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その夜。
ボス部屋での野営は、いつもなら「生き残ったことの確認」をして、静かに身体を休めるだけの時間だった。
だが今夜だけは違う。四十階層のボスを突破した達成感と、久々に味わう“手応えのある勝利”が、焚き火の炎と一緒に高く燃え上がっていた。
「ダリウス! つまみはまだか!」
オットーがジョッキを片手に、高らかに笑う。顔はすでに真っ赤だ。
「オットー、お酒は今日は特別に四杯まで許可を出しますよ」
エドガーは肩をすくめ、口元に笑みを浮かべている。
「いけー! オットー飲み干せー!!」
ミラは手を高く掲げ、満面の笑顔でコールを飛ばす。声が石造りの天井に反響し、宴のざわめきと混ざり合った。
そんな喧騒のすぐそばで——
エリーは、ただひたすらにダリウスの料理へとスプーンとフォークを伸ばしていた。
とろりとしたホワイトソースにこんがり焼き目のついたグラタン。
骨から身がほろりと剥がれる香ばしい肉。
湯気の立つパスタには、ガーリックとハーブの香りが立ちのぼる。
一皿、また一皿。
エリーの手元で料理が驚くべき速度で消えていく。
「……」
オットー、エドガー、ミラの三人は、ふいに笑い声を止め、そろってエリーに視線を向けた。
じーっ。
焚き火のはぜる音だけが、妙に大きく聞こえる。
その視線に気づいたエリーが、びくりと肩を震わせた。
「な、なによ!!」
若干ソースのついた口元を慌てて拭いながら、エリーが睨み返す。
そこへ、ニヤニヤ顔のミラがすっと近づいた。
「さぁ、正直になっていいよエリー。美味しいんでしょう?」
続いて、オットーが大袈裟にニヤニヤしながら、ジョッキを揺らす。
「さすがのエルフも、ダリウスの飯の前では無力だな!」
「っ……!」
エリーの白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
しばし唇を噛みしめていたが、ついにテーブルを軽く叩き、ぶっきらぼうに叫んだ。
「う、うるさい! ……美味いわよ!! おかわり!!」
皿を突き出すその仕草は、どう見ても完敗宣言だった。
エドガーは口元に手を当ててくすくす笑い、
オットーとミラは堪えきれず腹を抱えて大笑いした。
「おいおい、あんまりエリーをいじめるなよ?」
ダリウスが笑いながら、手元の皿をことん、とテーブルに置いた。
皿の上には、特に変わった見た目のものはない。
角切りのチーズ、カリッと焼いたベーコン、半分に切ったゆで卵。
ぶつ切りのタコ、薄くスライスされたサーモン。
どこにでもありそうな、ありふれた食材たち。
——だが、その上をふわりと包む香りは、まったく「ありふれて」はいなかった。
鼻の奥をくすぐる、濃くて深い燻した香り。
木のチップが焦げる匂いと脂の甘みが絡み合い、焚き火の煙とは違う“食欲を刺激する煙”が、テーブルの上にだけ小さな渦を作っているかのようだった。
ごくり。
オットー、エドガー、ミラ、エリー。
四人の喉が、ほとんど同時に鳴った。
本当に、音として聞こえた気がした。
「……っ!」
真っ先に動いたのはオットーだった。
ワインの入ったジョッキを一気にあおり、喉を鳴らして飲み干すと、その勢いのまま燻製チーズを一切れつまみ、口に放り込む。
噛んだ瞬間——
中に閉じ込められていた熱と旨みが弾けるように舌の上に溢れた。
とろりと柔らかくなったチーズの塩気とコク。そこに燻煙の香りが、遅れてふわりと押し寄せる。
「っ……!」
口の中で香りが立ち上がり、鼻に抜けていく。
ただしょっぱいだけのつまみではない。
