さかのぼることもう七カ月前、高校二年生の10月頃の話だ。
私はリビングで、一枚の書類を前に父と対面していた。
「一花、なんだこれは? 卒業したら声優の養成所に入りたい? 一花、父さんはね、一花にはそういう水物の世界には入ってほしくないなんだよねぇ。ほとんどの人たちが売れずにバイト生活と聞くし、成功しても幸せになれるとは限らない。テレビを見たらわかるでしょ? 成功すれば楽しいかもしれない。でもひとたび何かあればバッシングだ。父さん、プロダクションとも仕事をしたことがあるからわかるけど、芸能界なんて外からは華やかに見えるけど、本当に内情は酷いもんだよ。そんなことをするために、父さんはカネを出してあげる気にはなれないんだよね? 一花、この前の試験もあまりいい成績じゃなかったよね? 学業優先はあの女子校に入る時に父さんと約束したよね? 友達付き合いをやめろとまではいわないけど、少なくとも父さんとの約束は守ってもらわないと困るよ? 父さん、何か間違ったこと言ってるかな?」
進路についての話が持ち上がった時、父さんは珍しいほどねちねちと反対してきた。
銀行のエリート幹部である私のパパは、声優になりたいという私の夢をこんな風に反対した。
色んな建前を持ち出しては、私にいろいろと言ってきたけど、
要するに一人娘の私が、そうした道に進むことそのものが不快なのだ。
父さんは直接的な言い方こそされなかったが――、
「声優を目指すなら、高い学費を払う意味もないから、今通っている学校も転校させる」
――と、やんわり脅しをかけられた。
「一花ちゃん、どういうこと?」
「だから、もうやめたいの。二人で声のお芝居をするの」
私はある時、声優を諦めることを仁美に伝えた。仁美は凄く悲しそうな眼差しを私に向けていた。
「どうして? だって約束したじゃない。私たち二人で声優になる夢をかなえて、二人でいつか舞台を作ろうねって」
「だから、私には無理なの!」
「……お父さんが反対してるから?」
「…………とにかく、もう私は声優は諦めるから。ううん、もともと本当にプロになれるとまで思ってなかったわ。練習だって他の人に比べて全然してないし」
「そんなことない! 一花ちゃんの声、とても素敵だもん! 一花ちゃんが諦めたりしなければ、きっと絶対なれるから! お願い一花ちゃん、そんな悲しいこと言わないで! 私は一花ちゃんの声が好き。一花ちゃんの事はもっと好き! 一花ちゃんの声が聞きたくて、私は頑張ってきたの! だから私、一花ちゃんと二人で一緒の夢を追いかけたいの!」
「……………………ごめん」
「一花ちゃん……。私、諦められない。私、頑張るから! 絶対にあきらめないから!」
胸が押しつぶされそうになった。仁美の言葉の真剣さが私には痛いほどわかったから。
それ以来私は、仁美と一緒にいるのが辛くなり、少し意識して距離を開けるようになってしまった。
放課後やお休みの日に遊びに誘われても「親の言いつけで勉強しなければいけない」とか、そんな感じで言い訳して。
(私、ぜんぜん真剣じゃなかったんだな)
父親に反対された程度で諦めるのだから、しょせん、私の声優に対する気持ちなんかそんなものだったのだ。
でも仁美はそうじゃない。「いつか二人で舞台演劇がやりたい」という夢に真剣に向き合ってた。
仁美の境遇はよく知っていたから、彼女にとってその夢が心の支えだったのも分かっていた。
(私は心のどこかで期待してた。私と一緒に仁美も夢を諦めてくれることを……)
そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしくて、さらに自己嫌悪に陥った。
そしてこんなことも思ってしまっていた。
(声優なんて、成功できる人間なんてごく一握り)
(仁美だって現実を思い知っていつか夢を諦める)
奇しくもそれは、お父さんから言われたことと一緒だった。
もしかしたら父さんは、私が夢に本気じゃなかったことを見抜いてたのかもしれない。
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