【期待の先】
「いらっしゃい」
いきなり玄関のドアが開き、大きな身体と少ない髪の毛が特徴の男の人が、顔中を笑顔にしながら僕たちを迎え入れてくれ
た。
ー前田さんの旦那さんだ。
れれが僕を抱いたまま、ペコペコと何度も頭を下げながら挨拶をした。
「ももちゃん、どう?」
「間違いないわ。お母さんとヨシの匂いよ」
れれの腕の中から、体を乗り出すようにして尋ねる僕に、ピンクの小さな鼻をピクピク動かしながら、ももちゃんは答えた。
僕も、同じように鼻の穴を正面に向けて、辺りの匂いを吸い込んだ。
もうちょっとだと思うと心臓がドキドキしてくる。
どうぞこちらへ、と案内されたリビングの床には、肉球に心地良い肌ざわりの、高級そうな絨毯がびっちりと敷き詰めてあった。
「あなたたち、ここで爪とぎをしたらダメよ!」
すかさず僕たちにくぎを刺したあと、れれは僕たちに向けた厳しい顔を、すぐに笑顔に変え、前田さんに向かって、
「これ、こちらの猫ちゃんたちに」
と、途中のケーキ屋さんで買った人間用のお菓子と一緒に、紙袋に詰め込んできた猫用おやつを、うやうやしく差し出した。
「あら、うちの猫にまで、すみませんねぇ」
笑顔で受け取った前田さんは、それを手に台所に向かった。
その姿を目で追いながら、れれはフカフカのソファの端にゆっくりと腰を下ろした。
「お宅の猫ちゃん、ちいちゃんですか? 大丈夫ですよ。お腹がすいた頃には、戻って来ますよ。
今回は、しっかり捕まえておきますから」
旦那さんの心強い言葉に、宜しくお願いします、と頭を下げるれれの声も穏やかだ。
テーブルを挟んで、れれの向かいに座った旦那さんが、その大きな手で、ちょっと緊張している僕とももちゃんを、順番に撫
でてくれたので、僕たちも喉をグルグルいわせながら、額をこすり付けて、百パーセントの好意を伝えた。
ちい、良かったね。一時はどうなることかと心配したけど、ちいは、本当にラッキーな猫だよ。
猫好きオーラに包まれた、旦那さんの手の温もりを背中で感じながら、ちいは絶対に戻ってくると確信した。
だって、ちいは、人間のオーラが読めないくせに、ピンポイントでこんな猫好き人間の所に来たんだ。
ちいは、運が良いんだ。才能があるんだ。だから大丈夫だ。
ところで、ももちゃんのお母さんと弟のヨシ君は、どこにいるんだろう。
警戒して、隠れているのかもしれないな。早く出てきてよ。びっくりするだろうなぁ。
「ところで、こちらの猫ちゃんたち、今日は家にいないってさっき電話で仰ってましたが……」
ーえ?
「はい、今は離れに行ってます」
ー離れに行ってるって? 何のこと?
「ああ、息子さん夫婦のいらっしゃる、あのお家ですね」
「そうです。うちの猫、休みの日は、息子夫婦の家に行くことになってるんです。
行くといっても、もちろん息子たちが、迎えにくるんですがね」
前田さんが、三人分のケーキとコー ヒーをお盆に載せて、リビングに戻ってきた。
僕の頭に、一匹ずつ猫を抱いた二人の人間が、お花いっぱいの庭を通って、離れの家に入っていく様子が浮かんできた。可笑
しそうに笑うれれたちの傍で、僕の心はしぼんでいく。
ーこの家には、居ないんだ。ももちゃんのお母さんたち……。
ももちゃんの尻尾が、せわしなく動き始めた。
僕は、ももちゃんの顔を、まともに見ることができない。
「そういうことだったんですね。じゃあ、安心です。
うちの猫たちと鉢合わせをして、いきなりケンカにでもなったら大変ですから」
前田さんの運んできたコーヒーを一口飲んだれれは、僕たちの頭をポンポンと軽くたたきながら、いかにも可笑しそうに笑
い、それにつられるように、前田さん夫婦も、声をあげて笑った。
確かに、僕たちは、猫同士好き嫌いが激しくって、嫌いな猫に対しては容赦ない。
初対面の猫に、いきなり毛を逆立てたり威嚇したりして、お前は嫌いだ、ということをはっきりと伝えることになっている。
ただ、これは無駄な争いを無くすための行為なんだ。
今回の場合、そんなことありえないんだよ。
だって、多分、いや間違いなく、ももちゃんの、お母さんと弟なんだもの。
情けない。残念で悔しくて、こんなに楽しみにしてたのに。
思わず大きなため息が出た。
ふと、足元の絨毯に、猫の毛が絡みついているのに気が付いた。
ももちゃんのお母さんか、弟の毛に違いない。
ーももちゃん……大丈夫?