焚き火の熱、木の匂い、焼けた脂——そういったものが全部ひと口に詰め込まれているような、濃厚な一撃だった。
オットーは慌てて、もう一度ワインに手を伸ばす。
今度はさっきより少しだけゆっくりと、燻製チーズの余韻が残る口の中にワインを流し込んだ。
ぶどうの酸味が舌に残る脂を切りながら、代わりに香りだけを引き立てる。
#ハッピーエンド
26
燻製の深みとワインの爽やかさが、喉の奥で溶け合った。
「……っはぁ。こりゃ、たまらん……!」
思わず、心の底からのため息が漏れた。
その様子を見ていた三人も、もはや我慢の限界だった。
ベーコン、卵、タコ、サーモン——各々が好きなものを一切れつまみ、迷いなく口へ運ぶ。
カリッとしたベーコンからは、噛むたびに脂と煙がじゅわりと染み出し、
ゆで卵の黄身は燻香に包まれてほっくりと甘く、
タコはしっかりした歯ごたえとともに海の旨みを燻製がくるりと包み込む。
サーモンはとろりとした脂と燻した香りが合わさり、思わず目を細めたくなるほどだった。
四人は、それぞれ一口目を飲み込み——
「……っっっ……!」
同時に、なんとも言えない顔になった。
頬の筋肉がゆるみ、目尻が下がり、眉だけが「うまい」と主張するように持ち上がる。
それは、戦いの最中には決して見せない種類の表情だった。
「ふふっ……」
ダリウスは満足そうに笑うと、焚き火のそばで腕を組んだ。
「まだ、おかわりあるからな!」
その一言で、皿の上の燻製たちは——
今夜、容赦なく全滅することが静かに決定した。
*
食後。
皿の上は、きれいさっぱり何も残っていなかった。
焚き火の炎だけがぱちぱちと名残惜しそうに音を立てている。
「はぁ~……もう近々お腹が爆発するよ……」
ミラが椅子にもたれかかるようにしてお腹をさすった。
ローブの上からでも、ぱんぱんに膨れたお腹がわかる。
「はぁ、だらしないわね」
向かいでエリーが肩をすくめる。
つっけんどんな言い方ではあるが——
(……なんであんたのお腹も同じくらい出てるんだよ)
ダリウスとエドガーは、視線を合わせまいと必死にこらえた。
エリーのローブもまた、見事に前へ張り出している。
ぷるぷる、と二人の肩が震えはじめた次の瞬間——
「ぶほっ」
限界を迎えたのはオットーだった。
堪えきれず吹き出し、腹を抱えて笑い出す。
「な、何よ、文句あるの?」
エリーは頬をさらに赤くして、ろれつの怪しい舌で噛みつく。
「その喧嘩、買うわよ?」
少しだけ焦点の合っていない目。
酒気で赤らんだ頬。
わかりやすく言うなら——かなり上機嫌である。
ダリウスは身を乗り出し、エドガーの肩口に顔を寄せた。
「……おい、エリーにも飲ませたのか?」
「ワインを少しだけですよ。ほんの、杯に二、三──」
エドガーが小声で答えると、ダリウスは「マジか」と額を押さえた。
そのとき——エリーがテーブルをドン、と叩いた。
空になった皿がかすかに跳ねる。
ぐい、と腕まくり。
すらりとした細腕が、ランタンの光に白く浮かび上がる。
「……もう口で言っても仕方ないわね。腕相撲で決めましょう」
どうやら勝負を売る気らしい。
「おっ、いいぜ。とことんやってやるぜ」
オットーも負けじと腕をまくり、分厚い前腕をテーブルに乗せた。
エルフの魔女と、中年盾役が向かい合う。
「よーし、二人とも構えて~」
ミラが面白がって立ち上がり、手をひらひらさせる。
エドガーは苦笑いをしながらも、その様子を興味深そうに眺めていた。
両者の手が握り合わされる。
華奢なエリーの指と、節くれだったオットーの指が、ぎゅう、と絡み合った。
「……始め——」
ミラが合図を言い切るより早く、エリーの口元がにやりとつり上がった。
その瞬間——
バンッ!
