。海と話した。貝と話した。海の宝物を持ち帰る任務に就いている。彼らにとってはどれもこれもが御伽噺のようなのだ。魔導書なら可能かもしれない、という発想にさえ至らないほど荒唐無稽な出来事だ。
「信じてくれるでしょう? ノンネット」
「ええ、信じますよ。エイカさん」
しかし加護官の一人は生真面目にノンネットに報告をする。「最高傑作の真珠も何も、この青銅像の方は何も所持していないようです」
みなが青銅像の連れ、アギノアに注目することになる。
だが次に口を開いたのヒューグだった。「ノンネットさん。貴女は亡霊を昇天させることができるのだね?」
ノンネットは生真面目な顔で頷く。「ええ、その通りです。少なくとも現世代の護女の中では最も多くの実績があることを、拙僧は自負しております」
「であれば是非話を聞いて欲しい」そう言ってヒューグはアギノアに視線を送り、促すように頷く。
喪服の貴婦人アギノアはヒューグとノンネット、そしてユカリに順番に目を向けて、観念した様子で、しかし恐る恐るように躊躇いつつ黒の面紗を持ち上げた。黒の面紗の向こうに現れたのは対照的に純白の顔だ。その煌めきは真珠質のそれだった。次いで帽子を脱ぎ、手袋を外す。そのどれもが真珠の滑らかな照りで魅惑的に蠱惑的に輝いている。そこにいる誰もがその美しさに目を奪われ、魅了されたように目を離せないでいる。
深い沈黙を破ってユカリが口を開く。「アギノアさんが最高傑作の真珠、フォーリオンの宝、だったんですか?」
「おそらく、そういうことなのでしょう」とアギノアは言う。「ただ、私は海や貝とはお話しできないので、宝だとか最高傑作などという話は初めて聞きましたが」
ノンネットがアギノアの真珠の顔をじっと見つめて次々と尋ねる。「いったい何者なのですか? 貴女もまた亡霊なのだとして、なぜ真珠像に憑りついたのですか? そもそもそのような巨大な真珠、いったいどうやって」
アギノアは首を横に振る。「私は今から遥か昔、女神パデラに仕えていた巫女でした。シグニカは元々戦の多い土地ではありましたが、とうとう神々の神殿にまで戦火が届きました。私は最期のその時までパデラ神に平和を祈念し、その思し召しに見えることなく命を落としました。そして気が付けば水の中。捨てられたのか、水葬にされたのか分かりませんが。火の神に仕える私が救われることはありませんでした。ゆっくりと沈み、光と温もりを離れて海の底、貝の王の腹の中。私は真珠質に包まれて、身も心も魂も永劫の暗闇に閉じ込められてしまいました」アギノアがヒューグの方に顔を向ける。「どれ程の年月が経ったのか分かりません。永遠に続くと思われた暗闇に、海の底に、突如彼が現れ、私を憐れんでくださり、陽の光の下へ連れ戻していただきました」
「そうすれば魂も解放されると思ったのだが」とヒューグは説明する。
「それは叶いませんでしたが、パデラ様なら私をお救い下さるかもしれないと思い、ここへやって来た次第です。残念ながらとうの昔に我が女神は浄火の礼拝堂を後にされ、古の太陽を追って黄昏の向こうへと立ち去られたご様子です」アギノアはその声の響きに悲しみを感じさせず、そう言った。
ヒューグは青銅の瞳でユカリを真摯に見つめ、決然とした声を響かせて言う。「だからせめて魂を解放してからでなければアギノアを海に還すわけにはいかないんだ。分かってくれるね?」
ユカリはアギノアを見つめる。真珠質の顔に自分の顔がぼんやりと浮かんでいて、ぼんやりとした眼差しをこちらに向けている。
ユカリが頷くと、真珠質の中のユカリも頷く。「分かりました。それでノンネットにアギノアさんを救って欲しい、というわけですね」
みなの視線がアギノアの希望の綱、護女の元へ集まる。
「よろしいでしょう。ただし」ノンネットは背の高いヒューグに臆することなく面と向かう。「拙僧どもの事情も先ほどお話した通りです。アギノアさんを昇天させる代わりに貴方も昇天していただきます」
「承知した。約束しよう」と一言ヒューグは返す。
この場で昇天させても二つの像を運ぶ手間がかかるだけなので、一行は再びビンガの町に戻るため、やって来た道を取って返す。