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土曜日のデートが終わった後も一野瀬部長は連絡をくれた。
『楽しかった』とか『月曜日に会社で会おう』とか。
完全に恋人同士の会話。
月曜日の朝なのに少しも憂鬱じゃない。
――さあ! 来たれ、月曜日! 今日の私はひと味違うわよ!
いつも以上にノリノリで、BLアニメの主題歌を歌いながら、会社に行く準備をした。
私に力を与える聖歌のようなものである。
メイクは……ふっと|紀杏《のあ》さんの女の子らしいメイクを思い出した。
ふーむ。たまには可愛い系メイクもあり……?
「無理! 私にあのメイクは似合わない!」
ふんわりキャラでも小動物キャラでもない私。
似合わないメイクをするよりは、いつもの自分スタイルである。
「一野瀬部長だって、そんな私を気に入ってくれたのかもしれないし……」
月曜の朝から、BLアニメの主題歌を歌う私を?
一瞬、下地を塗る手が止まった。
――彼氏ができたら、大好きなBLをやめなきゃいけない? 待て待て。同棲してるわけでもないんだから、その判断は時期尚早。
「BLはもう私の一部で魂よ……? もっと誇りを持て! 私!」
持っていいのかわからないけど、可愛い系のメイクはやめておいた。
ただバッグの色は、黒をやめて春らしいベージュ色のものを選んだ。
昨日のメッセージを思いだし、顔がにやけた。
『五月の連休に旅行へ行こう』
トラブルならぬトラベル!
男の人と二人で旅行なんて初めてである。
どうする?
ねえ、どうする?
ねー、ミニ鈴子って――いないんだった。
シーンと静まり返った部屋にずっと閉じたままのノートパソコン。
今や、一野瀬部長のことで頭がいっぱいで、まったく書けなくなってしまった私。
そして、本棚には大量のBL本(いや、今それはいい)
待って!?
私は大事なことを忘れているんじゃない?
一野瀬部長と付き合っているってことは……
この部屋を見られてしまう可能性がある。
ある程度、親しくなった男女がお互いの部屋に出入りするのは当たり前のこと。
そうなると、このお宝の山はどうしたらいいの?
みんな、どうしているのだろうか。
フラッと私はよろめいた。
ミニ鈴子を失い、次はこのお宝達を失うというの?
そんなの耐えられない。
なにを心の拠り所にして、この先の人生を生きていけばいいのよ!
さっきまでの『旅行どうしよ☆』なんて、馬鹿みたいに浮かれていた自分を叱ってやりたい。
旅行の前に、マイルーム問題である。
『あの大量のBL本をどうしよう』(※捨てるという選択肢はありません)
日本海溝より深く悩んだけれど、なにもいい方法は浮かばない。
どうしたらいい!?
もしかして、私は今、人生の分岐点にいるのではないだろうか。
脳内は天下分け目の大戦争中。
→『ここで腐女子をきっぱり卒業する』
『カミングアウトして一野瀬部長の理解を得る』
さあ、二択ですよ、鈴子。
BL恋愛ゲームで散々選んできた選択肢。
私が目指すエンディングルートはどれだ!
LOVEオアBL。
LOVEはLOVEでも違い過ぎる両者は共存できるのか?
え、選べないよぉぉぉ!
そうだ!
三つめの選択肢が思い浮かんだ。
金庫を買おう。
私しか開けることのできない金庫にBL関連を隠し持てばいいのでは?
あー、天才。
私ってば天才――って、一部屋分のBL本は銀行の金庫レベルじゃないと収納できない。
個人の金庫でまかなえる量じゃないでしょ!
うああああっ!
それにパソコンの中身。
PC版のBLゲーム(R-18)はどうするの? 鈴子?
あれは私の大事な戦歴ではないの?
全消去する勇気は私にはない。
「BLか……一野瀬部長か……」
「俺がどうかした?」
ひ、ひえっ!
