翌日、家庭科室に遅れて入ってきた陸太朗は、あたしの姿を見て口をぽかんと開けた。
「櫻庭。なんだ、その恰好……?」
「え? 変? 調理実習で使うやつなんだけど」
そう言ってあたしはくるりと回転してみせる。シンプルなストライプ柄のエプロンを身に着け、朝、時間をかけてセットした髪はシュシュで一つにまとめている。おまけに、手の爪は短く切ってやった。わかりやすい決意のあかしである。
「結構かわいいと思うんだけど?」
「そ、そういう意味じゃない! なんでおまえまでエプロンを着ているか聞いてるんだ」
「なんでって……。そりゃ、あたしも作ってみようかと思って」
「はあ? おまえにそんなこと求めてない!」
陸太朗は心外そうにそう言うと、自分も身支度をして、流し台で手を洗い始めた。そのつっけんどんな態度に、さすがにむっとする。別に感謝してくれとは言わないが、その態度はあんまりだと思う。
「だってあんたに任せてたら、お菓子一つ出来上がるまでに日が暮れるじゃん! 絶対あたしが作った方が早いって。手伝ってくれって言ったのそっちだし!」
「俺は、味見をしてほしいって言ったんだ! 作るのは俺で、おまえは見ているだけでいい!」
「だから、それこそ時間がもったいないって――あ、見てこれ、この爪! せっかく切ったのに無駄だって言うわけ!?」
「ああもううるさい!」
両手の爪を陸太朗の目の前に突き付けると、彼はそれを邪魔そうに振り払った。それがまたあたしの怒りに火をつける。
「なんなのよー、その態度! 反省したんじゃなかったの!? 失礼にもほどがあるわ!」
しばらく格闘した後、体力のない陸太朗が折れた。
「――わ、わかった……。でも、邪魔だけは、するなよ……」
(――ふっ、勝った……!)
あたしは心の中でガッツポーズをし、汚れた手を洗い直す。
「わかればいいのよ、わかれば。はー、よかった。正直、見てるだけって性に合わないのよねー」
「……そっちが本音だろう……」
床に伸びていた屍が、テーブルを支えにむくりと起き上がる。
「それに! 最後に味見をするより、途中で味見をした方が効率いいと思うんだよね! 最後じゃもう手遅れって言うか、修正聞かないこともあると思うし!」
「ぐ……!」
「というわけで、今日は何する予定なの?」
そう促すと、完敗した陸太朗はしぶしぶ口を開いた。
「とりあえず、メレンゲが必要なんだ。そんなに力が有り余っているなら、ハンドミキサーを使わずに人力でメレンゲを作ってくれ」
「了解」
口の減らない陸太朗を肘鉄で再度床に沈め、あたしはハンドミキサーをセットし、ボウルを用意した。その間に、陸太朗が何とか立ち直り、砂糖の分量を量り始める。
キッチンスケールで慎重に砂糖の量を調節している陸太朗を見ながら、気になっていたことを聞いてみる。
「ところでさ、昨日の話聞いてて思ったんだけど、おばあちゃんのお店継ぐっていうの、普通、お父さんとかが先じゃない? 陸太朗のお父さんって、今何してるの?」
「……ああ、父親は……」
陸太朗は一瞬顔をこわばらせ、ため息をついた。
「……普通に企業に勤めている。いわゆる転勤族というやつだ。おまえの言う通り、順当にいけば父が継ぐべきなんだろうが、あの人は和菓子に興味がないから。まあ、俺が言うのもなんだがな」
「え?」
最後の一言がわからない。あたしがきょとんとしていると、陸太朗は付け加えた。
「実を言うと、俺も、割と最近までそんなに興味がなかったんだ」
「え、ええ!? 陸太朗が!?」
「というか、意識したのが最近というか。さっき言ったが、うちは転勤が多くて、俺がこっちにいたのは小学三年までだったんだ」
陸太朗は卵を割り、黄身と白身を分けながら続けた。手の動きはたどたどしいが、殻は入っていないし、黄身も傷つけていない。少しずつ慣れてきているようだ。
「最初は祖母の家に住んでいたから、おやつと言えば和菓子だった。だが、小学三年生以降、転校を繰り返すようになって、そのうち、和菓子のことは忘れてしまった。だから、正直、和菓子の知識については櫻庭と大して変わらないと思う。思い出したのも、進学に有利なうちの高校に入学するために、俺だけこっちに戻ってきてからだしな」
あたしたちの高校は、これでも一応進学校だ。ちゃらちゃらしているように見えるトモヤだって、週三回、塾に通っている。部活が強制じゃないのも、塾通いの生徒への配慮からだと聞いている。
