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武道館前の5さん配信から。
カチ、カチッ。
マウスのクリック音が、静まり返った室内に響き渡る。
電源ランプが消えたのを確認し、そっとパソコンを閉じた。
ふう、と何処に向けたものやらわからない溜息が漏れる。
そのままずるずるとソファーに倒れこみながら、どこかぼんやりした思考で今日のことを思い返す。
自分には、大きく分けて二つの顔がある、と自認している。
一つは会社員としての顔。
もう一つは、歌い手としての顔だ。
二つの顔を使い分けている、というか。きっぱりとどちらかにすることができなくて、どちらも続けていた、という方が正確かもしれない。
歌い手「If」として、大きな目標を成し遂げた。
いや、まだ成し遂げられてはいないけれど、いよいよ現実になってきた。
あの破天荒なリーダーには困らされることも多くあったけど、やるときはやる人だ。
ついてきてよかった、と心から思った。
それから、メンバーも。危機や挫折を乗り越え、ついに夢の切符を手にした。最高に、誇らしい。
夢の舞台が決まってから、幾度となく考えてきたことがある。
突っ走ってきた日々の、ひと時の休息のようなこの時間。
会社員としての自分を、そんな自分の思い、悩みを、歌い手としての顔で打ち明けないといけないんじゃないか。打ち明けた方がいいんじゃないか。
前々から思っていたことではある。
義務なのか、それともしたいことなのかすら分からない、はっきり言ってぐちゃぐちゃした部分。リスナーは受け入れてくれることはわかっていたけれど、勇気が出なかったことだ。
それを、今日打ち明けた。
脱力した体を包むのは達成感なのか、それとも喪失感なのか。今日は何もかもふわふわしているな、とどこか他人事のように考える。
ふと、焦りにも似た満たされなさが自分の中に湧いてくるのを感じた。
それが何に対してなのか。
そのことを追求するより先に、意識は暗闇へと落ちていった。
……ポーン
ピンポーン
耳慣れた機械音で、意識が浮上する。
(…まぶし)
どうやら眠ってしまっていたようだ。蛍光灯の光が目に痛い。
寝起き特有のよく回らない頭をどうにか動かして、半ば這うようにインターホンの前まで移動する。
(なにか頼んでたっけ)
そんなことを考えながら通話ボタンを押して――
はい、と返事する前に耳に飛び込んできた声に、俺は目を目尻が裂けそうなほど大きく見開いた。
『…まろ』
「あ…にき?」
小さなモニターに映る人影。聞こえる声。間違えるはずがない、いとしい人。
『遅くにごめん、入るな』
その声とほぼ同時にガチャガチャ、と耳慣れないリズムの金属音が鼓膜を打つ。
慌てて玄関へ向かうと、ちょうどドアが最大限開いて。
あにき、と呼ぼうとした声は、声帯をふるわせることなく喉の奥で消えた。
「あにき…?」
唐突に背中に回された手に、動揺が隠せない。
まだ靴を脱いでいないせいで、段差の分小さく感じられる体躯。
いつもより下にあるつむじが目に入って、なぜだか急に泣きたい気持ちがこみあげた。
「…まろ」
俺の服に顔をうずめているせいで、くぐもったように聞こえる声。
「うまれてきてくれて、」
その声の勢いが、いつもより弱いことに、
「出会ってくれて、っ」
押し殺した嗚咽が混じっていることに、
「ありがとうなぁ…!」
抱きしめる力が、痛いくらいになってきていることに、
気づいてしまったら、もうだめだった。
頬に冷えきった手が当てられて、目が合って。
潤んだ大きな目に自分の泣き顔が映る。
(もったいないなぁ)
そんな考えも、視界とともにぼやけて、輪郭が分からなくなっていった。
ひどく満たされた気分で、目を開ける。
途端に開ける視界に、自分が寝ていたことを理解した。
えーとたしか、あにきが来て、2人で泣き疲れて寝てしまったんだったか。
(うわ、待って)
恋人の前で泣き崩れるとか。
「かっこ悪…」
なんという醜態。
「おれはかっこ悪くないと思うけど」
「え」
「お目覚めですか?いふまろさん」
心の底からびっくりして声のもとに顔を向けると、腕の中の愛しいひとと目が合う。
というか一瞬天使かと思った。起きたら腕の中にあにきがいるってどんな贅沢だよ最高かよ。
「ね、まろ」
ほんとにありがとうな。
そんな言葉が下から降ってきて。
「…危ない危ないまた泣くところやった」
「泣いていいのにー」
「さすがにこれ以上あにきの前で泣くのは俺が許せん」
なけなしのプライドで涙を引っ込めて、くふくふ笑い声をあげる恋人を腕の中に閉じこめた。
ああ、なんか。
「しあわせ、やなぁ」
ぽろっと口からこぼれた言葉を耳で拾って、コンマ何秒かしてからようやく意味を理解した。
そうか、俺は今、
「当たり前やん」
俺の事を理解してくれるリスナーがいて、支え合えるメンバーがいて、愛してやまないこいびとがいて。
もうこれ以上ない幸せ、なのに。
「もっともっと幸せになってもらうからな!」
それ以上をいとも簡単に誓ってくれるのだ、この人は。
「…ほんと愛してる」
「俺も」
「…なんか負けた気がするんやけど」
「それを俺に言われても困るなぁ」
俺たちは顔を見合わせて、お互いに幸せで飽和した笑いをこぼした。
おまけ
「お腹空いた…」
「そーいえばなんも食べずに寝たなぁ…簡単なので良ければ作ったろか?」
「え?!」
「うるっ…近所迷惑やからもうちょい抑えてな…冷蔵庫に何入ってるかによるけど、なんかは作れるやろ」
「やったー!兄貴のごはん!」
「言うほど豪華でもないと思うけど…」
「いいの!兄貴が作ったってところに意味があるの!」
「…さいですか」
「一緒に作ろ!…兄貴どうしたの?」
(こういうところなんよなぁ…)