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当時5歳だった公爵令嬢に何が行われていたかについて、説明するつもりはない。
端的に「虐待」の二文字で事足りるからだ。
「酷い」
若き魔法使いがヴィドール公爵家の地下牢に目を向けると、言葉が口を突いた。
ヴィドール家の夫人は歪曲された表現で、これは前妻の子で、病気なので矯正が必要で、だからここに入れているのだと。概ねそんなことを言う。
人の扱いじゃない。
言葉を飲み込んで、継母を肯定する。あなたの施術は魔術的にもとても理に適っていますね。とても素人とは思えません。確かにご令嬢は……と嘘をつくと。嬉しかったのか、継母はまたころころと鈴のように笑い出した。
魔法使いが令嬢を見やる。
外傷に衰弱、栄養失調。
ヴィドール家がまともでないことだけは確かだった。
自分の娘でないというだけで、ここまでできるものなのか。
より深刻なのは心の方だ。ひび割れ、砕けかけている。魔法で回復することもできるが、そんなことをしても環境は変わらない。修繕と破壊の繰り返しは、心をどこまでもすり潰すだろう。
魔法使いはでまかせとおべっかで継母のきもちを盛り上げながら、頭では別のことを考えてゆく。
このまま少女をさらって逃げることはできない。
ヴィドール家はランバルド国の軍事を担う家系だ。娘を連れ出した魔法使いを制圧するなど容易い。もう少しこの手足が長ければ、抱えて逃げることもできただろうが、それにはもう5年ほど時が必要だった。
別の方法で守るしかない。
たとえそれがより残酷な仕打ちになるとしても。
「奥様、申し上げにくいのですが、ご令嬢の病は深刻です。これはあなた方のせいではなく彼女の生まれ持った業によるものでしょう。これほどまでに強力な病に対抗しようとなると、相応の手を使わざるを得ません」
娘がおかしいのは自分のせいではないと言われた継母は満足げにうなずく。存外、魔法使いを呼んだのは娘を治すためではなく、自分はまともだと言われたかったからなのだろう。
継母を糾弾したい気持ちに駆られながら、魔法使いはおだて続ける。
「強い魔法です。巻き込まれるといけませんので、どうか地上へ。僕がもう安全だと言うまで、けして降りてきてはいけませんよ」
檻の鍵を開けさせて、継母を一階に送る。
振り返ると闇の中で、くすんだ雪のように白い髪が、かすかに揺れた。
「だ、れ?」
5歳の少女がこちらを見る。
こちらを見ているはずなのに、どこを見ているかわからなかった。
この子はこれから自分の身に何が起きるか知りもしないのだ。
魔法使いが杖を掲げると、令嬢の心は凍りついた。
効果は劇的だった。
咳の度に痛む肺も、暴力に軋む肢体も、壊れかけた心も、感覚を失った。
砕け散りそうだった心は冬につながれ、視界はぼやけ、感情は失われた。
どこを見ているのかわからなかった瞳が、何も映さなくなった。
「……あ、あ」
思考は停滞し、何かを考えようとしても、すぐに凍り付いてしまう。口を開いてみても、開いた時には何を話そうとしていたのかわからない。心も、意思も、凍り付き、思い出せなくなっていく。
混濁する意識の中、令嬢は最後に呟いた。
「おう、じさま……」
魔法使いにはその意味がわからなかった。
今はまだ。
魔法使いは少し遅れて「そうだね。きっと王子様が助けてくれるよ」となぐさめを言う。
魔法が心を凍らせていく。
魔法使いの優しい顔も、穏やかな声も、透明な記憶の結晶となって忘れられていく。
かくして、少女の心は氷の棺に納められた。
この魔法を解く方法はただひとつ、愛されること。
春が来るまで凍てつく魔法は、心を守り続けるだろう。
長い長い冬を越え、温かい春が来るまで。