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井垣の家に来て初めて迎えた朝。
朝五時になると起きて身支度を済ませた。
通っている公立高校の制服の上にエプロンをつけ、部屋を出る。
住み込みのお手伝いさんの町子さんがすでに台所に立ち、朝食の準備をしていた。
「早いね。六時でいいんだよ」
「感心だねぇ」
年配の人ばかりで慣れた手付きから、長年この家で働いてきたのだとわかった。
「私はなにをすればいいですか?」
「そうだね。大旦那様に新聞を渡して朝食を運んでくれるだけで十分だよ」
「え?それだけですか?」
「いいの、いいの。実際のところ、手は足りてるんだから……」
私にそう答えた人は町子さんに肘でドンッと突かれていた。
手は足りているけど、使用人扱い―――つまり、芙由江さんが私を井垣の娘として認めたくなかったということだろう。
気まずい空気が流れて、私は苦笑した。
「わかりました。お祖父さんの様子を見てきます」
新聞を受け取り、私は台所を後にした。
長い廊下を歩き、襖をとんとんっと叩くと声がした。
「入れ」
「おはようございます」
そっと部屋に入ると、もう起きていた。
まだ暗い窓の外を眺めていたらしい。
「カーテンを開けたままだと寒くないですか?なにか羽織るものをだしましょうか?」
「いい。朝、早いな」
「母と暮らしている時は私が家事をしていましたから、早起きにはなれているんです」
新聞を渡すとお祖父さんは軽く頭を下げた。
町子さんが届けてくれたのか、着替えもきちんと用意されている。
「もうすぐ朝食なので、着替えますか?」
着替えさせようとすると、叱られた。
「まだそこまで老いぼれておらん!」
「じゃあ、起き上がるのに手を貸しますね」
よいしょ、と立ち上がるのを手伝うと、お祖父さんは驚いていた。
「なれているな」
「母が病気だったので」
「そうか」
それ以上は何も聞かれなかった。
その方がありがたかった。
まだ母が亡くなったことが辛すぎて、話すと泣いてしまいそうになる。
お祖父さんの着物は茶色の牛首紬に波の模様が入っているもので、黄色の帯には草の蔦模様が刺繍されている。
「お洒落ですね」
「普通だ」
着替えると新聞をベッドから離れたテーブルに置くと、手を差し出した。
「なんだ」
「今から朝食を持ってきます」
「ベッドで食べる」
「少し動いた方が気分も変わっていいですよ」
そう声をかけると、お祖父さんも納得してくれたのか、私の手をとって車イスに乗ってくれた。
テーブルのところまで押して新聞を渡すと、さっきまでへの字を描いていた口が優しいものに変わっていた。
「朝食をいただいてくるので、待っていてくださいね」
「ああ」
お祖父さんは新聞を広げずに私を見て、わずかに微笑んだ。
芙由江さんや紗耶香さんが言うほど、お祖父さんは酷い人ではない。
私が来た時に『はやいな』と言ったのはお祖父さんが町子さん達に私の時間もやる仕事も簡単なものにするように決めたに違いなかった。
動けない体でも私を庇ってくれているのがわかって私はそれだけでじゅうぶんすぎるくらい嬉しかった。
台所に行くと町子さんがお祖父さんの朝食をすでに準備してくれてあった。
「大旦那様のご機嫌はどうだった?」
「とてもよかったですよ」
「そうかい。大旦那様のご機嫌がよろしかったなら、それで万事いいんだよ」
町子さんはホッとしたようだった。
「機嫌が悪いと、朝から怒鳴りつけられるからね」
「それは町子さんが鶏みたいにおしゃべりでうるさいからですよ」
他の人に言われ、町子さんはムッとしていた。
確かに町子さんはおしゃべりだった。
「お祖父さんの朝食をいただいていきますね」
お祖父さんの朝食は豪華だった。
塩鮭に温泉卵、ネギをのせた冷奴、サラダにご飯、みそ汁、デザートにはオレンジがついている。
朝ごはんを持っていくと、お祖父さんの前に置いた。
「とてもおいしそうですよ」
「いつもと変わらん」
