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〈銀幕症候群〉。
またの名を〈オーロラ・シンドローム〉。
視界に玉虫色、及び銀色の光線が横断し、物体の視認を著しく阻害する疾病の呼称である。
症状のメカニズムと罹患する原因は、共に解明されていない。
†プロローグ
ココノエは、装着していたヘッドマウントディスプレイを外し、デバイス用のラックに掛ける。
車椅子にもたれ、瞼を閉じたまま深呼吸する。
なるべく口角を上げたまま、ゆっくりと瞼を開ける。まつ毛と前髪の先が視界に映る。
――母が美容院を手配する時期だ
憂鬱だ。無理やり上げている口角が下がりそうになる。
ココノエにとって、美容院に行く事は苦痛でしかなかった。
銀幕症に罹患した者だけが有する白と黒が反転した特徴的な”眼”が備わっている事実をイヤでも実感してしまうからだ。
銀幕症の存在自体は何十年も前から認知されているが、その症例は極めて少数である。
その患者数は、国内では三桁にも満たないだろう。
当然、美容院でもスタッフや客からの注目を一身に集める事となる。
ココノエは、既定ディスプレイの傍らに置いてある処方された点眼薬を手に取り、絞り出した内容物を眼に落とす。
その一時的な清涼感は、気休めにさえならない。
10年も経てば銀幕症にも効く薬が作られるかもしれない。そう思いたい。
将来的な治癒への希望が根こそぎ刈り取られるかのように、視界の端に亀裂が走る。
忌々しい銀色の稲妻。
ココノエにとっては、もはや見慣れたものだ。
さながら割れた鏡の世界に引きずり込まれてしまったかのような感覚に陥る。
無数の亀裂が視界の中心に向かって伸びていく。
線と線が中心で交わる前に、ココノエは瞼を落とす。
そのまま、10秒。
瞼を上げる。亀裂の入った視界は、完全に元の視界へと復元された。
そして、1秒経過。
亀裂の再来。
また瞼を落とす……10秒……
――もしも、この亀裂が中心に達したら
ココノエは、携帯端末を操作して部屋の窓を開ける。
浮かびかけた不穏な思考を洗い流すつもりで、外から吹き込む冷たい夜風に当たった。
冬に吹く風からは、思考を奪うには十分な刺激を全身の皮膚や神経に得られる。
――このまま暖房を消して眠れば凍え死ねるだろうか
ギュッと、目を閉じる。
痛みを感じるほど眉間に寄った皺を指先で押すように撫でながら、スリープ状態のディスプレイに視線を向ける。
ココノエは操作デバイスを動かし、画面を復旧させようとした。
いつも通りに”日記”を書いて、開けた窓も閉めてから、暖房も消さずに眠る。
そのつもりだった。
操作デバイスを動かしても、一向に画面が点灯しない。
――センサーの故障?
ココノエは、操作デバイスを持ち上げて確認しようとする。
その直後の事だった。
突然、消灯していた筈のディスプレイが、局所的に緑色の光を発した。
《おいでよ、ココさん》
《わたしと一緒に、やさしい世界を作ろう。》
異常な光景だった。
未だ点灯していない筈のディスプレイに、緑色のピクセル文字が並んでいる。
それはさながら画面の上に蛍光インクを直接塗ったかのような不自然さを放っていた。
ココノエは、ただ当惑した。ただただ、気味が悪かった。
身体が硬直し、握っていた操作デバイスが手から落ちる。
異常は、その光景だけでは無かった。
瞼を閉じられない。軽い瞬きすらも封じられている。
視線を動かせない。
顔も、顎も、首も。全身、動かせない。
まるで全身を昆虫標本キットの針で固定されたかのようだった。
1秒経過。視線の端々に亀裂が走り始め、そのまま中心へと向かっていく。
2秒、3秒。声が出せない。亀裂同士が入り乱れている。
6秒、7秒、8秒。デスクの脚に備え付けられたナースコールの子機まで手を伸ばそうとする。
9秒、10秒、11秒、12秒。視界が、今にも粉々に砕けそうだ。
13秒。ナースコールに手は届かなかった。
無数の亀裂が、遂に視界の中心部に到達する。
銀色の線が、全て繋がった。
――銀幕? オーロラ?