テーブルが鳴り、オットーの腕が一直線に倒されていた。
同時に、巨体そのものが椅子ごと後ろへひっくり返る。
「ぬおおおっ!?」
ドシャア、と派手な音を立てて床に倒れるオットー。
さっきまで「爆発する」と言っていたミラのお腹が、笑いで今にも本当に爆発しそうだった。
「こ……こいつ、オーガか……!?」
オットーは目をひんむき、呆然と天井を見上げた。
ダリウスとミラとエドガーは、ぽかんと目を丸くする。
目の前で起こったことを、脳が処理するのに数秒かかった。
「なによ?」
エリーは、当然だと言わんばかりに首をかしげる。
ついでに片腕を曲げ、力こぶを作るポーズをとってみせた。
だが、その腕は細く、透き通るように白い。
筋肉の筋などまるで見当たらない。
「リベンジする?」
さらりと告げられた一言に、オットーは視線をそらし、俯いた。
「きょ、今日はな……ちょっと調子が悪くてな……」
ぼりぼりと頬をかきながら、か細い声で続ける。
「このぐらいに、しといてやるぜ……」
その背中は、先ほどより一回り小さく見えた。
次の瞬間——
「はははははっ!」
ダリウスとミラとエドガーが、揃って爆笑した。
ボス部屋の石壁に、中年たちの笑い声が気持ちよくこだました。
しばらくして、テーブルの上の皿もグラスもだいぶ片付き、
代わりに、ゆらゆらと揺れるランタンの灯りが、五人の顔を柔らかく照らしていた。
焚き火の炎と、ランタンの明かりと、空になった酒瓶。
戦いの後とは思えない、ゆるんだ空気がそこにはあった。
「でもさ」
マグカップを両手で包みながら、ミラがにこりと笑う。
「初めてじゃない? ボスで、私が治さなかったの」
その言葉に、三人の中年が顔を見合わせた。
「そうだよな!」
オットーが声をあげて笑う。椅子の背にもたれかかり、ジョッキをちょいと掲げた。
「そうだ、ダリウス。お前、ドラゴンとやりあったんだろ?」
「……ああ、死にかけたよ……」
ダリウスはため息まじりに答えた。
言葉の割に、口元はどこか誇らしげにゆるんでいる。
エドガーが、手元のカップを一度置き、エリーの方へ視線を向ける。
「エリー。危なくなったら助ける、という話では?」
問いかけに、エリーはグラスをくるくると指で回しながら、口元だけで笑った。
「だから、上から見てたのよ」
わざとらしく肩をすくめる。
「あなたたちが、無様に這いつくばって戦っているところをね」
「えへへ、でもさ」
ミラが身を乗り出す。
「エリー、みんなが避けるたびにホッとした顔してたよ?
ボス倒したときなんて、ふぅ~って、すっごく安心した顔してたもん」
「っ……!」
じわじわと、エリーの頬に赤みが差していく。
しかし本人は必死に平然を装った。
「ち、違うわ」
グラスを置く手に、かすかに力がこもる。
「わかってたのよ。私が教えた通りにやってたら、勝って当たり前だもの」
どこまでも強気な言葉。
けれど、その語尾の揺れを、もう誰も本気では受け取らない。
テーブルの周りに、ふっと笑いが広がった。
ひとしきりからかいと笑いが続いたあと——
ふと、会話が途切れた。
ランタンの炎が、かすかに揺れる音だけが聞こえる。
どこか名残惜しいような、心地よい静けさだった。
「……でもさ」
ダリウスが、手元のマグの縁を指先でなぞりながら、俯き加減に口を開く。
「俺たち……もしかしたらだけどさ」
オットーとエドガーを見やる。
二人も自然と視線をダリウスへ向けていた。
「現役の時より、強くなったんじゃないか?」
焚き火の光が三人の顔に赤く反射する。
軽口でも自慢でもない、ぽつりと落とされた本音だった。
「……あぁ」
オットーが、ゆっくりと口角を上げた。
さっきまでふざけていた男の、年相応の笑い方だった。
「その通りだ」
短く、しかし揺るぎなく。
エドガーも言葉は発さず、静かに深く頷いた。
その仕草だけで、「同じ結論にたどり着いていた」ことが伝わる。
三人の間に流れる、静かな確信。
それは酒の酔いではない。積み重ねた傷と死線がくれた実感だった。
三人は、しばし言葉を失っていた。
ダリウスはマグを持ったまま、炎の向こうを眺めている。
視線の先にあるのは、今燃えている薪でも積み上げた戦利品でもない。
もっと遠く、もっと昔の、別の焚き火の光景だった。
——あの頃は、三十になったら引退するもんだと、どこかで決めつけていた。
剣は若いやつが振るうもの。自分たちは、その背中を押す側になっていくのだと。
オットーも同じように炎を見ていた。
酒で赤くなった顔に、若い頃の面影がふっと差す。
十代の頃、まだ身体が軽かった日のこと。二十代、無茶をすれば全部筋肉でどうにかなった日のこと。