食欲がないのか、お祖父さんは食べようとしない。
「魚をほぐしましょうか」
「自分で食べる。病人扱いするな」
そう言うと箸をとって食べ始めた。
確かにしっかりしていて、食べ方も綺麗だった。
目の前の椅子で座って眺めているとお祖父さんは私に言った。
「じろじろみるな」
「すみません」
「学校があるだろう。自分の食事をしてきたらどうだ」
「はい」
確かに人に見られていると食べにくいと思う。
ふたたび台所に戻ると、大盛りの朝食が準備されていた。
町子達さんと私の朝の食事は昨日の晩の残り物だった。
「悪いねぇ……。奥様が私達と同じものをって言っていたもんだから」
「いえ。おいしいです」
大根と豚バラ肉の煮物と味噌汁、ごはん、漬物。
そんな申し訳なくなるような内容ではなかった。
「朝食を用意してもらえるだけで十分です。煮物もすごくおいしいです」
大根と豚バラの煮物は昨晩よりずっと味が染みていて、ご飯によくあう甘辛味になっていた。
これは二日目だからこその味わいだった。
「そうかい?おかわりもあるよ。旦那様も父親なのに庇いもせず、冷たいもんだね」
「いいんです。学費を払ってもらえるだけで感謝してますから」
「学費を払っているのは大旦那様だけどね」
「そうそう。旦那様にお金の管理なんてできるわけないわよ」
使用人達の中ではお祖父さんより父のほうが評判が悪いようだった。
「旦那様は本当に冷たい方だよ。同じ娘なのにこんなに差をつけて」
「いいんです。生まれた時から一緒に暮らしていたわけじゃありませんから」
いきなり一緒に暮らして、『家族です』と言うのも無理がある。
きっと父もそう。
だから、異母妹である紗耶香さんを僻む気持ちもわいてこない。
他人の家に引き取られたと思えば、たいしたことはない。
朝食を食べ終え、お祖父さんの部屋に戻った。
「お祖父さん。入りますね」
襖戸を開けるとお祖父さんは驚いていた。
もう来ないと思っていたらしい。
「どうした?なにか用か」
「いってきます」
「……あ?ああ、いってらっしゃい」
反射的にお祖父さんは口に出ていたらしく、自分で自分の言ったことに戸惑っている様子だった。
学生鞄を手にし、玄関に出る。
私が通っていた高校までは自転車で通える距離で、昨日のうちに私の段ボールに入った荷物と自転車は運んでもらった。
家の裏口の軒下にとめてあり、その自転車を押しながら玄関前の庭に出ると、ちょうど玄関から出てきた紗耶香さんと鉢合わせした。
「おはようございます」
「おはよう。朱加里」
紗耶香さんはサラサラの長い髪に白い肌、お化粧をして、ブランドのバッグを持っていた。
遊びに行くんじゃなくて、高校に行くんだよね?と確認したいくらい派手だった。
「あら。朱加里は公立高校なの?」
沙耶香さんは私に気づき、頭から足元までじろじろと見ると、笑いをこえらえながら言った。
「やだ。すごく地味ね。規則が厳しい高校なのかしら?」
「私が通う高校はみんな、似たようなかんじですね」
お金持ちばかりが通うような私立とは違う。
「まあ、そうなの。私、エスカレーター式の学校だから、よそを知らないの」
「そうですか」
「あら。朱加里は自転車なの?私だけ車通学なんて心苦しいわ」
「大丈夫です。自転車通学にはなれていますから」
「そう。それじゃあ、お先に」
沙耶香さんは微笑み、車に乗るとドアを閉めた。
昨日の運転手さんと同じ人なのか、私を見て軽く会釈し、運転席に乗った。
私に申し訳なく思う必要はない。
私が黒塗りの車で登校したら、学校中が大騒ぎになる。
制服が地味なことも私は気にしてない。
通っているのは公立の中でも一番偏差値が高い学校で、猛勉強をして入学した思い入れのある学校だった。
それに高校に合格した時、お母さんが喜んでくれた学校でもある。
きちんと卒業したい。
そう思っていた。
小高い場所にある井垣の家からは海が見えた。
眺めはいいけど、帰りは大変そうだ。
特にこの坂を上るのは。
私が自転車で困ることといえば、それくらいだった。