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『翠』
電話の向こうで名前を呼ぶ、男性にしては高めの声。低過ぎず、高過ぎず、聞き取りやすいその声質を久しぶりに聞く。嬉しさと照れと不安が混じったような声色だ。
「久しぶりだね」と彼女はマグカップを眺めながら言う。「どうしたの?」
少し間を置いて『今、家の前に来てるんだ』と彼は言う。翠はゆっくりと玄関のある方へ視線を向け、「うちの?」と尋ねる。相手は『うん』と短く答える。翠は細く白い指で耳の裏辺りを掻く。2年経っても彼のその行動パターンは変わっていないようだなと彼女は思った。
というよりは、三橋は急な用の時に翠の元に訪れることが多かった。希望の就職先の内定を貰った時、一緒に暮らしている家族よりも先に翠の家へやってきて、その喜びを息を切らしながら報告しに来た。会社かなにかの飲み会の帰りに転んで頭をぶつけて4針縫う程の大怪我をした時も彼が流血しながら真っ先に向かったのは彼女の家だった。翠もその時は流石に動揺した。
男女の関係はないが、三橋が翠によく懐いていた。
元々は大学生の時に勤めていたバイト先の先輩と後輩の関係だった。翠は三橋よりも2つ上で、バイト先でも先輩の立場だった。被っていたのはたった1年程だったが、三橋は何故だか翠によく懐いた。その理由を以前本人から聞いたような気がするが彼女は忘れてしまった。
三橋は翠を姉のように慕っていたが、一方の翠は三橋を子犬のように思っていた。
彼に彼女ができた時、翠との関係に不信感を抱いた彼女が付き合って数ヶ月後にヒステリックを起こした。三橋自身は自分からきちんと説明したのに聞いてくれない、やましい事なんてないのに、と理解ができない様子で頭を抱えていた。翠は会いに来るのをやめるよう彼を説得し、二人の関係が解消されてしまうのを避けた。そして2年が経った。
『今…家に居る?』と三橋は不安なのか、ボソボソと言った。
「居るよ。入っておいで。鍵は空いてる」と翠は溜息混じりに答えると電話を切り、椅子から立ち上がると台所の木製の食器棚からマグカップを取り出した。白いマグカップ。彼女は殆どの家具や雑貨を白色に統一している。先程の珈琲とは別のフレーバーの珈琲を用意する。
玄関前の廊下とリビングの間の扉が開き、白いワイシャツに紺のチノパン姿の三橋が入ってくる。仕事帰りのようだ。彼は翠の姿を見つけると、「久しぶり」と頬を緩めた。
「相変わらず急だね。なにかあったんでしょ」と翠は言い、「珈琲は?」と尋ねる。彼は珈琲の準備をする彼女の華奢で小さな肩に腕を回し「飲む。ありがとう。」と答える。突然後ろから抱きしめられ、翠は少々動揺するが手は止めない。以前の三橋はこういう事はしなかった。
翠はとりあえず「彼女さんは?」と尋ねた。またトラブルになっては困る。「別れたよ。かなり早い段階でね。」と彼は答えた。