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太田が給湯室を出て行った後、私はようやく息をついた。彼がいる間ずっと緊張していた。乱れた襟を直してから、コーヒーを淹れる準備を始める。
粉を入れ、後はお湯を入れるだけだとポットに手をかけた時、再び背後に人の気配を感じてどきっとした。太田がまた戻ってきたのかと全身が強張る。しかし、恐る恐る振り向いたそこにいたのは北川だった。途端に緊張が一気に解け、うっかり彼の下の名前を呼んでしまう。
「拓真君――」
彼は困惑しつつも、嬉しそうな顔をして言う。
「笹本さん、自分から言い出した約束、忘れていますよ」
「あ……」
しまったと目を泳がせている私に彼は笑いかける。
「手伝いに来た。全員分のコーヒーを一人で持ってくるのは、大変なんじゃないかと思って。ここでは俺が一番の新入りだしね。……ところで、何かあった?」
「え?」
「なんだか様子が変だから」
北川は気遣うような目で私を見ている。
私は表情を取り繕う。
「気のせいじゃない?」
「そうは思えないけど……。さっきそこで太田さんとすれ違った。彼もここにいたんじゃない?彼と何かあった?」
北川は私の目をじっと見つめる。
「太田さんとすれ違った時、普通に挨拶をしたんだけど、なぜか彼から睨まれた。俺、彼から敵意を向けられるようなことは、何もしてないはずなんだけど。……これって、どうしてだろうな」
「さぁ……」
私は北川から目を逸らす。心当たりはあった。恐らく太田は、私の気持ちが揺れていることに気がつき始めている。だから北川に敵意ある態度を取ったのだろう。しかし、この推測を北川には話せない。
「偶然そう見えただけじゃないかな。太田さんって、目が悪いらしいから」
「ふぅん……?」
北川は明らかに納得していない。しかし、諦めたようにため息をつく。
「分かった。今は聞かない。その代わり、夕べ会った時に言いそびれたことを言わせて。この前も言ったけど、俺との時間を作ってほしい。できれば今夜にでも」
資料室での北川との約束はしっかり覚えている。しかし急すぎる。太田にも言ったように、今夜は友達との約束がある。
「ごめんなさい、今夜は先約があるの」
「……それって、太田さん?」
「まさか違うわ」
思いの外強い口調で否定してしまい、そんな自分に自分で驚く。
「大学時代の友達よ」
「そう。分かった。それじゃあ、例えば再来週の月曜の夜は?」
「多分、空いていると思うけど……」
迷いつつ答えながら、数日前に交わした太田との会話を思い出す。その日は丸一日出張だから会えないと残念そうに言っていた。だから、その日なら大丈夫だろう。
「時間と場所はメッセージを入れるよ。いいかな?」
私はこくんと頷き、もじもじしながら小声で言う。
「待ってる」
「うん、待ってて」
北川は嬉しそうに微笑んだ。
彼の笑顔に胸が高鳴り出した時、コーヒーの香りが鼻先を撫でる。はっとした。コーヒーを淹れるという作業が、途中で止まっていた。私はマグカップに手を伸ばす。
「早く持って行かないと」
北川が私の手を止める。
「俺がやるよ」
「私がやるわ」
「いいからそこで大人しく見ていて。俺にもできるんだから」
「……それなら、お任せします」
彼は手際よく次々とマグカップに湯を注いでいく。その滑らかな動きを眺めながら、ふと思う。
あの時彼から逃げなかったら、私は彼と穏やかな時間を過ごしていたのだろうか――。
しかしその考えを慌てて打ち消す。あの時こうだったらなどと後悔している場合ではない。私には早急に解決しなければならないことがあるのだ。太田は職場でまで嫉妬心を露わにするようになった。束縛するような言動も増えている。そんな彼から早く解放されたい。
重いため息が漏れそうになったところに北川の声が聞こえた。私は我に返る。
「終わったよ」
なぜか達成感に満ちた様子が微笑ましい。私の口元は自然と綻ぶ。
「ありがとう。助かったわ」
「どういたしまして。半分ずつ持とうか」
「そうだね」
私たちはそれぞれにトレイを持ち、注意深い足取りでオフィスに戻る。
私は北川のやや後ろを歩いていた。広いその背中を見ているうちに、彼との恋人時代の思い出が次々と蘇ってきて、胸の中は苦しいほどの懐かしさでいっぱいになっていた。