私が井垣の家に引き取られ、しばらくした頃、私も段々家の内情がわかって来た。
お祖父さんには父も敵わないらしく、お伺いをたててから、なんでもやるようにしているようだった。
仕事の話だろうけど、『これでいいですか』『あれはどうですか』と、ずっと話しかけているのでお祖父さんが疲れてしまわないか心配だった。
そして、芙由江さんは金遣いが荒いらしく、よくお祖父さんにお金の無心に来ていた。
宝石やブランドバッグ、洋服にお金を使っているらしい。
紗耶香さんも同じでお金がなくなるとお祖父さんのところにやってくる。
確かにこれじゃ、人間不信にもなる。
「なにか欲しいものはないか」
お祖父さんは私に気遣ってか、そう声をかけてくれたけど、欲しいものはない。
必要なものを買えるだけのお金だけいただいている。
それで十分だった。
「ありませんよ」
「欲のないことだ」
私が本当に欲しいものは手に入らない。
井垣の家に引き取られ、クリスマスが終わり、お正月が過ぎた。
賑やかな父の家族団欒の様子を遠巻きに眺めていた。
その後の冬休みはハワイにでかけて、なかなか帰ってこず、紗耶香さんは学校を数日お休みしていた。
私はと言えば、使用人の人達と一緒にすごし、お祖父さんの世話をしながら、受験勉強を始めていた。
本当は高校を卒業してから、働くつもりだったのだけど、お祖父さんが大学の学費を出してくれると言ったので、受験することに決めた。
春からは高校三年生になる。
「今日は暖かいな」
「そうですね」
お祖父さんの部屋で勉強をしていた私は椅子から立ち上がり、カーテンを少し閉めた。
雪も降らなくなった暖かな日。
窓から差し込む明るい日差しに春が近づいているのがわかった。
眩しい日差しがカーテンで遮られたからか、うとうととお祖父さんが微睡んでいる。
今の間に今日のおやつを作ろうと、廊下に出ると台所前で紗耶香さんと鉢合わせした。
落ち着きなく、そわそわとしていて、私にいつもなら嫌味のひとつも言うのに今日はそんな余裕もないようだった。
「紗耶香さんがずっと玄関前の廊下をウロウロしているんですけど、なにかあるんですか?」
台所にいた町子さんに聞いてみた。
「王子様がくるんだよ」
今の時代に王子様?
町子さん達も心なしかそわそわしている。
本物の王子様ってわけではなさそうだけど。
とりあえず、今は王子様よりオーブンの中のマフィンだ。
板チョコを手で割って、生地にいれただけの簡単なマフィン。
でも、お菓子を作るとお祖父さんがおいしいと言って食べてくれるので、時間がある時はお菓子を作るようにしている。
簡単なお菓子しか作れないけど……
「お祖父さんにおやつを持って行きますね」
「カップケーキだね」
「マフィンです」
「そう。それそれ」
町子さんとは同じやり取りを何度かしていた。
焼き上がると甘い匂いがしてきて、つまみ食いしてしまいそうになるけど、それを耐えて、棚から手動のコーヒーミルを取り出した。
ガリガリと豆を挽く。
お祖父さんはコーヒーが好きなのではと最近、気づいた。
台所にコーヒーをいれる道具が揃っていたから、そうじゃないかなと思っていた。
豆は学校の帰り道、コーヒー豆専門店でお薦めのを買ってきた。
さすがにコーヒー豆の好みまではわからない。
お祖父さんが気に入っている有田焼のコーヒーカップを用意して、隣にチョコが入ったマフィンを皿にのせて、おしぼりをつける。
「朱加里さんがこの家に来てから、大旦那様は明るくなられたよ」
「そうですか?」
そんなに変わってないと思うけど、私はそう言われたことが嬉しかった。
準備したおやつを手に部屋へと向かう。
襖を軽くノックして部屋に入ると、お祖父さんは眠っていたようで、目を開けてぼんやりと天井をながめていた。
ドキッとして慌てて声をかけた。
「お祖父さん。おやつを持ってきました。今日はチョコマフィンです」
「ああ……。ありがとう」
体を起こして羽織を着せた。
体重も増え、体調もいいと聞いていたから、心配ないはずだった。
コーヒーを一口飲むと、お祖父さんは目を細めた。
「懐かしいな。ここのブレンドコーヒーをよく妻と飲んだ」
「そうなんですか?よかった。わからなかったので、お店の人に聞いたんですよ」
「昔はこの近辺の喫茶店に入ると、ここの豆を挽いたコーヒーを飲めたものだ」
お祖父さんはそう言ったけど、井垣の家の周りには喫茶店は見当たらなかった。
昔今ではコーヒー豆専門店でコーヒーとちょっとした軽食が出てくるくらいで、港の方に大きなショッビングモールがあり商店街はほとんどシャッターがおりていた。
「朱加里。今年で十八になるんだったな」
「はい。そうです」
「高校を卒業したら、ここを出ていくのか?」
「お祖父さんが生きている間はここの家にお世話になるつもりです」
「出ていきたいなら、かまわん。生活費は出そう」
「いいえ。そこまでご迷惑はかけられません」
できたら、お祖父さんのそばにいたいと思っていた。
一緒に住んでみて、わかったけれど、父も芙由江さんも紗耶香さんもお祖父さんとお金のこと以外、一切関わらなかった。
気が合わないとよく芙由江さんは愚痴っていた。
それなら、別々に暮らせばいいのにと思ったけれど―――
『病気の年寄りを私達が世話をしている。財産は私達の物』
―――と主張するために一緒に暮らしているらしい。
どちらかといえば、お祖父さんが父の仕事のフォローをしたり、芙由江さんがデパートの外商から後払いで購入し、そのまま支払わずにいたものを支払ったり……は、ということは今はもうないのだろう。
明らかに面倒をかけてるのはあなた達なんですがと、ツッコミをいれたいくらいだった。
ご厄介になってる身としては父に偉そうに言えないけど、井垣家の内情はしっかり理解できた。
「まあ、いいだろう。わしが生きていられるのも長くて後二、三年だ。」
「そんなこと言わないで長生きしてください」
「ふん」
いてほしいって素直に言えばいいのに。
素直じゃないんだから。
そう思っていると、玄関の方がザワザワとして、騒がしくなった。
この奥の部屋にまで聞こえてくるなんて、なにがあったんだろうか。
お祖父さんの顔を見ると目を細めて笑っていた。
「来たか」
「誰が来たんですか?」
「悪い男だ。気を付けろ。わしの若い時には及ばないが、なかなかの男前だからな」
自分で言う?
仕事関係の人なのかもしれない。
それとも、町子さんが言っていた王子様だろうか。
廊下を歩く音がして、部屋の前で止まる。
「井垣会長。白河壱都です。ご挨拶に参りました」
「入れ」
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