テラーノベル
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病棟の窓から見える夕焼けは、今日も変わらず綺麗だった。
僕は、その景色を見上げてある日のことを思い出していた。
ナースになって何年も経つ。
たくさんの患者さんを見送ってきた。
けれど、今でも忘れられない人がいる。
元貴くん。
二十歳という若さで亡くなった。
彼は血液のがんと闘っていた。
長い入院生活。
何度も、何度も治療を重ねた。
けれど病気は容赦なく彼の身体を蝕み続けた。
残された時間は、もうわずかだった。
その事実を知っているのは、ご両親と医療スタッフだけ。
僕は病室へ向かうたび、胸が苦しくなった。
何を言えばいいのかわからなかった。
頑張れなんて言えない。
大丈夫なんて無責任なことも言えない。
ただ、後悔だけはしてほしくない。
それだけを願っていた。
元貴くんは人工呼吸器をつけていた。
喉には気管切開の穴が開いている。
病室には規則正しい機械音だけが響いていた。
彼は声を出せない。
動かせるのは首から上だけ。
視線とまばたきで気持ちを伝えていた。
ある日の午後。
病室には私と元貴くんだけ。
私は五十音ボードを持ち、彼の視線を追っていた。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
「も」
「う」
「か」
「ぞ」
「く」
私は息を呑んだ。
元貴くんは続けた。
「か」
「な」
「し」
「ま」
「せ」
「た」
「く」
「な」
「い」
読み上げた瞬間、言葉が詰まった。
彼は悟っていたのだ。
自分の命がもう長くないことを。
そして、自分自身よりも先に、ご両親のことを考えていた。
涙が出そうになった。
だけど僕は看護師だ。
患者の前で泣いてはいけない。
そう思いながら笑顔を作った。
「元貴くん。」
僕は静かに尋ねた。
「何かないかな。」
「僕たちにできること。」
「何かしてほしいこと。」
しばらく沈黙が続いた。
そして彼はまた視線を動かした。
「お」
「か」
「あ」
「さ」
「ん」
私は読み続ける。
「の」
「り」
「ょ」
「う」
「り」
胸が熱くなる。
「た」
「べ」
「た」
「い」
そこまで読んだ瞬間。
私は思わず目を閉じた。
お母さんの料理。
たったそれだけだった。
高価なものでもない。
特別な願いでもない。
ただ、大好きだった家の味をもう一度食べたい。
それだけだった。
「わかった。」
私は答えた。
「なんとかする。」
絶対に叶えたい。
そう思った。
そこから準備が始まった。
主治医。
言語聴覚士。
理学療法士。
臨床工学技士。
たくさんの人が力を貸してくれた。
何日もかけて検討した。
本当に食べられるのか。
安全に飲み込めるのか。
みんなが真剣だった。
そして迎えた当日。
お母さんが持ってきたのは肉じゃがだった。
元貴くんの大好物。
病室にはたくさんのスタッフが集まった。
みんな緊張していた。
僕はスプーンを手に取る。
小さくすり潰した肉じゃがをすくう。
そしてゆっくりと口元へ運んだ。
元貴くんは飲み込んだ。
誰も息をしていないんじゃないかと思うくらい静かだった。
数秒後。
彼が笑った。
満面の笑みだった。
声にはならない。
でも口が動いた。
「おいしい」
そう言ったのがわかった。
その瞬間だった。
お母さんが泣いた。
お父さんも泣いた。
気づけば僕も泣いていた。
病室中が笑顔と涙に包まれた。
あの温かい空気を忘れることはないだろう。
数日後。
お父さんが私を廊下で呼び止めた。
少し照れたように笑いながら言った。
「実はね。」
「元貴が大人になったら、一緒に飲もうと思っていたワインがあるんです。」
私は目を見開いた。
「二十歳になったら開けようって決めてたんです。」
その声は少し震えていた。
結局、一緒に飲む未来は来なかった。
だけど。
その願いも叶えてあげたかった。
関係者に相談し、許可を得て。
ほんの一口だけ。
とろみをつけた赤ワインを。
お父さんと一緒に。
元貴くんは少しだけ顔をしかめて。
それから笑った。
大人の味だったのだろう。
病室のみんなも笑った。
それが私の見た、彼の最後の笑顔だった。
それから数日後。
元貴くんは静かに旅立った。
病室にはご両親の泣き声が響いていた。
胸が張り裂けそうだった。
けれど私は、元貴くんから大切なことを教わった。
人は最期のときまで、誰かを想うことができる。
元貴くんが願っていたのは、自分のことではなかった。
お父さんとお母さんの未来だった。
だから私は忘れない。
「おいしい」と笑ったあの日の顔を。
あの笑顔が、今も私を看護師でいさせてくれる。
コメント
2件
朝から号泣です😭 優しいお話、ありがとうございました😭😭😭
え、ちょっと待って…これ、涙が止まらないんですけど😭💦💦 元貴くんが最後に「お母さんの料理食べたい」って伝えたシーン、ホントにもう胸がぎゅーってなった…。声出せないのに想いを紡ぐ姿と、それに応えたスタッフみんなの連携が尊すぎて泣いた。ワインのエピソードも「大人の味」に笑った瞬間、完全にやられた…。こんなに人の心を動かせる物語、読めてよかったです。ゆめか、永遠に忘れないです、この笑顔🌸✨