横目でちらっとももちゃんの方を伺いながら、小さく呼びかけてみた。
ピクリとも動かないももちゃんが、息を詰めて見つめる、その視線の先には、申し訳なさそうに絨毯にへばりつく一本の猫の毛。
ももちゃんの薄緑色の目が、ゆるゆると膨らんできたかと思うと、いきなり大粒の涙が押し出されてきた。その涙が、ぽとっ
と音を立てて絨毯の上に落ち、その中に吸い込まれていった。
ももちゃんは気を取り直したように、ゴシゴシと何度も何度も顔を撫でつけたあと、僕の方を向いて
「大丈夫よ」と精一杯の作り 笑顔で答えた。
無理に笑顔を作るももちゃんが、痛々しかった。
内心どんなにがっかりしてるかを思うと、胸が苦しくなってくる。
慰めの言葉も思いつかない僕は、何度も何度も、ももちゃんの涙の伝った跡を舐めて慰めることしかできなかった。
「ところで前田さん、電話で言われてた足の悪い猫ちゃん、どうでした? 手術で何とかなりそうですか?」
生クリームたっぷりのケーキを、せっせと口に運びながら、れれはテーブルの向こうで同じようにフォークを動かしている前
田さん夫婦に、少し改まった口調で尋ねた。
「ああ、ヨシ君のことですね。いや、生まれつき関節が曲がっていて、そのまま大きくなっているから、今更手術で治すこと
はできないって言われました」
そうだったんですか、と声を落としたれれに向かって、前田さんは明るい口調で言った。
「いえね、病院の先生に言われたんですよ。ヨシ君の足、別にこのままでも良いじゃないですか。
人間の目には、足に障害を持って生まれた可哀想なヨシ君、と映るかもしれないけど、当のヨシ君は何とも思っちゃいません
よ。ほら、うまくバランス取って普通に歩いてるじゃないですかって」
これがヨシ君の個性ですよ、と言われて今朝の診察が終わったそうだ。
「言われてみれば、その通りです。ヨシ君にとっては、今更手術なんて迷惑な話ですよね」
という旦那さんに、
「大切な友達から引き受けた猫なんで、なんていうか、私たちも必要以上に力が入ったんでしょうね」と、前田さんが付け加
えた。
「ヨシ君たちは、お友達から引き受けられたんですか? 」
れれが、ケーキを突き刺したフォークを手に、前田さん夫婦を見た。
「お友達と言っても、歳は私たちの親の年代なんですがね。今まで飼ってた猫をどうしても連れていけなくなったからって、
頼み込 まれたんですよ」
その方、どこか引っ越しでも? と首を傾げるれれに、
「まあ、引っ越しといえば引っ越しでしょうが……。ねぇ、お父さん!」
と、何だか含みのある表情を旦那さんに投げかけた。
テーブルの上からは、容赦なくコーヒーのマズそうな匂いが漂って来る。
どうして人間たちはこんなまずい物、美味しそうに飲んでいるんだろう。
いつもなら、さり気なく席を外すところ、何だか興味深そうな話の展開になってきたので、僕たちは前足を内側にピッタリ折るように曲げて、絨毯の上に座り込んだ。
「実はね、引き受けてすぐ、れれさんちと同じように、うちでも猫探しポスターを作ったんですよ」
え? という口のまま、れれはコーヒーカップをテーブルに戻した。
前田さんは、旦那さんの肩にポンポンとたたき、
「お父さん、最初から話してあげないと」
と言ってから、ゆっくりと立ち上がり、食べ終えたケーキの皿を三枚重ねて台所に運んで行った。
「れれさん、山の手の大きなイチョウの木、って言ったらわかるかな?」
いきなりの旦那さんからの質問に、れれが不思議そうな顔で頷いた。ももちゃんの耳がピクっと動いた。
「あの木の近くに、古いわら葺屋根の家があるんだけど……」
「知ってます。一軒だけポツンと建ってる、あの大きな家のことですね」
「そう、実はあそこのおばあちゃんが飼ってた猫なんですよ」
ーももちゃん!