「失って初めて気づくって本当にあるんだな。祖母が倒れて、看病のために一時的に戻ってきた母親が、もう年なんだからやめてもいいなんて言い出して……。そんな可能性があるなんて、今まで考えたこともなかった。あって当然だと思っていたものが、なくなるかもしれない状況になって、ようやく和菓子も、あの店も好きだと気づいたんだ。だが、冷静になって考えてみれば、別に祖母も店をやるのが嫌になったわけじゃない。売り上げさえよくなればいいんだ。そして、それはそんなに難しいことじゃないと思う。和菓子の売れ行きが悪いのは、おまえみたいに、和菓子自体を知らない人が多いのも原因と言える。需要のなくなったものが淘汰されていくのが自然の摂理かもしれないが、それとは違うんだ。そういう人に知ってもらえるだけでも、売れ行きが回復する可能性は十分にある」
「……そう、かもね」
確かに、ミヤちもトモヤも、和菓子に対する知識はあたしと同じくらいだろう。昨日パンフレットで見たキラキラしたのが和菓子だと知ったら、目の色が変わりそうだ。
二個分の卵白が入ったボウルを手渡され、あたしはミキサーをその中に突っ込んだ。だが、スイッチを入れる前に、陸太朗に尋ねた。
「陸太朗がやろうとしていることはわかったけど、でもさ、女子受けする新商品作ったとして、それをどうやってみんなに知ってもらうわけ? SNSで宣伝するとか?」
「まあ、それも考えてはいるが……。実は、和菓子コンテストに応募しようと思っている」
「和菓子コンテスト?」
初めて聞く単語だ。「そんなのあるんだ」と言うと、陸太朗はこくりと頷いた。
「割と大きな大会で、二人一組で参加できる。他に、ジャンルの規定がないスイーツコンテストというのもあるんだが、そっちは公式のものだと三人以上のグループが必要でな。非公式な大会じゃあまりインパクトもないし、集客には結びつかない」
「ふうん。……ってことはつまり、その和菓子コンテストならあたしたちだけで参加できるし、お店に箔がつくかもってこと?」
「そのとおりだ」
確かに、ただSNSで新商品の宣伝をするより、コンテストで優勝した方が話題になりそうだ。すでに虫の息――かどうかは知らないが、閉店の危機を脱するためには、そのくらいのインパクトが必要かもしれない。
「優勝せずとも入賞すれば、おそらく地元のニュースにはなるし、学校も宣伝してくれる。売り上げのV字回復間違いないだろう」
陸太朗は高校生らしからぬ不敵な笑みを浮かべながら、何度も頷いている。
初めて笑ったと思ったら、こんな暗い笑みだとは。あたしは内心でちょっと引いた。だが、もし本当に陸太朗の望み通りになり、これが満面の笑顔に変わるとしたら……。
体の奥からやる気がふつふつとわいてくるのを感じた。
「……そう、だね。とりあえず、やってみよっか。もしダメだったとしても、参加することに意義があるって言うし!」
「馬鹿言うな。やるからには本気で入賞を目指す。いいな?」
なんだかえらそうな言葉を吐いて、陸太朗は手を洗って違う作業を始めた。あたしもブゥンとミキサーを回す。
「そう言えばおまえ、メレンゲの作り方、知ってるのか?」
ミキサーの音に負けじと、彼が大声で尋ねてくる。
「え? ああ、メレンゲね。前、作ったことがあるから」
といっても、去年、ガトーショコラを作る過程でメレンゲを泡立てただけなのだが。チョコと混ぜてしまったら跡形もなくなって、成功したのか失敗したのか今でもよくわからない。
「……なんだか心配だから一応レシピを読むぞ。あー、砂糖には泡立ちを抑える作用があるから、最初は入れず、大体三回くらいに分けて入れるのがいいとある。逆に、できた泡を安定させる働きもあるそうだ」
陸太朗はカバンから取り出した料理本を読みながら、説明してくれた。
「じゃあ、俺は寒天液を作るから」
そう言って、自分はガス台の方へ歩いて行く。
「んで、これは一体何作ってるの?」
「ああ。淡雪羹というものだ」
彼の説明によると、それは雪のように真っ白で舌の上で溶けて消える、白身で作った卵焼きみたいな見かけの和菓子だという。
「これは簡単だ。メレンゲさえできれば失敗などない。今度こそちゃんとした和菓子が食べられるぞ」
陸太朗は自信満々だった。あたしもわくわくしながら出来上がりを待ったのだが、完成したのを見ると、寒天とメレンゲが明らかに分離している。
「ねえ、陸太朗。簡単だって言ってなかった? 簡単だって」
「…………」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!