エドガーは、膝の上でそっと指を組んだ。
魔導書の重み、紙の匂い、若い冒険者たちに「先生」と呼ばれ始めた頃のくすぐったさ。
塔に挑むのは、もはや自分ではなく彼らの役目だと——そう、思い込もうとした日々。
四十を超えた。
もう無理だ。
もう無茶はきかない。
何度、自分にそう言い聞かせたか知れない。
それでも——彼らはまた、塔の前に立った。
若い頃みたいに、根拠のない自信だけで突っ込むことはしなかった。
代わりに、膝の痛みと息の上がり方と魔力切れのタイミングを、いちいち確認しながら進むことを覚えた。
何度も死にかけた。
オークに腹を貫かれかけ、ドラゴンのブレスに呑まれかけ、ゴブリンやオーガに押し潰されかけた。
そのたびに、本気で「ここまでかもしれない」と思った。
——やっぱり無理なんじゃないか。
——若い連中に託しておけばよかったんじゃないか。
そんな考えが、心のどこかで何度も頭をもたげた。
ミラが泣きそうな顔で治療してくれるたび、自分たちの無茶が情けなくなった。
エリーに冷静に「まだ甘い」と言われるたび、老いぼれた自分を突きつけられた気がした。
それでも、踏みとどまった。
剣を振り続けた。
盾を掲げ続けた。
魔導書を開き続けた。
(……そうか)
ダリウスはマグの縁を親指でなぞりながら、胸の奥でゆっくりと言葉にならない何かを噛みしめる。
(まだ、先があったんだな)
オットーもまた、ジョッキを揺らしながら心の中で呟く。
生贄にした仲間。見送ってしまった若い背中。
「俺なんて」と、酒に逃げて、痛風に嘆いて、鎧のベルトを緩め続けた年月。
その全てが消えることはない。取り返しがつかない過去は、過去のままだ。
けれど——塔に戻った自分を、今は少しだけ誇らしく思える。
逃げたままの男ではなかったのだと、辛うじて胸を張れる。
エドガーは静かに笑った。
魔法理論の精度だけでは届かなかった一手。
書物には載っていない「現場の工夫」が、ようやく自分のものになりはじめている。
魔法は若者の特権ではない。
頭と経験と度胸をまとめてぶつけるなら——四十を超えてなお、伸びる余地がある。
その確信が胸の内側からじんわりと温めてくる。
——三人は、失っていた誇りを取り戻した。
ダリウスが、そっと顔を上げる。
オットーと目が合い、エドガーとも目が合う。
誰も、何も言わない。
ただ、お互いの顔を見て、ふっと笑った。
言葉はいらなかった。
これまでの全てと、これから先の全てに対する「了解」が、その沈黙の中に詰まっていた。
その沈黙は重くなかった。
背中を押しつけ合うような圧もなかった。
ただ、その長い沈黙が心地よかった。
——しかし、その静かな余韻を、容赦なくぶち壊す存在が一人いた。
「みんな!? なんでしょんぼりして——」
ミラが、いつもの全力ボリュームで口を開きかけた、その瞬間。
「——はい、ストップ」
エリーの手がすっと伸び、ミラの口をぴたりと塞いだ。
「んむっ!? んー!?」
ミラが目を白黒させる間に、エリーは器用に腕を回し、そのまま小脇に抱えて立ち上がる。
まるで暴れる小動物でも扱うような手際の良さだった。
「……空気ってものを、少しは味わいなさい」
耳元で小声で窘めると、ミラは「むぐむぐ」と抗議の声を上げるが、言葉にはならない。
エリーは焚き火の輪から一歩離れ、くるりと皆の方へ振り返った。
口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
「あなたは——そうね、私の酒にでも付き合いなさい」
「んーーー!? んんんんー!!」
訳のわからない声を上げるミラを半ば引きずるようにして、エリーはテントの方へと歩き出す。
その背中には、いつもの棘だらけの雰囲気はなく、どこか柔らかなものがにじんでいた。
残された三人は、一瞬ぽかんとし——それから同時に吹き出した。
「はは……あいつら、あれで案外いいコンビかもな」
オットーがジョッキを掲げ、肩を震わせて笑う。
エドガーも頬を緩め、二人の背中を目で追った。
テントの向こうから、小さく聞こえるミラの抗議と、エリーのため息まじりの声。
焚き火のぱちぱちという音に混じって、そのやりとりが心地よいBGMのように響く。
ランタンの灯りは少しずつ弱まり、戦いの緊張も痛みも、誇りと後悔も——すべてが、焚き火の温もりの中でゆっくりと溶けていく。
こうして、四十階層の夜は更けていった。
笑い声と、ささやかな喧騒と、胸の奥に灯った小さな自信を抱えたまま——
心地よい夜が、静かに過ぎていった。
いつかこの焚き火の夜を「忘れまい」と、ひとり塔に抗う男が現れることを——このときの誰も、まだ知る由もなかった。