ももちゃんは、チラッとこちらを向いただけで、すぐにその大きく見開いた目を旦那さんの方に返した。
「おばあちゃん、と言うか、私たちはミツさんと呼んでたんですがね。
ミツさんとは、十年くらい前、町内会の役員をした時に知り合って、それ以来のお付き合いでした」
「畑仕事が元気の源」というのが口ぐせだったミツさんは、八十過ぎとは思えないくらい溌剌とした、しっかり者のおばあちゃんだったらしい。
「畑で採れた白菜やダイコンを、自転車の後ろのカゴに山盛り積んでは、よくうちにも持って来て下さってたわ」
台所で柿の皮をむいでいた前田さんが、手を止めて付け加えた。
「そのミツさんから、電話があってね。今、東京の息子の家からかけているんだけど、もうそっちには帰れないと思うって……」
その後の話は、ももちゃんがイチョウの木に教えてもらった通りだった。
つまり、ミツさんと呼ばれてるおばあちゃんは、足の骨を折って、息子の家で暮らすことになったっていうこと。
だけど、そのことで、ももちゃんのお母さんと弟のヨシ君が置いてきぼりになって……。
ももちゃんは、まるでお人形のように固まったままピクリとも動かず、キラキラ光る眼を黒目で一杯にしたまま、旦那さんを見上げている。
「……で、ミツさんから、退院の日に息子が迎えに来てくれて、直接息子の家に来てしまったんで、うちの猫、そっちに置い
てきてしまったんです。息子の家は社宅で猫は飼えないことになってるんです。だから、いきなりで、本当に図々しいお願い
なんですが、なんとか探し出して、お宅で飼ってもらえませんか。お願いします、お願いします、って、もう電話の向こうで
半泣きだったんですよ」
まあ、それは、それは……と、れれが、相槌を打つ。
一度、息子たちが、ミツさんの身の周りの荷物を、取りに来た時、家の中、倉の中、あちこち捜したけれど、どうしても二匹の猫を見つけることができなかった。
ただならない様子に、怖がってどこかに隠れていたのだろう。
仕方なく、息子たちは、山盛りのカリカリご飯とお水の入った皿を、家の中の何か所かに置いた後、二階の窓を少しだけ開けた状態で帰ってきたそうだ。
ーまだ私、ギブスしている状態なんで、代わりに息子に行ってもらったんですよ。
とりあえずこっちに連れて帰って、だれか飼ってくれる人、捜そうと思っていたんですが……。
うちの猫たち、いきなり私が居なくなったんで、捨てられたって思ってるでしょうね……
可哀想なことをしてしまいました。
ため息交じりに、ポツポツ話すミツさんの声は、それまで聞いたことがないくらい打ちひしがれていたそうだ。
僕は、さっきから胸の奥がジーンと熱くなるのを感じていた。
おばあちゃんは、ももちゃんのお母さんたちを、置いてきぼりにして行った訳じゃないんだ。
ずっと気にしてて、なんとかしようと、一生懸命だった。
そして、ついに意を決して前田さんに電話で頼み込んで来た。
ーももちゃん、本当のことがわかって良かったね。
僕は、隣で身動きもせず、前田さん夫婦の話を聞いているももちゃんの尻尾を、チョンチョンとつついてみた。
ももちゃんは、ハッと我に返ったように驚いた顔をこちらに向けたが、その顔には、何とも言えない安堵の表情が広がっていた。
僕は、会ったこともないミツさんという名のおばあちゃんに、心の中でありがとうを 言った。
ーミツさん、うちで飼いますよ。ミツさんちの猫ちゃんたち、家のどこかに隠れているはずですよ。
探し出して、うちに連れて帰りますから、という前田さんの言葉に、ミツさんの声は急にぱっと明るくなったそうだ。
ー家の鍵は、郵便受けの裏にガムテープで張り付けてありますから。すみませんが……。ああ、だけど良かった。どうしようかと悩んだけど、前田さんに電話して良かったわ。
嬉し泣きに何度もありがとうを繰り返す、電話の向こうのミツさんに、前田さんは、心配しないで、大丈夫ですよ、の二言を
何度も繰り返した。
ふと、思い出したように、そう言えばミツさんち、たしか猫三匹いるって言われてませんでした? と聞く前田さんに、
ーおてんば娘のミーちゃんは、出て行ったっきり帰って来なくなったんですよ。
活発な子だったから、外で暮らす方が良いんでしょう。スタイルの良い美猫だったから、外でもモテモテじゃないかしら。
笑いながら答えたミツさんの声は、すっかりいつもの元気を取り戻していたので、前田さんも、ホッとしたらしい。
ーももちゃん、ミーちゃんって誰?