改めて思う。この病を最初に発見した学会員のネーミングセンスは最悪だ。
だって、これはどう見ても
――蜘蛛の巣だ。
灰色の荊を束にして作られたような巨大な手が、ディスプレイの液晶パネルを突き破りながら出現した。
それは、九重晶(ココノエ アキラ)という人間が、その世界で見る最後の光景となった。
疑問や畏怖などといったヒト並の思考を挟む余地は一切与えられない。
荊の手は、ココノエの全身を優しく包みこんだ。
プロローグ†
“大地の国〈パトスグラム〉”のラミーシャ地区。
そして、その最南端に建造された”風令塔”の、更に南方。
およそ大陸の中心に位置し、周囲の”九大国”に通じる〈名前の無い国〉。
人口が千人にも満たない集落と見紛うほど小さな国の門前に、二名の外交官が立つ。
革張りの靴底が、石畳で舗装された地面をコツンと衝く。
ボロ布で継ぎ接ぎされた灰色のローブを纏った小柄な女――アルフ=プルサスが夕日色の髪を掻き上げ、額に浮いた汗を外套の袖で拭う。
「えぁぁぁ……火の国さんとの交流会なんて久しぶりで忘れてたけどぉ……」
同じくボロを纏った痩身で長身の女――リノ=サージマインが、群青色に輝く長い黒髪を掻き分けて頬を伝う汗を避ける。
「ヒガンと比べると、やっぱり暑いわね」
「火の国さんって、真夏に行っても涼しいですよねぇ。名前の割にぃ」
“火の国〈ヒガン〉”は、元々は全ての空間が白銀の霜(もや)に覆われた極寒の土地だった。
今でこそ多種多様な動植物が生存可能な上、他所から訪れた人間が不自由なく快適に暮らせるほどの環境が整っているが、それも九霊神の一柱”火の霊神〈エンラ〉”が支配者として君臨してからの事である。
「へぁぁ。憧れちゃうなぁ」
アルフは、物惜しげに〈ヒガン〉のある方角をチラリと見た。リノは、その様子を見て呆れる。
「貴女、もう〈ヒガン〉に住んでるようなものじゃないかしら」
「あぇぇ? そうです?」
「まさか向こうの民宿に、アルちゃん専用の部屋が用意されてるなんてね」
「あ、あぇぁ……」
アルフは、顔を赤らめて照れながら傀儡義肢である右脚の爪先でグリグリと地面を擦る。
「アタシもビックリしたんですよぉ。アザミさんに教えられてぇ、初めて知ったんですからぁ」
アザミとは、”火の霊神〈エンラ〉”の眷属により構成される防衛部隊”燼桜衆”に身を置く人物の名だ。
同じく”燼桜衆”に所属するリュウバやランと共に、3年に一度催される交流会の案内役として定着している。
「燼桜衆の人たちってぇ、凄く優しいですよねぇ」
「そうね」
リノとアルフは、しばらく談笑しながら石畳の通路を歩いた。
雲の隙間を縫って溢れた槍のように鋭い陽射しが、風で磨かれた石畳を燦然と反射する。
「日除けが必要じゃないかしら、この通路……」
「それぇ、雷の国さんのお医者さん達も言ってましたねぇ。”日傷中毒”に気をつけた方が良いってぇ」
「近い内に水路を延ばしましょう」
「城に帰ったら王様に相談ですねぇ」
やがて大きく厳つい石門の前まで辿り着き、その右端にポツンと寂しげに増設された小さな旅行者用の入口を開ける。
扉の内――検問所に充満していた冷たい空気が、リノとアルフの身体を柔らかく通り過ぎた。
「涼しい! すごく涼しいです、リノさん!」
「あら、ほんと。生き返るわ」
東西南北の門に設置された馬車を全台収容しても余裕がある、大きな検問所。
その部屋の四隅に設置された”氷壺”から溢れ出す靄(もや)は、ほとんど床一面を埋めていた。
検問所の責任者が”大地の国”から趣味で取り寄せた枯葉模様のロングカーペットが、かろうじて見えるぐらいだ。
「ひゃあっ。冷凍庫かってーの!」
「……ちょっと贅沢ね」
入国審査官の役目を担う男――クロマタを見ながら、リノは言う。
しかし、返事は無い。
クロマタは安楽椅子に背中をもたれて腕を組みながら、牛鬼の頭蓋骨で覆われた頭を前後にコクリコクリと揺らすばかり。
「リノさん! クロマタの奴、たぶん寝てますぜ!」
「あらあら」
リノは”氷壺”に蓋を落とす。冷気の流れは止まるが、充満した冷気は肌を劈くほどである。
「クロマタ、起きなさい。クロマタ」
リノは、クロマタの肩を揺する。しかし、やはり起きない。
リノは、痺れを切らしクロマタの頭部を牛鬼の頭蓋骨ごと張り手する。
「ぎゃあっ」
クロマタは、嗄れた声で悲鳴をあげる。
リノの張り手によってズレた頭蓋骨を直しながら、クロマタは二人の存在に気付く。
「んっ? リノ姉に、アルちゃんか……おかえり」
クロマタは大きく欠伸をする。牛鬼の頭蓋骨の眼窩に、それぞれ小さく鬼火が灯る。
アルフは、不満げにクロマタの胸板を小突きながら言う。
「やっぱり寝てましたね! こいつ!」
クロマタは、アルフの頭を撫でながら弁解する。
「しょうがねぇよう。俺ぁ、今朝から重労働だったんだ」
クロマタは、再び欠伸をこぼす。リノは興味深げに尋ねる。
「あら、珍しい。何かあったの?」
クロマタは自分の頭をさすりながら、嗄れた声で欠伸混じりに答える。
「今朝、いきなり城に変な雷みたいなのが落ちて……」
「それで?」
「なんと我らが王様に直撃したんですわ」
リノとアルフは、血の気が引いたまま検問所の扉を突き破る勢いで押し開け、城まで走った。