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紫陽花
#デートDV
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太田がいなくなってから、私はようやく全身の緊張を解いた。深々とため息をつき、乱れた襟を直してから、コーヒーを淹れるための準備を改めて始めた。
粉を入れ、後はお湯を入れるだけだとポットに手をかけた時、再び背後に人の気配を感じた。まさか太田が再び戻ってきたのかとどきどきし、全身が強張った。しかし、恐る恐る振り向いたそこにいたのは、北川だった。緊張が一気に解けてしまったせいか、彼の下の名前をうっかり口にしてしまう。
「拓真君――」
彼は困惑しつつも、嬉しそうな顔をした。
「笹本さん、自分から言い出した約束、忘れていますよ」
「あ……」
私は「しまった」と目を泳がせた。
彼はふっと頬を綻ばせ、砕けた口調で言う。
「手伝いに来た。全員分のコーヒーを一人で持ってくるのは、大変なんじゃないかと思って。ここでは俺が一番の新入りだしね。……ところで、何かあった?」
「え?」
「なんだか様子が変だから」
北川は気遣うような目で私を見ていた。
私は慌てて表情を取り繕う。
「気のせいよ」
「そうは思えないけどね。さっきそこで、経理課の太田さんとすれ違った。彼もここにいたんじゃない?彼と何かあった?」
北川は私の目をじっと見つめたまま話し続ける。
「太田さんとすれ違った時、普通に挨拶をしたんだけど、なぜか彼から睨まれた。俺、彼から敵意を向けられるようなことは、何もしてないはずなんだけどね。どうしてなんだろうな」
「さぁ……」
私は北川から目を逸らした。心当たりはあった。太田は恐らく、私の気持ちが揺れていることに気づき始めている。その原因を作ったのが北川であることにも。だから、北川に対して敵意を見せたのだろう。けれど、この推測を北川に話すことはできない。
「偶然そう見えただけじゃないかな。太田さんって、目が悪いらしいから」
「ふぅん……?」
北川の顔つきから見て、明らかに納得していなかった。しかし、彼は諦めたようにため息をつく。
「分かった。今は聞かない。その代わり、夕べ会った時に言いそびれたことを言わせて。この前も言ったけど、俺との時間を作ってほしい。できれば早いうちに。例えば再来週の月曜の夜は空いている?」
「多分、空いているとは思うけど……」
迷いつつ答えながら、数日前に交わした太田との会話を思い出す。確か彼はその日、出張だったはずだ。丸一日出かけっ放しになるから会えないのだと、とても残念そうに言っていた。だから、その日ならきっと大丈夫だ。
「時間と場所は、早めに決めて連絡するよ。それでいい?」
私はこくんと首を縦に振り、もじもじしながら小さな声で言う。
「待ってる」
「うん、待ってて」
北川の顔に嬉しそうな微笑みが浮かんだ。
彼の笑顔を目にして、胸が高鳴った。しかしその鼓動にストップをかけるかのように、コーヒーの香りが鼻先を撫でた。コーヒーを淹れるという作業が、まだ残っていたことを思い出し、私はマグカップに手を伸ばした。
「早く持って行かなきゃ。みんな、待ってるわ」
北川が私の手を止める。
「俺がやるよ」
「大丈夫。私がやるから」
「いいから、そこで大人しく見ていて。俺にもできるんだから。知ってるでしょ?」
「……それなら、お任せします」
彼は手際よく、次々とマグカップに湯を注いでいった。その滑らかな動きを眺めながら、ふと思う。
もしもあの時、彼から逃げないでいたら、今のような穏やかな時間を彼と共に過ごしていたのだろうか――。
しかし、私は慌ててその妄想を打ち消した。あの時こうだったら、などと後悔している場合ではない。今の私には、とにかく早急に解決しなければならない問題がある。太田が職場にいてまで嫉妬心を露わにするようになっている。束縛するような言動も今まで以上に増えている。そんな彼から早く離れなければならないと、重たいため息が唇から漏れそうになった。そこに北川の穏やかな声が聞こえる。
「終わったよ」
はっとして見上げた北川の顔は、なぜか達成感に満ちていた。その様子が微笑ましく、私の口元は自然と綻ぶ。
「ありがとう。助かったわ」
「どういたしまして。半分ずつ持とうか」
「そうだね」
私たちはそれぞれにトレイを持ち、注意深い足取りで給湯室を出た。
オフィスに向かう廊下を、私は北川の後に着いて歩いていく。彼の広い背中がふと目に入り、恋人として付き合っていた頃の記憶が次々と蘇ってきた。私の胸はあっという間に、苦しいほどの懐かしさでいっぱいになっていた。