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柚猫ゆう
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#ハッピーエンド
ばたっちゅ
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四十一階層——試練の部屋。
見慣れてしまったはずなのに、やはり現実味の薄い空間だった。
床も壁も天井も、すべてが真っ白だ。
中央にぽつんと据えられた灰色の石台だけが、そこに「物質」があることを、かろうじて主張している。
白が均一すぎて、石台の大きささえふっと曖昧になる。
目を凝らすほど、奥行きと距離感のほうが先に溶けていきそうだった。
そして、またあの声が落ちてくる。
『よく来たね,しかし驚いたよ』
男の声のようにも、女の声のようにも。
子どものようにも、大人のようにも聞こえる声が、耳ではなく頭蓋の内側へ直接、滑り込んでくる。
声の色からは、相変わらず感情が読み取れない。
本当に驚いているのか、どこかで嘲笑っているのか。どちらにも聞こえてしまうのが厄介だった。
オットーはと言えば——。
「……」
片方の小指を遠慮なく耳の中に突っ込んでいた。
ぐりぐりと豪快に耳の奥をほじくり、何かを引っかける感触を得ると、満足そうに小指を引き抜く。
指先についた耳垢を、ふっと息で吹き飛ばした。
「俺らを殺す気だったか? 残念だったな」
実にいつも通りの、ふてぶてしい笑みである。
『殺さないよ。僕は君たちを愛している』
白い空間いっぱいに、からりとした声が響く。
「落とし穴に落としておいて言うことですか?」
エドガーは肩をすくめながら冷ややかに返した。
声の調子は落ち着いているのに、言葉には苦味のある嫌味がよく乗っている。
『今回の試練は——』
「私にしてちょうだい」
ぴしゃりと、その言葉を切り落としたのはエリーだった。
青い髪が揺れる。
横顔はいつも以上にきっぱりとしていて、迷いの入り込む隙がない。
『……まあ、いいか。エリー、では君だ』
短い沈黙のあと、声はあっさり承諾した。
次の瞬間。
エリーの足元から光が立ち上った。
淡い光が身体を包み込み、輪郭がふっとぼやけていく。
青い髪も白い肌も、光の粒にほどけるようにして、真っ白へ溶けた。
残されたのは、静まり返った白と、仲間たちのわずかな息づかいだけだった。
*
視界が、色を取り戻す。
白一色だった世界がほどけ、その代わりに潮の匂いが鼻を突いた。
石畳の道。
軋む木造の桟橋。
遠くで揺れるマストと帆布。
行き交う人々のざわめきと、波の砕ける音。
港町の昼下がりが、絵の具をぶちまけたみたいに、エリーの周囲へ広がっていく。
「……相変わらず趣味が悪いわね」
うんざりしたように吐き捨てる。
ここは、彼女にとって「懐かしい」だけで済む場所ではない。
『今回の試練は——』
「さっさと記憶を奪ってちょうだい」
声を遮るように、エリーは淡々と告げた。
横顔には、覚悟とも諦めともつかない硬さが張りついている。
『相変わらずだね。じゃあ、遠慮なくいただくよ』
頭の奥が、きゅう、と小さく軋んだ。
抜かれていく。
千年分の風景が、音が、感情が、ひとつずつほどけていく。
積み上げた本の山を上から順番に崩されていくみたいに、心の中の「棚」が静かに空いていく。
胸のあたりに、冷たい空洞が広がっていく感覚だけが残った。
やがて、その流れがふっと途切れた。
『ごちそうさま。千年分の記憶は、さすがに味わいがあるね』
エリーは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「今回も……あの記憶は奪ってくれないのね」
声は淡々としているのに、わずかな滲みがあった。
『当たり前だよ。順序が逆になってしまう。
君の望む奇跡は、“愛した者たちの記憶の消去”。
この階層で消してしまったら、意味がなくなるだろう?』
「……それもそうね」
短く息を吐く。
わかっていた答えだ。わかっていたのに、口にして確かめずにはいられなかった。
『そうだ、君にプレゼントだ』
からん、とガラスの触れ合うような音がした。
目の前に小さな瓶がふわりと浮かび上がる。
中には琥珀色の液体がとろりと揺れていた。光を受けて、海面みたいにきらりと瞬く。
「これは?」
エリーは感情を抑えた声で問いかける。
『失った記憶を取り戻す薬だ……ただし、“君が耐えられるなら”ね』
エリーは、ふっと口元だけで笑った。
愉快さとは程遠い、侮蔑を含んだ笑みだった。
「あなた本当に趣味が悪いわね。……友達、なくすわよ?」
『知っているだろう? 友はみんな、“現象”に帰った』
その言葉に、エリーの視線が一瞬だけ遠くを彷徨う。
波止場。
夕焼け。
伸ばした手。
届かなかった背中。
記憶の“縁”だけが、ぼんやりと疼いた。
「……」
何かを言いかけて、やめる。
代わりに、彼女はすっと右手を伸ばした。
浮かんでいた瓶が、ぱしりと掌に収まる。
「まあいいわ。貰っておく」
琥珀色の液体が瓶の中で小さく揺れた。
それを見下ろす瞳の底で、誰にも見せない決意の色が灯っていた。
*
真っ白な試練の部屋に、ふいに光が満ちた。
中央の灰色の石台の上に淡い光柱が立ちのぼる。
光はゆっくり形を持ち、やがて一人のエルフの姿へ収束していった。
「……大丈夫か?」
真っ先に声をかけたのはダリウスだった。
肩に力が入っている。声も、いつもよりわずかに硬い。
エリーはうっすらと目を開け、彼を一瞥する。
「ええ。私の場合は、特殊だから」
エリーは頭の奥で、さきほど抜き取られた空白の大きさだけを淡々と確かめる。
千年分——数字としては把握できても、そのあいだ両親と笑い、友人たちと歩いたはずだということを示す絵は、一枚も残っていない。
エドガーが一歩近づき、心配そうに顔を覗き込んだ。
言い方も口調も、いつも通りのはずだった。
だが、どこか「温度」を測りかねるような薄さが混じっている。
「本当に……?」
眉根を寄せた視線を、エリーは正面から受け止めた。
そして、ふっと片目を閉じ、いたずらっぽくウィンクしてみせる。
「心配無用よ」
唇の端を少しだけ上げる。
彼女にしては珍しく、わかりやすい微笑だった。
エドガーは一瞬、言葉を失う。
だがエリーはもう彼を見ていない。くるりと踵を返すと、透き通るような青い髪を揺らし、何事もなかったかのように出口へ向かって歩き出す。
細い背中。
白い部屋を切り裂く青の軌跡。
その後ろ姿を、エドガーはじっと見送った。
(……何かが)
言葉にならない違和感が、胸のどこかに引っかかる。
仕草も、声も、笑い方も、いつものエリーだ。
それなのに。
(何かが、欠けている……?)
喉の奥まで出かかったその感覚を、彼は飲み込んだ。
代わりに軽く息をつき、皆と同じように歩き出す。
視線の先では、青髪のエルフが、あたかも何も失っていないかのような足取りで、塔の奥へ進んでいくのだった。