思わず、叫び声をあげそうになって口を塞いだ。
気がつくと私は出勤し、会社の自分の机に座っていた。
あんまり悩みが深すぎて、現実世界から自分の意識が飛んでしまっていたようだ。
「生きてます」
「そうだろうな?大丈夫か?」
「頭は大丈夫です(たぶん)」
「具合が悪いなら早退しろよ?」
「元気いっぱいです!」
「そうみたいだな」
怪訝そうな顔で一野瀬部長は私を見ている。
なんだか、ものすごく空回りしているような気がするのは私の思い過ごしだろうか。
「新織。社員旅行の下見に行く日を書き出しておいたから、都合のいい日を選んでくれ」
「は、はい。わかりました」
一野瀬部長の後ろには葉山くんがいる。
にこにこと微笑んでいるのが気になる。
なんだろう。
あの意味ありげな笑みは。
「新織さん。水族館は楽しかった?」
葉山君がそっと小声で聞いてきた。
私と一野瀬部長のデートをどうして葉山君が知ってるの!?
「葉山。行くぞ。社長が待っている」
「あー、はい。すみません」
呼ばれて葉山君は私から離れた。
一緒にいることが多い二人。
一野瀬部長から私と水族館にでかけた話を聞いただけかもしれないし、知っていても不思議じゃない。
つい、気になってしまうのは二人が恋人同士なのでは?という疑いが完全に晴れてないから。
「うーん」
とりあえず、目の前の仕事を終わらせるべく、旅行会社から送られたコースの確認をした。
ゴルフからの温泉コース、エステからの温泉コースに加えて観光コースも加えた。
そして、ここで大事なのは席順や旅館の部屋割。
これは、ベテランの浜田さんに助けてもらおう。
社内の人間関係も反映させないといけないしね。
「浜田さんは……って、いない」
席のほうを見ると珍しく不在だった。
化粧室かな。
ついでに私も行ってこよう。
総務部のフロアから出ると、ちょうど廊下に常務と|遠又《とおまた》課長がいた。
その二人となにか話している|紀杏《のあ》さんが私をちらりと見て、少し笑ったような気がしたのは気のせいだろうか。
それとは逆に私の顔を見て、常務と遠又さんは驚き、まるで逃げるようにして去っていった。
――また何をたくらんでるのやら……
一野瀬部長を蹴落としたくてたまらない遠又課長。
嫌な予感しかしなかった。
残った紀杏さんが、私を見ていることに気づいた。
紀杏さんの手足には包帯が巻かれ、満身創痍という姿。
「どうしたんですか? 怪我ですか?」
そう聞かずにはいられないくらい痛々しい姿だった。
「あら。|貴仁《たかひと》はなにも言ってなかった?」
「え? 一野瀬部長ですか?」
紀杏さんからは甘い香水の香りがする。
デパート一階の香りに似ている。
きっと高い化粧品をバンバン使ってるんだろうな。
「土曜日ね。私、事故にあってしまって。動転したお父様が貴仁を呼んでしまったの。お父様はとても貴仁を頼りにしているから」
「事故? それで、この包帯なんですね。大丈夫なんですか?」
「私より貴仁のことよ!」
「は、はあ……」
一野瀬部長は社長のお気に入りなのは周知の事実だ。
身内みたいに信頼されていると聞いていた。
「貴仁はあなたとのデートだったんですってね、ごめんなさいね」
「いえ。楽しかったですよ」
一野瀬部長の乱れた姿をありがとうございます。
とても素敵でした。
あなたはちょっとした功労者です。
心の中でお礼を言った。
「そう? それならよかったわ。そうだわ。これ、あなたから貴仁に渡してくれる?」
紀杏さんから渡されたのは一野瀬部長のスマホだった。
「病院に忘れていったのよ。ねえ、新織さん? 私と貴仁の仲を疑ってる?」
いえ、むしろ葉山君の方が親しげで、本命じゃないかと気になってますとは言えなかった。
考えたあげく、私は普通のセリフを口にしていた。
「紀杏さんは一野瀬部長のことが好きなんですか?」
「嫌いじゃないわね。だって、私、貴仁のために海外支店から帰ってきたのよ」
少しも悪びれず、紀杏さんはそう言った。
つまりこれは、まだ一野瀬部長のことを好きです宣言――?