キョトンとしている僕に、ももちゃんは額を摺り寄せながら
私、おばあちゃんからは、ミーちゃんって呼ばれてたの、と少しはにかんだ様子で教えてくれた。
僕は、しばらく宙を睨んだまま、真剣に頭の中を整理しようとした。
ーここにいるももちゃんは、今はももちゃんだけど、ノラ猫集団にいた時は、お嬢さんだった。
そして、おばあちゃんは、ももちゃんのことミーちゃんと呼んでいた。
なんだか、ややこしいぞ。まぁ、深く考えないことにしょう。
僕は、オーバーヒートしそうな頭を耳の後ろからゴシゴシと力いっぱい撫でつけた。
それより、ももちゃんのことスタイルの良い美猫だって?
僕は、まるで自分のことを褒められたように、嬉しかった。
「ところでミツさん、その二匹の猫ちゃんたちの名前教えてください。うちでも同じように呼びますから 前田さんは、ミツ
さんを安心させようと、話を進めた。
「白くて毛の長いのが、ナオちゃんで、グレーの足の悪いのが、ヨシ君です」
「ヨシ君て、足が悪いんですか?」と、驚いた声で聞き返した前田さんに、
「いえいえ、悪いといっても、生まれつき関節がちょっと曲がってるだけで、普通に歩けるしトイレもできるし、手がかかるわけじゃないんですよ。ただ、普通の猫のように、ピョンピョン出来ないだけなんです。手がかかる猫ではないんですよ」と、ミツさんは、慌てて答えた。いえ、手がかかるとか、そういう事じゃなくて……と言いかけた前田さんの声に、ミツさんは大きなため息が被さった。
「私がこんなことになったばかりに……」
ミツさんの声が沈んできたので、前田さんは、努めて明るい声で、心配しないで! 大丈夫ですよ! と、受話器に向かって繰
り返したそうだ。
ナオちゃんとヨシ君の写真を、この後すぐにメールで送る、ということで、ミツさんとの長い電話が終わった。
すぐに着信音が鳴り、メール添付で、二匹の猫の顔写真が送られてきた。
それまでは、ミツさんのお願いだから、何とかしなくっちゃ、という気持ちの方が強かった前田さんだったが、丸い目を精一
杯開いて真っ直ぐにこちらを見る猫たちと 目が合った 瞬間、思わず「可愛い! 」と、頬を緩ませていた。
「お父さんも定年退職して、二人で家に居るのも何なんでね。犬か猫でも飼おうかって、話してた時ではあったんですよ。
だけど飼うなら、手のひらに乗るような、フカフカの子犬か子猫よね、って思っていたんですがね」
と言う前田さんも、ミツさんから送られてきた、カメラ目線の写真を見た途端、そんな気持ちもどこかに吹っ飛んでいったそ
うだ。
「その後は、毎日が猫探しでしたよ」
小さく切った柿を山に盛ったガラスの器を手に、前田さんがリビングに戻ってきた。
「そうだったよなぁ。ミツさんを早く安心させようと、懸命に探したんだけど、なかなか見つからなくて。なんせ実際に会っ
たこともない二匹の猫でしょう。ミツさんからの写真だけが頼りの猫探しでしたから、正直、もう無理かな、なんて思ったこ
ともありましたよ」
大変だったでしょうねぇ、と何度も頷くれれにつられて、僕とももちゃんも思わずお腹の毛繕いを始めていた。
「だけどね、れれさん。大変だったけど、お陰でとっても嬉しいことがあったんですよ」
前田さんが、れれに向かってニコっと微笑んだ。
猫のお陰だな、と旦那さんも目を細めて付け加えた。
コメント
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昨夜一気に22話まで読みました💕今日は続きが読めて嬉しかったです✨どうなるのかドキドキです💕💕