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給湯室は廊下の突き当りを少し入った所にある。そんなに頻繁に人が出入りする場所ではないから、普段は消灯されている。
灯りをつけてマグカップを洗っていると、背後に人の気配を感じた。振り返ってどきりとする。太田が立っていた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
緊張で顔が強張りそうになった。しかしそれをごまかすように手元のマグカップを拭きながら、目を上げないまま彼に訊ねる。
「太田さんもコーヒー飲みます?」
「淹れるんなら、ついでにもらおうかな」
太田は私の隣に立ち、手にしていたマグカップをシンクに置いた。
「洗いますね」
言いながらカップに手を伸ばそうとした時、太田の腕が体に巻き付いた。
「やめてください。こんなところ、誰かに見られたりしたら困ります」
私は身をよじって離れようとした。しかし太田に強く抱き締められて動けない。
「俺は見られても構わないよ。それよりさ、俺のメッセージ、見てくれた?夕べ送ったのが、まだ既読になってなかったんだけど」
「あ、それは……」
頭の中で慌てて言い訳を考えた。喉の奥が締まりそうになるのを励まし、この嘘を信じてくれることを祈りながら答える。
「ごめんなさい。あの、夕べはお風呂の後すぐに寝てしまったから。疲れてたみたいで。今朝は今朝で寝坊して急いでいたから、それでまだゆっくり見てなかったの……」
「幹事役、大変だったろうからな。疲れたんだろう」
太田の優しい声に、信じてくれたらしいとほっとする。
しかし、彼は私の耳に歯を立てて言った。
「よそ見するなよ」
「よ、よそ見って何のことですか?」
「お前、あの男のことが気になってるだろ」
どきりとした。誰のことを指して言っているのか分かったが、私は分からないふりをする。
「あの男って?」
「とぼけるのか?北川のことだよ。夕べの飲み会であの男ばかり見てたじゃないか」
「北川さん?それは私、幹事だったから……。他のみんなと仲良くできているのかなって気になっただけで……」
「いい大人なんだから、そんなこと、いちいち気にかけてやる必要なんかないだろ。今朝もあいつに笑いかけてたよな。打ち解けた雰囲気でさ。気に食わないんだよ。……とにかく」
太田はわざと息を吹きかけて、私の耳元に囁く。
「前にも言ったはずだけど、俺以外の男をあんな目で見るのは許さないからな」
「あんな目って何……」
太田の腕に力が込められて苦しい。
「離して。苦しいわ……」
「あいつに見せる笹本の表情が全部、本当に無意識のことだとしたら、余計に許せない。なぁ、頼むから俺を不安にさせないでくれよ。今夜行くから、俺の気のせいだった思わせてくれ」
「待って……。今夜は友達と食事に行く約束があるって、私、言ったはずですよね」
しかし太田は事も無げに言う。
「そんなのキャンセルしろよ」
「そんなわけにはいかないわ」
ようやく腕を解いた太田は、私の髪を指に巻きつけながら訊ねる。
「何時頃に終わるんだ?帰りは迎えに行く」
「はっきりとは分からないわ。それに、自分で帰れるから迎えは必要ないです」
「俺が迎えに行ったら何かまずいのか?」
太田は私の顔をのぞきこむ。
「その友達って、男じゃないだろうな」
「女の子よ。大学時代からの」
「それなら、俺が迎えに行っても全然問題ないよな?店とだいたいの時間、あとでメールしておいて。分かった?」
太田は低い声で念を押す。
頷くのをためらっていると、彼は苛立った顔で私のブラウスの襟をいきなりぐいっと開いた。私の肩を抱き首筋を強く吸う。
「っ……」
「念のための虫よけな」
太田はしばらくそのキスマークを満足そうに見ていたが、急に気が変わったように言う。
「やっぱ、コーヒーはいいや。じゃあな。連絡、忘れるなよ」