テラーノベル
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翌朝、港町の爽やかな朝の空気とは裏腹に、二人の家には不穏な——否、非常に奇妙な緊張感が漂っていた。
「……どこへ行く」
玄関の土間に足を踏み出そうとした元貴の前に、巨大な壁が立ちはだかった。漆黒の衣を纏い、腕組みをした滉斗である。その瞳は、かつて国境の砦を守護していた時のような、一歩も通さぬという強い決意に満ちていた。
「ひろぱ、言ったでしょ。今日は奥様方と刺繍をする約束なの。ほら、どいて?」
元貴が困ったように笑いながら横を抜けようとすると、滉斗はその動きを完璧に読み、音もなく先回りをしてみせる。
「ならん。……外は風が強い。それに昨夜怪我をしただろ。指先が冷えれば、悪化する」
「もう治ってるよ!元々、 絆創膏すら要らないくらいなんだから」
その後も「道中の治安が不安だ(平和な町である)」「家で俺と剣の手入れをする方が有意義だ」と、およそ最強の剣士らしからぬ屁理屈を並べ立てて阻止しようとする滉斗。しかし、元貴の「約束なんだから!」という一喝に、滉斗はついに最終手段に出た。
「……分かった。ならば、俺も行く」
「えっ……刺繍会に?」
港町の集会所。和やかな奥様方の談笑が響く中、その光景は異彩を放っていた。
色とりどりの糸に囲まれ、針を手にする女性たちの中に、一人。鋼のような肉体と冷徹な美貌を持つ男が、置物のように鎮座している。
「あらあら、若井の旦那様。そんなに怖い顔をして針を見つめなくても、糸は逃げませんわよ」
「……不慣れなだけだ。気にするな」
滉斗は元貴の真横を陣取り、刺しゅう枠を持つ元貴の手に少しでも誰かが触れようものなら、その鋭い眼光で牽制を飛ばす。しかし、町の人々は強かった。
「見て、あの旦那様。あんなに強そうなのに、奥様(元貴)が他の人と笑うたびに、あんなに寂しそうな顔をして。……案外、可愛いところがあるのねぇ」
「本当。都最強の剣士様も、惚れた弱みには勝てないってことかしら」
奥様方のクスクスという笑い声と、意外な「愛妻家」としての高評価。滉斗は居心地が悪そうに視線を泳がせながらも、元貴が教わっている刺繍の図案を、誰よりも真剣に、まるで秘伝の術式を解読するかのような目つきで凝視していた。
しかし、その和やかな空気の中で、一人面白くない顔をしていたのは元貴だった。
最初は「過保護なんだから」と呆れていた彼だったが、次第に奥様方が自分のことよりも、隣で不器用に針を持たされている滉斗に夢中になっているのが気に入らなくなってきたのだ。
「旦那様、この糸の通し方はね……」
「若井様、そんなに力まなくても大丈夫ですよ。ほら、肩の力を抜いて」
親切に滉斗の手元を覗き込む奥様方。滉斗は彼女たちの「親切な攻撃」にタジタジになりながら、されるがままになっている。
「…………」
元貴の心に、小さな、けれど確かなトゲが刺さった。
自分のための「護衛」としてついてきたはずなのに、なぜこの人はこんなに周りの視線を集めているのか。なぜ、自分だけの「ひろぱ」が、他の女性たちに「可愛い」なんて言われなければならないのか。
「……ひろぱ」
「ん? なんだ、元貴。やはり指が痛むのか」
慌てて顔を近づけてくる滉斗に、元貴はプイと顔を背けた。
「……もういい。帰る」
「えっ? まだ始まったばかりだろう」
「いいの! 帰って、ひろぱに『僕だけに』刺繍を教えてもらうから!」
元貴はそう言い捨てると、道具をまとめて足早に集会所を飛び出した。残された奥様方が「あらあら」と顔を見合わせる中、滉斗は一瞬呆然とし、すぐに慌てて元貴の背中を追いかけた。
「元貴! 待て、何に怒っているんだ!」
春の風の中、嫉妬の矛先が自分に向いているとも知らずに走る滉斗。
二人の新しい国は、今日も今日とて、平和で騒がしい愛に満ちていた。
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コメント
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最高です!